青いイルカ
拠点へ戻り、自分の部屋へ入ったあと、ユウはまず扉を閉めた。
かちり、と小さな音がする。
それだけで、今日一日の音が少しだけ遠ざかった気がした。
外縁の風。
銃声。
低い唸り。
怒鳴り声。
火薬と血の匂い。
そういうものは、まだ身体のどこかへ残っている。
けれど、扉の内側に入ったことで、ようやく一枚だけ距離ができた。
部屋の中は静かだった。
ベッド。
棚。
壁。
床。
相変わらず、それだけしかない。
それでも最初の夜に比べれば、もう少しだけ“自分が使う場所”として見えるようになっていた。
ベッドは、まだ使っていない。
今夜も多分使わない。
けれど、部屋そのものは前ほど落ち着かないわけではない。
入って扉を閉める。
上着を置く位置を決める。
武器の状態を見る。
少しだけ考えを回す。
そういう使い方なら、少しずつ身体へ馴染み始めている。
ユウは壁際へ寄り、ジャケットを脱いだ。
床へは置かない。
癖みたいな手つきで畳み、すぐ取れる位置へ寄せる。
SMGを手に取り、棚の下に置いた低い箱へ乗せた。
まずマガジン。
残弾。
汚れ。
動きの癖。
今日の戦闘を、頭の中でなぞる。
散発戦。
群れ。
右端の崩れ。
後方への抜け。
戦線を切って下げる判断。
自分の動きに無駄はなかったか。
抜けた個体への反応は遅れていなかったか。
前へ出すぎていなかったか。
サエの射線を切っていなかったか。
考える順番まで、もう身体へ馴染んでいる。
悪くはなかったと思う。
役目は果たした。
抜けた個体も止めた。
後ろへ食わせもしなかった。
それでも、足りないものはある。
火力だ。
SMGで足りないとは思わない。
コボルト相手なら十分通る。
だが、タチバナの位置から見れば、もう少し先を削れる。
もっと早い段階で潰せる。
一枚前を受ける火力としては、まだ差がある。
同じ前へ立っても、自分は遊撃寄りだ。
抜けたやつを切る。
崩れかけた場所へ差し込む。
その方が合っている。
けれど、トップの位置で線を維持する火力と判断は、まだタチバナの方が上だ。
その差を、今日一日でまた少し見せつけられた気がした。
ユウは小さく息を吐き、ボルトを引いて動きを確かめる。
引っかかりはない。
戻りも悪くない。
それでも、もう一度見る。
整備不良で死ぬ。
今日、それを見たばかりだ。
だから、ここを疎かにする気はない。
タチバナがやたら口うるさく整備を言う理由も、今ならよく分かる。
家庭では妙に詰めの甘いところが目につく男だが、仕事の話になるとあれでちゃんとしている。
そこは認めるしかない。
部品を布で軽く拭う。
部屋の静けさの中に、布の擦れる音だけが小さく響いた。
その時、扉が控えめに叩かれた。
ノックだった。
前みたいに聞こえないほど小さくはない。
ちゃんと扉越しに分かる音量だ。
ユウは一瞬だけ手を止め、それから短く言った。
「何だ」
扉の向こうから、少しだけ弾んだ声が返る。
「ユイです」
分かっていた。
この時間に、こんなノックをするのは多分一人しかいない。
「入っていいですか?」
そこまで聞くのか、とユウは一瞬だけ思った。
前なら、もう少し気軽に入ってきただろう。
それでも、変に待たせるのも違う。
「……ああ」
返すと、扉が開いた。
ユイは両手で何かを抱えていた。
帽子は脱いでいる。
白い髪が肩へ流れていて、その腕の中にあるものが妙に大事そうに見える。
ユウは低い箱の上のSMGを、少しだけ脇へ寄せた。
「何だ、それ」
ユイは部屋へ一歩入ってから、少しだけ照れたように言う。
「お礼です」
その言い方があまりにもまっすぐで、ユウは返事に少しだけ間を置いた。
「……何の」
「今日のです」
当然みたいに返ってくる。
「助けてもらいましたし」
そこまで言われれば、内容は分かる。
分かるが、物を持ってくるほどかとは思う。
ユイはさらに部屋を一度見回した。
ベッド。
棚。
壁。
やはり、ほとんど何もない。
それを見て、小さく言う。
「この前も思いましたけど、やっぱり寂しいです」
一昨日、似たようなことを言われた気がする。
その時はまだ、今ほどこの部屋を使っていなかった。
今も別に賑やかな部屋ではないが、前よりは“使う場所”にはなっている。
それでもユイから見れば、まだ寂しいのだろう。
ユウは腕を組むでもなく、ただユイが抱えているものを見る。
「……だからそれか」
「はい」
ユイは素直に頷く。
「置こうと思って」
普通なら断るところかもしれない。
だが、善意だというのは分かる。
お礼として渡したいのも分かる。
