バタフライ・エフェクト・ショウ

三角

第1話 ノイズとモーツァルト

 ――数キロ離れたインターポール本部。


『分析不能』


 エリオット・グレイは画面を睨んでいた。


 ――同時刻、地下鉄ロンドン線。午前七時四十二分。


 その車両は、トビー・マイルズにとって「暴動」の現場だった。


 金属と金属が悲鳴を上げながら擦れ合う高音。乗客たちの無数の靴が床を叩く不規則なリズム。誰かの安っぽい香水の匂い、そして思考を切り裂くような車内広告の点滅。


 視界の端を通り過ぎる窓の外の風景は、ただの黒いトンネルの壁ではなく、トビーの眼球を焦がすようなストロボ光の連鎖として認識される。すべての情報がナイフのようにトビーの皮膚を突き刺し、神経の束を逆撫でする。


 ――うるさい。うるさい、うるさい。


 トビーは背中を丸め、座席の隅で小さく膝を抱えた。二十四歳。社会という巨大な歯車に、最初から噛み合わなかった男。

 彼は震える手で、ポケットの奥から年季の入ったイヤホンを引っ張り出した。絡まったコードを解く指先が痙攣し、心拍数が耳の奥で激しいドラムを打ち鳴らす。


「……ごめんなさい、ごめんなさい」


 隣に座ったサラリーマンが、明らかに不審げな視線を投げかけてきた。その視線さえも、トビーには物理的な圧力となって胸を押し潰す。彼は自分の存在そのものが、世界という美しい楽譜の中に紛れ込んだ「汚点」のように感じられた。

 ようやくイヤホンを耳の奥まで押し込み、再生ボタンを押す。


 刹那――世界が、反転した。


 荒れ狂っていたノイズの濁流が一瞬にして凪ぎ、澄んだ水へと変貌する。

 地下鉄の軋み音は旋律のリズムに組み込まれ、乗客の足音は打楽器の心地よいアクセントになる。


 トビーの脳内で、殺風景な車両が鮮やかな色彩を帯びて変容した。無機質な天井からは光の粒子が舞い落ち、空気の揺らぎが、まるで春の訪れを告げる柔らかい花びらのように舞い踊る。


 トビーは小さく息を吐いた。


 ああ、これなら生きられる。ここだけは、僕だけの庭だ。


 しかし、その安らぎは長くは続かない。


 車両が急ブレーキをかけ、トビーの体は無防備に揺さぶられた。イヤホンが耳から外れ、再び世界が――引き裂かれる。

 急停止の轟音、人々の舌打ち、罵声、スマートフォンの電子音。

 トビーは再び、剥き出しの神経を雨あられのようにノイズに晒された。彼はあわててコードを拾い上げようとするが、指は空回りし、隣の乗客の足を踏みつけてしまった。


「……っ!」

「おい、気をつけろよ!」


 怒声が花びらを散らし、コンクリートに変える。


 トビーはただ、頭を下げて謝るしかなかった。僕がまた、世界を汚してしまった――。


 ――……


 ―……


「マイルズ!何度言えばわかるんだ、そこは洗剤の棚だと言っただろうが!」


 スーパー、グローリー・マートのバックヤードに店長の怒号が響く。

 トビーはびくりと肩を跳ねさせた。イヤホンを外すと、再び世界が凶暴なノイズへと引き戻される。視界の端で光の粒子は消え失せ、無味乾燥なスーパーの蛍光灯が、彼の網膜をジリジリと灼く。


「……すみません、本当に、申し訳ありません」


 彼はうつむき、腰を折った。


 手元が震え、運んでいた芳香剤の瓶が指から滑り落ちる。

 ガシャーン、と乾いた音がして、液体が床にぶちまけられた。床に広がった青い液体が、トビーの目には巨大な汚染の海のように見えた。

 それを拭こうとして、今度は背負っていたカゴの角が棚の端にひっかかり、整然と並んでいた缶詰がドミノ倒しのように崩落する。


「もういい!休憩だ、裏へ行け!」


 トビーは頭を抱え、逃げるように走った。


 走るたびに、周囲の陳列棚が迷宮のようにうねり、巨大な怪物となって迫り来る。僕はどうして、こんなに生きるのが下手なんだろう。

 誰かにぶつかり、謝り、またぶつかり。彼にとっての日常とは、地雷原をダンスするようなものだった。自分という存在が、周囲の調和を乱すノイズの発生源になっているようで、息をするのさえ申し訳なかった。


 休憩室の隅、埃っぽい空気の中で、彼は震えながらまたイヤホンを装着する。


 モーツァルト。


 また、世界に花が咲く。


 床の汚れが美しい模様に見え、店長の罵声が遠い遠い、意味を成さない風の音に変わる。


 トビーは震える両手をじっと見つめた。


 この手は、何かを壊すためではなく、ただ静かに何かを守るためにあるはずなのに。その夢を見ることすら、今の彼には許されていないように思えた。


 ――深夜十一時。退勤時間。


 冷え切ったロンドンの裏路地。街灯の光が、トビーの視界の中でシャンデリアのように優雅に揺らめいている。イヤホンからは、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番。トビーは、自分が今、宮廷の庭園を歩いているのだと強く念じることで、現実の汚れた石畳から心を浮かせた。


