第29話 死諸葛、生達達を走らせず

五丈原の夜明けと共に昇った旭光は、蜀漢の軍勢に前代未聞の生命力を与えていた。


一度は死の淵へと沈みかけた諸葛亮孔明の完全なる復活。


そして東路から中原を震撼させて乱入した関羽・張飛の激流、さらには夏侯覇の帰順という驚天動地の軍報は、魏の最後の砦たる太尉・司馬懿仲達の防衛計画を根底から揺るがしていた。


「諸葛亮は生きている。それも、以前より遥かに精強な覇気を纏ってな……」


渭水を背に築かれた魏軍の本陣で、司馬懿は氷のように冷たい視線で地図を凝視していた。


彼の長年培われた直感は、いま目の前にいる蜀軍が、歴史上最も危険な状態にあることを告げていた。


病を克服した臥竜の知略に、関羽という生きた「軍神」の武勇が完全に融合しているのだ。


正面からぶつかれば、いかに魏の精鋭といえども一瞬で粉砕される。


「諸葛亮の狙いは、我が軍を渭水から引き剥がし、一気に長安へと突き抜けることだ。ならば、我が策は一つ。徹頭徹尾の持久戦である。打って出てはならぬ。諸郡の城壁を固め、蜀軍が糧食を使い果たし、遠征の疲弊によって自滅するのをただ待つ。関羽が来ようとも、諸葛亮が挑発しようとも、この司馬仲達、一歩も陣から出んぞ」


司馬懿は諸将に厳命し、幾重もの逆茂木と土塁、そして深い塹壕を巡らせた「絶対不落の要塞陣」を構築した。


それは、蜀軍の焦りを誘い、その刃を摩耗させるための、冷徹極まる「時間の罠」であった。


しかし、陣中に籠もる司馬懿の予測は、この世界線において、孔明の背後に立つもう一人の天才の存在によって、すでにその前提を覆されつつあった。


五丈原の蜀軍本陣では、孔明が広げられた図面を前に、姜維や馬謖、そして前線から一時帰還した関羽と共に、次なる一手の検証を行っていた。


机の上に置かれていたのは、成都の黄月英が夫の養生法と共に前線へと送り届けていた、数理と機巧(からくり)の設計図の束であった。


彼女は夫の体調を救っただけでなく、蜀軍の「最大の弱点」である兵力の少なさと、魏の強固な城塞を打破するための「新兵器」を、長年の研究によって完成させていたのだ。


「月英が改良を重ねた『元戎』……十本の矢を同時に、しかもこれまでの倍の射程で放つ新型連弩です」


孔明が白羽扇で図面を指し示す。


「さらに、この機巧の車輪と木組を組み合わせた『木牛流馬』による迅速な補給。

そして、地形そのものを機巧によって変貌させる『からくり陣(八陣の法・改)』。

これらがあれば、司馬懿がどれほど深く陣に籠もろうとも、その壁ごと奴を引きずり出すことができます」


「なるほど、お見事です、丞相」 関羽が美髯をしごきながら、細められた瞳に鋭い光を宿らせた。


「司馬懿は我らが焦って攻め寄せるのを待っている。なれば、その持久戦の盤面そのものを、我が方の『からくり』によって魏軍の墓標へと変えて見せましょう」


「頼みます、雲長殿。あなたの圧倒的な武勇が陣頭に立ってこそ、この仕掛けは真の威力を発揮します。これより、司馬懿の『静』を、我が方の『動』をもって完全に粉砕いたします」