それに、この拠点はそもそもタチバナのものだ。
その娘が何か置くというなら、止める筋でもない。
断る理由を少しだけ探して、見つからなかった。
ユウは小さく息を吐く。
「……好きにしろ」
それを聞いた瞬間、ユイの顔がぱっと明るくなった。
「はい!」
返事が妙に嬉しそうだった。
ユイはそのまま部屋へ入り、棚の前へ行く。
少しだけ置き場所を迷ってから、いちばん目立つあたりへ小さな置物をそっと置いた。
置かれたのは、小さな青い置物だった。
つるりとした曲線の塊。
先が少し尖っていて、身体の横には短い突起がついている。
生き物なのだろうとは思う。
けれど、何をかたどったものなのかは、ユウには見当がつかない。
この部屋には明らかに似合わない。
似合わないのに、置かれた途端に、そこだけ妙に目立った。
ユイはそれを少し眺めてから、振り返る。
「イルカって言うらしいです」
ユウは棚の上の置物を見る。
「……いるか?」
聞き返した声は、ほとんど音をなぞっただけだった。
ユイはこくりと頷く。
「昔、海って所にいたらしいです」
「海?」
今度はそっちで止まる。
ユイは少しだけ目を瞬いたが、すぐに言い直すように続けた。
「ええと、水がすごくたくさんある場所、です。とても広くて、ずっと向こうまで続いてるみたいな」
それでも、ユウの中には形が浮かばなかった。
水がたくさんある場所。
広くて、向こうまで続いている場所。
言葉の意味は分かる。
けれど、実感がない。
知らないのだと、そこでようやくユイも気づいたらしい。
けれど、変に笑ったりはしなかった。
ただ、置物の背へ軽く指を触れる。
「お父さんに、昔買ってもらって……」
そこだけ、少し声の温度が変わった。
それからまたいつもの調子で、にこりと笑う。
「大事にしてましたから、ユウも大事にしてくださいね」
そこでようやく、ユウは少しだけ黙った。
自分の大事にしていたものを渡している。
この部屋が寂しいから置く。
それだけだ。
それだけなのに、妙に重い。
ユウは棚の上の青い置物を見る。
こんなものが自分の部屋へ置かれるとは思っていなかった。
しかも、よりによって一番目立つところへ。
「……分かった」
ようやく、それだけ返す。
ユイはそれで十分らしかった。
また明るく笑って頷く。
「はい」
それから満足したように一歩下がり、自分の置いた置物をもう一度見上げる。
本当に置きたかったのだろう。
その様子があまりにもそのままで、ユウは変に何も言えなくなった。
部屋の中に、さっきまでなかった色が一つだけ増えた。
壁際の寝床みたいな静けさの中へ、似合わない青がぽつんと置かれている。
違和感しかない。
なのに、嫌ではなかった。
ユイはそこでようやく用事が済んだらしく、扉の方へ向き直る。
「じゃあ、おやすみなさい」
「……ああ」
ユイは扉のところで一度だけ振り返った。
「ちゃんと大事にしてくださいね」
念押しだった。
ユウは少しだけ眉を寄せる。
「分かってる」
それを聞いて満足したのか、今度こそユイは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かになる。
また部屋に一人きりになる。
けれど、さっきまでとは少しだけ違う静けさだった。
ユウはしばらくそのまま棚を見ていた。
いるか。
海。
昔、タチバナに買ってもらったもの。
大事にしていたもの。
そういう言葉が、部屋の中へ妙に長く残る。
何もない部屋だと思っていた。
実際、ほとんど何もない。
ベッドは使っていない。
棚もまだ空いている。
壁も床も、そのままだ。
それでも今は、棚の上に小さな青い置物が一つある。
それだけで、部屋の見え方が少しだけ変わる。
ユウは壁際へ戻り、低い箱の上のSMGへ手を伸ばした。
整備の続きをするつもりだったのに、少しだけ手が止まる。
視線がまた棚へ向いた。
「……いるか、ね」
小さく零す。
何なのかよく分からない青い生き物が、下層の拠点の、何もない部屋の棚へ置かれている。
変だと思う。
変なのに、捨てる気にはならない。
ユウはやがて、また銃へ視線を戻した。
今日の戦い。
足りなかった火力。
整備。
立ち位置。
それでも、部屋の片隅に置かれた小さな青だけは、今までここになかったものとして、妙に目へ残り続けていた。
その夜、ベッドはやはり空いたままだった。
けれど部屋は、前より少しだけ“誰かのいる場所”みたいになっていた。
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