 だが、その幻想は突然、暴力的に切り裂かれた。


「――ターゲットを確認。排除しろ」


 路地の奥から、漆黒の戦闘服を纏った影が現れた。


 民間軍事会社【Aegis Crown】の精鋭部隊。彼らは機密情報の回収を命じられ、その過程で目撃した「不審な男」を、確率的に最も排除すべき対象と見なした。


「え……?」


 トビーは立ち止まった。


 イヤホン越しに、銃の安全装置を外す冷たい金属音が聞こえる。それは、トビーにとって世界で最も恐ろしい「不協和音」だった。


 殺気。恐怖。パニック。


 それらが、トビーの繊細すぎる神経を一気に過負荷にする。トビーの脳内では、美しい花びらが炎に包まれ、庭園が崩壊していく。


「ひっ……!」


 反射的に、トビーは手に持っていたスーパーのレジ袋を放り投げた。


 ――その瞬間。


 モーツァルトの旋律が、最高潮のクレッシェンドを迎えた。

 トビーの「パニック」と「不注意」の連鎖が、物理法則を捻じ曲げるような奇跡を起こす。


 レジ袋から飛び出したコーラのペットボトルが、石畳の凹凸を跳ね、トリッキーな軌道で転がる。

 その勢いで部隊の一人が足を取られ、バランスを崩して仲間にぶつかる。

 倒れ込んだ拍子に、隊員が持っていたロケットランチャーのトリガーを、無意識に肘で押してしまった。


 ――ドォォン!


 轟音。


 だが、トビーにはそれが、音楽の激しいピアノソロの一節のように響いた。

 路地裏に積み上げられていた巨大なゴミ収集コンテナが衝撃でひっくり返り、中から溢れ出た廃材が、パズルのように隊員たちの頭上に降り注ぐ。

 トビーは、ただただ震えながら、目を閉じてしゃがみ込んでいた。


「いやだ、怖い、帰りたい……誰か、助けて……」


 彼が目を開けたとき、そこには煙と火花に包まれた路地と、気絶して重なった精鋭部隊の姿があった。


 何が起きたのか、トビーにはわからない。


 ただ、すごく「うるさかった」ことだけは分かった。


 世界がまた、彼を拒絶し、暴力で塗り潰そうとしている。

 トビーは耳元で音楽を切り、恐る恐るイヤホンを外した。


 静寂。


 ただ、遠くでパトカーのサイレンが、引き裂かれた音の残滓のように鳴り響いている。


「……僕、また、何か変なことしちゃいましたか?」


 誰もいない路地で、トビーは誰にでもなく謝罪の言葉を呟いた。

 震える手でイヤホンをケースにしまい、彼は足早にその場を去った。


 まるで、泥の中に落ちた花びらを拾い上げるように、慎重に、壊れやすい足取りで。彼はただ、静かな場所へ帰りたかった。ただそれだけだったのに。


 ――数キロ離れたインターポール本部。


 無機質なモニター画面に、その路地裏の光景が映し出されていた。

 AI戦術予測システムが、真っ赤な警告色で警告音を鳴らしている。


 エリオット・グレイは、その画面から目を離せなかった。


 彼は人生を確率で定義する男だ。どんな事象も、数値化できれば予測できる。論理の積み重ねが、この世界の正解だと信じていた。


 だが、今の映像はどうだ。


 隊員の配置、風向き、床の摩擦係数。すべてを計算に入れたとしても、あのアクションは「不可能」だ。

 トビーがコーラを落とした角度、倒れた位置、ゴミ箱の蓋が開いたタイミング――それら全ての変数が、まるで完璧なオーケストラの指揮棒に操られているかのように機能し、精鋭部隊を無力化した。


 エリオットの指がキーボードを叩く。解析結果は、ただ一言。


『分析不能』


「……なんだ、こいつは」


 エリオットは、眼鏡のブリッジを押し上げた。

 モニターの中の青年は、今にも泣き出しそうな顔で、自分自身の足元を気にしながら逃げ去っていった。

 兵器の冷酷さは微塵もない。そこにいるのは、ただ、極端に不器用で、極端に壊れやすい、一人の青年だ。


 エリオットの中で、確率論が微かに揺らいだ。


 合理性を信仰してきた男の胸の奥で、今まで一度も聞いたことのないような、ノイズのような感情が蠢く。


「予測不能因子、か」


 彼は呟き、その青年の名前を入力する。

 トビー・マイルズ。


 世界を支配する確率の海の中で、唯一、計算を拒絶する「エラー」。


 明日から、この男を監視する。

 エリオットはそう決めた。


 それが、世界最強の戦術士と、世界で一番生きるのが下手な青年との、奇妙なバディ・ドラマの始まりだとは知る由もなく。


 トビーは今頃、アパートのベッドで震えながら、明日のスーパーのシフトのことだけを考えているはずだ。

 世界が彼を暗殺者と誤解していることなど、夢にも思わずに。


 だが、トビーの目にはまだ見えない花が咲いている。


 どんなに荒んだ世界でも、彼の音楽が流れる限り、そこは美しい庭園になる。

 その美しさに、エリオットという「合理の騎士」が気づくのは、もう少し先の話だ。

 深夜のロンドンは、トビーが去った後も静寂を保っている。


 だが、確実に何かが動き出していた。


 運命という名の、小さく、しかし破壊的なバタフライが、今、翼を震わせたのだ。

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