第17話 返す服と、返したくない気持ち

翌朝、教室へ入ると、瀬川が紙袋を抱えていた。


俺に気づいた瞬間、少しだけ肩が揺れる。すぐ笑おうとしたが、いつもの顔にはなっていなかった。


昨日、瀬川は俺の部屋に来た。雨で濡れて、俺の服を着て、俺の部屋でほうじ茶を飲んだ。服を貸しただけ。濡れた制服が乾くまで休ませただけ。そう説明すれば何もおかしくない。


それなのに、紙袋を見るだけで、昨日の光景が戻ってくる。


俺のパーカーを着た瀬川。袖が余って、指先が隠れていた瀬川。マグカップを両手で持っていた瀬川。


……思い出すな。


そう思うほど、余計に思い出した。


俺が席に着くと、瀬川は紙袋を机の端にそっと置いた。


「久住くん、これ……昨日のパーカー。ちゃんと洗ったから。柔軟剤、うちのやつになっちゃったけど、変な匂いにはなってない……はず」


そこで瀬川は、自分の言葉に引っかかったように止まった。


匂い。


俺には何が引っかかったのか分からない。ただ、瀬川の頬が少し赤くなった。


紙袋を受け取ると、中には畳まれたパーカーが入っていた。昨日の雨の湿り気はもうない。


「悪いな。洗わせて」


「ううん!借りたの私だし。むしろ返せてよかった。昨日、家で見た時にちょっとびっくりしたんだよね。自分の部屋に久住くんの服があるの、思ったより落ち着かなくて。紙袋に入れても、そこにあるって分かるから」


