第5話 少女誘拐04
綺麗な花には棘がある。
――とは言うものの、触れたことのない僕には、そんな事実は知りようもない。
では僕は、知っていたならばどうしただろうか。
棘が指先を傷つけるまえに、さっと手を引いたのだろうか。
多分、そんなことはないだろう。
きっとなにも変わらずに、警戒感も無しに花に触れたのだろう。
もしかしたら、僕には飼育願望があったのかもしれない。
だから僕は棘ごと彼女を――。
いくらかが過ぎていく。
僕と少女が出会って、ただ視線を合わせるだけの季節が過ぎていく。
時間は幸せだった。
色のない世界は彩り豊かになり、僕は少女と会うのを楽しみにしていた。
そんな最中に、運命の一日はやってきた。
あの日はどんな日だっただろう。
始まりは確か、なにかが起こるなんて想定できない、ただただ普通の朝だったはずだ。
いつものように僕は目覚めて、いつものように支度を整えて、いつものように仕事に出かけて、ただそれだけの朝だった。
始まって終わるだけの一日だった。
だけど結局、見知ったゴールには僕はたどり着かなかった。
頭が真っ白なまま、玩具の手枷を買ったのを覚えている。
自分がなにをしているのかわからないまま、細い腕に手枷をはめたのを覚えている。
頭が真っ白なまま、玩具の手枷を買ったのを覚えている。
ふわふわとした夢は終わらず、今の今まで続いている。
きっとおそらく、明日も明後日も続いていく。
行き先の見えない終わりまで、白昼夢はずっとずっと続いていく。
改札をくぐって、ホームで僕は電車を待っていた。
利用客の多くない駅で、ただし混雑した通勤帯の数瞬で、いつものように少女を探した。
改札をくぐって、ホームで僕は電車を待っていた。
もうそれは習慣だ。
僕は彼女を探し、きっと彼女も僕を探し、目と目を合わせてお互い微笑むのだ。
もうそれは習慣だ。
ただ微笑んで、二人の逢瀬はそれだけだ。
そして僕らは電車に揺られる。
僕は会社に行って仕事をして、少女は学校に行って勉強をする。
そして僕らは電車に揺られる。
微笑みあった朝は幸運が訪れる。
迷信じみた思い込みだ。
たった僕一人だけの宗教だ。
神様は少女で、信者はたった僕一人だけだ。
季節感を乗せ、ふわりと風が吹く。
花の香りが届いた気がして、風の吹いてきた方に視線を向ける。
季節感を乗せ、ふわりと風が吹く。
可憐な花はそこにあった。
かきあげた髪を後ろに流し、少女は二つの目を僕と合わせる。
いつものように、ただにこりと微笑んでくれる。
かきあげた髪を後ろに流し、少女は二つの目を僕と合わせる。
いつもとは違って、少女は僕に歩み寄ってくる。
僕らはずっと離れていた。
二人目と目を合わせるだけで、過度な接近は禁じてきた。
それは暗黙の了解で、間違いを想起させる行動は控えてきたのだ。
――そう思っていたのは僕だけだった。
目の前に少女は立つ。
冷や汗が噴出して、心臓が外にまで音を漏らしている。
あたりはエアポケットのようだった。
運命に導かれたように、混雑する時間帯のくせに、そこには僕と少女しか存在しなかった。
いや、多分他にも人はいたのだけれど、僕の意識には誰も認識できなかった。
ただ僕は少女を見ている。
欲しくて止まなかった彼女を、体温すら感じる距離で眺めている。
ただ僕は少女を見ている。
手を伸ばしてはいけない花を、至近距離で見つめている。
少女は可憐だ。
つやのある黒髪を伸ばして、どこか古風な印象のある、目立たないようで目立つ美しい人だ。
触れれば壊れてしまいそうな、細く小さく、儚い存在だ。
少女は可憐だ。
突然時間が止まったら、人はいったいどうするだろう。
きっと果てしなく戸惑って、なんの行動もできないのだろう。
この時の僕はそんなだっただろう。
突然時間が止まったら、人はいったいどうするだろう。
一秒が、一秒が、じわじわと重みをもっている。
少女が近づいて一分と過ぎていないはずなのに、陽が暮れるほどに時間が経ったように感じる。
一秒が、一秒が、じわじわと重みをもっている。
束縛されたように僕は動けずにいる。
ややあって少女は口を開き、無限に引き延ばされた一秒を切り裂いていく。
束縛されたように僕は動けずにいる。
声を聞いたのは初めてだった。
鈴のころがるような声だった。
初めての言葉は脳裏に焼き付いた。
記憶が、思考が、自分を支えるすべてが真っ白に吹っ飛んでいく。
瞬間に、現実は時計の針を止める。
「わたしを誘拐してくれませんか――」
どう返答をしたか、僕はあまり覚えていないけれど――
花びらは掌に落ちてきて、そっと優しく。
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