孔明の復活した頭脳と、月英の遺した知恵、そして軍神の武勇が、五丈原の荒野で静かに噛み合い、魏軍を破滅へと導く巨大な歯車が回り始めた。


数日後、蜀軍は渭水の平原へと静かに進出した。


しかしその行軍は、これまでの兵法では説明のつかない、奇妙な陣形をとっていた。


数千の兵たちが、月英の設計した巨大な機巧の盾車を並べ、大地を区切るようにして「八陣」の迷宮を瞬く間に構築し始めたのだ。


それはまるで、平原の中に突如として出現した「生きた城塞」であった。


さらにその陣の各所には、新型の十連弩が隙間なく配備されていた。


「仲達様! 蜀軍が我が陣の目の前で奇妙な陣を敷き、挑発を繰り返しております!」


夏侯覇の抜けた魏軍の右翼を守る郭淮が、焦燥を堪えきれずに司馬懿に注進した。


「慌てるな。諸葛亮の罠だ。無視せよ、ただ陣を守るのだ」


司馬懿は城壁の上から蜀軍の「からくり陣」を見下ろしたが、その精緻な木組と、一糸乱れぬ兵の動きに、胸の奥で正体不明の焦燥が広がるのを止められなかった。


蜀軍はその夜、月英の「からくり」の真価を発揮した。


夜陰に乗じ、蜀軍の盾車がギチギチと音を立てて変形し、魏軍の塹壕を埋めるための埋立車へと姿を変えたのだ。


さらに、魏軍の守備兵がそれを阻止しようと矢を放った瞬間、蜀の陣地から「ガガガガガ!」という凄まじい地鳴りのような音が響き渡った。


月英の新型連弩による、数万発の矢の嵐であった。


射程外だと思っていた場所から、文字通り空を埋め尽くすような鉄の雨が降り注ぎ、魏の城壁の守備兵たちは盾を構える暇もなく次々と射抜かれていった。


「な、何という射程と威力だ! これが本当に蜀の武器か!?」


さらに、混乱する魏軍の陣門に向けて、一本の「赤き雷霆」が突き刺さった。


先頭を切って突撃してきたのは、愛馬を駆り、青龍偃月刀を半月のように振り回す関羽雲長であった。


「司馬仲達! 陣に籠もりて命を惜しむか! 漢の軍神の刃、その首で受け止めよ!」


関羽の圧倒的な武勇の前に、新型連弩で大損害を受けていた魏の先鋒陣地は、一瞬にして切り裂かれた。


関羽が一振りの大刀を振り下ろすたび、魏軍の防衛線は文字通り消し飛び、その背後から馬謖と姜維が率いる精鋭が、月英の機巧陣を前進させながら魏の要塞を内側から食い破っていった。


「おのれ、諸葛亮……! ここまでの兵器と陣形を用意していたというのか!」


司馬懿はついに、自らの「持久戦」という前提が、月英の機巧によって完全に過去のものにされたことを悟った。


籠もっていれば、ただ新型連弩の餌食となり、からくり陣によって陣地を一つずつ削り取られて全滅を待つばかりとなる。


「全軍、打って出よ! 蜀軍の機巧が完成する前に、関羽の首を討ち取るのだ!」


司馬懿は苦渋の決断を下し、ついにその重い陣門を開けて、すべての精鋭を平原へと出撃させた。


それこそが、孔明が描き、司馬懿が最も避けたかった「決戦の盤面」であった。


渭水の平原は、両軍の意地と血が激しくぶつかり合う、巨大な修羅場と化していた。


司馬懿率いる魏軍の精鋭は、大国の意地を懸けて関羽の部隊へと殺到したが、孔明の指揮する「からくり陣」は、魏軍の突撃をまるで底なし沼のように吸収し、分散させ、各個撃破していった。


「諸葛亮! お前はどこにいる!」 司馬懿は乱戦の中で四方を見渡した。


すると、陣の最も高い高台の上に、静かに四輪車を止め、白羽扇を動かす男の姿があった。


諸葛亮孔明。


その表情は、かつて司馬懿が「死期が近い」と確信していた頃の衰えなど微塵もなく、まるで天の意思を代行する神の如き冷徹さと、みなぎる生気に満ちあふれていた。


「司馬仲達。あなたの知略は実に見事でした。なればこそ、私は妻の知恵を借り、関羽殿の武勇を以て、あなたの『時間』を奪わねばならなかった」


孔明の言葉が、風に乗って司馬懿の耳へと届くようであった。


史実においては、「死せる諸葛、生ける仲達を走らせる」という、孔明の死後の退却戦における一幕が有名である。


しかし、この世界線においては、全く異なる言葉が、魏の将兵たちの間で戦慄と共に語り継がれることとなる。


「――死諸葛にあらず、生臥竜の旭光、生達達を走らせず!」


生き長らえた本物の天才の前に、司馬懿のすべての策略は看破され、退路すらも月英のからくり陣によって完全に封鎖されていた。


走ることすら許されぬ、完全なる包囲網。


関羽の青龍刀が魏の本陣の巨旗を叩き斬り、張飛の東路からの勝利の報せが轟く中、司馬懿はついに天を仰いだ。


「……天は、なぜ私と同じ時代に、あの男を、そしてあの夫婦を遣わしたのだ……」


五丈原の平原を埋め尽くした、蜀漢の完全なる勝鬨。


宿敵・司馬懿の持久戦を完璧に打ち破り、長安への扉を完全にこじ開けた諸葛孔明。


軍神の武勇と、内助の功が織りなした歴史上最大の智勇戦は、蜀漢の宿願成就へ向けて、決定的な勝利の終わりを告げるのであった。

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