言ってから、瀬川は慌てて目を逸らした。


「変な意味じゃないよ?借り物だから、ちゃんと返さなきゃって思っただけ!」


「分かってる」


本当に分かっているかは怪しい。ただ、俺も紙袋を受け取っただけで昨日のことを思い出している。人のことは言えなかった。


瀬川は俺の手元をちらちら見る。


「……今、開けないでね。ちゃんと畳んだけど、なんか恥ずかしいから。あと、私の家の匂いがするかもしれないし」


「別に気にしないぞ?」


「気にしないのも、それはそれで困るんだけど……!」


瀬川が机に伏せるように顔を逸らした時、白鳥が教室に入ってきた。


「おはよー。何その紙袋。朝からプレゼント交換?」


瀬川の肩がびくっと揺れる。


俺は紙袋を机の下に置きながら答えた。


「ああ、昨日貸した服を返してもらっただけだ」


白鳥の動きが止まり、瀬川も止まった。


説明としては間違っていない。間違っていないが、言い方が悪かったらしい。


白鳥は俺と瀬川を交互に見て、口元だけ笑わせた。


「久住……お前、今の説明で何も起きないと思ってるなら、そこそこすごいぞ?」


「雨で濡れたから貸した。それだけだ」


「うん。本当にそれだけなんだろうなって分かるのが、逆に久住だわ」


白鳥はそれ以上深掘りしなかった。瀬川が本気で困っているのを見て、手前で止めたのだと思う。


瀬川は小さく息を吐いてから、俺の肩を見た。


「久住くん、昨日ちゃんと温まった? 私の服のことばっかり気にして、自分の方を適当にしてたでしょ」


「着替えたし、温かいのも飲んだ」


「本当? 久住くん、自分のこと雑にしそうだから信用できない」


「昨日の瀬川に言われたくない。傘持ってたのに、俺の傘に入ったやつが言うな」


言ってから、瀬川が一瞬止まった。


俺も止まる。昨日の折り畳み傘の話を、教室で出すつもりはなかった。瀬川は少しだけ目を伏せ、それから照れたように笑った。


「……あれは反省してる。でも、嘘じゃなく言うって決めたから、次からはちゃんと言う」


「何をだ?」


「久住くんの傘がいい日もあるって」


声は小さかったが、俺には聞こえた。


雨の日は傘を使え。普通ならそれでいい。けれど昨日、瀬川は折り畳み傘を持っていた。それでも俺の傘がいいと言った。今日もまた、そう言った。


それをただ注意で終わらせるのは、少し違う気がした。


「まあ……嘘つかないなら、考える」


「……考えてくれるんだ」


「雨で濡れるよりはましだろ」


瀬川は一瞬だけ嬉しそうにして、すぐに口元を手で隠した。


「うん!じゃあ、次はちゃんと言うね!」


その顔を見ていると、こっちまで落ち着かなくなる。俺は教科書を出し、授業の準備をしているふりをした。


◇


昼休み、瀬川がほうじ茶を二本持って俺の席に来た。


片方を俺の机に置くと、少しだけ得意げな顔をする。


「昨日の続き。ほうじ茶、学校で飲めば普通の味に戻るかなって思って」


「昨日の味は普通じゃなかったのか」


「普通じゃないよ。久住くんの部屋で飲んだほうじ茶だもん。家で飲むのとも、学校で飲むのとも違った」


瀬川は自分で言って、少しだけ耳を赤くした。


「だから今日ので上書きしようと思ったんだけど、たぶん無理だった。ほうじ茶見たら、昨日のこと思い出す」


「上書きできてないな」


「うん。失敗……でも、嫌な失敗じゃないね」


瀬川はボトルを両手で包む。昨日、俺のマグカップを持っていた時と少し似ていた。俺はそれに気づいて、すぐに視線を外した。


すると瀬川が、バッグの中を探り始める。


「そういえば、昨日から髪ゴムが見つからなくてさ。家でも探したんだけどなくて。どこで落としたんだろ」


その言葉で、俺は朝のことを思い出した。


「それ、たぶん俺の部屋にあるぞ」


瀬川の動きが止まった。


「えっ?」


「洗面所の前に落ちてた。昨日、瀬川が帰ったあとに見つけた。持ってくるの忘れたから、明日でいいか?」


瀬川は何も言わなかった。


ほうじ茶のボトルを持ったまま、俺を見ている。目がだんだん大きくなる。何をそんなに驚いているのか、少し遅れて理解した。


瀬川の髪ゴムが、俺の部屋に落ちていた。事実としてはそれだけだ。だが、瀬川にとってはそうではないらしい。顔が一気に赤くなっていく。


「久住くんの部屋に、私の髪ゴムが……」


「落ちてただけだろ」


「そうだけど! そうなんだけど、事実そのものがちょっと強い……! 私のものが久住くんの部屋に一晩あったってことでしょ。しかも久住くんがそれ見つけたんでしょ。何それ。何か分かんないけど、すごく恥ずかしい」


瀬川はほうじ茶を持ったまま、机に額を近づける。昨日の匂いのことなど俺は知らない。知らないのに、瀬川はまた何かひとりで抱え込んでいるように見えた。


「捨ててないから安心しろ」


「そこは心配してないよ。久住くんが捨てるわけないって分かってる。ただ、私が久住くんの部屋に忘れ物したっていうのが、思ったより……うん。だめ。考えると顔が熱い」


「じゃあ考えるな」


「それができたら苦労してない」


瀬川はようやく顔を上げた。少し拗ねたような、でも困りきってはいない顔だった。


「明日、返して。ちゃんと受け取るから」


「分かった」


「あと……変なこと聞くけど、その髪ゴム、どこに置いてある?」


「机の上」


「机の上……」


瀬川はまた目を伏せた。


「私の髪ゴムが、久住くんの机の上……」


「そんなに気にすることか?」


「気にするよ。だって、久住くんの机って、勉強したり、ご飯食べたりするところでしょ。そこに私のものがあるんだよ? なんか、ちょっとだけ居座ってるみたいじゃん」


瀬川のものが、俺の部屋にある。


昨日は瀬川本人が、俺の部屋にいた。今日は髪ゴムだけが机に残っている。


居座っている、という言葉は変なのに、少しだけ分かる気がした。


「別に、邪魔ではないけどな」


何気なくそう言うと、瀬川が固まった。


「……そういうの、急に言うのやめて。邪魔じゃないって普通の言葉なのに、今言われると変に嬉しくなる」


瀬川は視線を逸らして、ほうじ茶を一口飲んだ。逃げるような飲み方だった。


紙袋はもう机の下にある。


パーカーは返ってきた。


でも、瀬川の髪ゴムはまだ俺の部屋にある。


昨日のことが、全部終わったわけではないみたいだった。


「明日、忘れずに持ってくる」


俺が言うと、瀬川は少し笑った。


「うん。お願い。……でも、ちょっとだけ変だね」


「何が」


「返してもらうものがあると、明日も久住くんと話す理由ができるところ」


瀬川は照れたように笑った。


「前なら、理由を探してた。でも今は、理由があると嬉しいし、なくても話したいって思う。昨日、嘘じゃなく言うって決めたから、これも言っておく」


俺は返事に困った。


困ったが、目を逸らすだけで終わらせるのも違う気がした。


「髪ゴムなくても、話しかければいいだろ」


瀬川は目を丸くした。


それから、ゆっくり嬉しそうに笑った。


「うん!そうする」


昼休みの教室はいつも通り騒がしい。何も特別なことは起きていない。


それなのに、机の下の紙袋と、俺の部屋に残っている髪ゴムのことだけが、妙に特別だった。


瀬川はほうじ茶のボトルを軽く振って、小さく言った。


「今日の味も、決まったかも」


「何だよ」


「返したのに、まだ少し残ってる日の味」


意味は分かるようで、分からなかった。


ただ、完全に分からないわけでもなかった。


俺はほうじ茶を飲んで、机の下の紙袋を一度だけ見た。返されたはずのパーカーは、昨日より少し違うものになっている気がした。

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