第20話 自分だけの居場所
退職して最初の一ヶ月、彼女は何もせずに過ごした。
落ち込んでいたわけではない――意識的に、空白を急いで埋めようとしなかったのだ。板橋のアパートを正式に退去し、六畳の部屋にあった荷物すべてを二つの段ボール箱と一つの旅行バッグに詰めて、浅草へと引っ越した。あの亀裂は、もはや手の届く天井の上にぶら下がってはいなかった。彼女は数日かけて、その二つの箱の中身を一つ一つ新しい部屋に収めていった――荷物は多くなく、半日もあれば片付く量だったが、わざとゆっくりと進めた。まるで箱を開ける動作を通して、自分の体温とこの部屋との関係を改めて測り直しているかのようだった。
食器はキッチンの戸棚へ。服は寝室のクローゼットへ。牧原がくれた本は枕元に。榎本から送られてきたイチョウの葉は、今読んでいる本の間に挟んだ。特に意識して並べたわけではなく、それらは自然と同じ部屋に共存していた。まるで、この新しい空間が、まだ形を成しきれていない誰かを徐々に受け入れ始めているようだった。
四月。彼女はフリーの仕事を始めた。
本格的なキャリアプランではない――以前、丸越物産で築いた人脈を通じて、翻訳や資料整理の細々とした依頼を受けていた。仕事量は多くなく、収入も家賃と食費を賄える程度で十分だった。彼女はそれ以上のお金を必要としていなかった。必要だったのは、あのシステムを離れても自分の足で立てるかどうかを確かめることだった。彼女はできた。そのすべての依頼を期限通りに納品し、クオリティも在職時と変わらなかった。最初の報酬を受け取った日、彼女は浅草近くの小さな居酒屋で一人でビールを一本飲んだ。そのビールの味は、彼女にとってとても特別だった。
彼女はスマートフォンを見る頻度を減らした。意図的ではなく、もう誰かのスケジュールにいつでも応じる必要がなくなったからだ。彼女は以前は気づかなかったことに目を向けるようになった――窓の外のケヤキの新芽がいつ芽吹いたのか、近所のパン屋は毎週水曜日が定休日であること、夕方アパートから川辺まで歩くのに七分半かかること。これらの情報は何の役にも立たないが、一つ一つ集めていくうちに、彼女は気づいた――自分のための生活地図を作っているのだ。どこかに到達するためではなく、その中で自分の位置を確かめるために。
五月のある夕暮れ、彼女は榎本からメールを受け取った。手紙ではなく、メールだった。とても短い。
**大阪の桜はもう終わった。来月、東京に出張がある。そのとき、また会えますか。**
読み終えて、すぐには返信しなかった。彼女は立ち上がり、窓を開けて、五月の夕方の風を部屋に招き入れた。浅草の空は晩春特有の淡い青色で、雲が速く流れていた。彼女はしばらく窓辺に立ち、その後机に戻って、二文字だけ打った。
**会えます。**
送信。そしてパソコンを閉じ、薄手の上着を羽織って、散歩に出かけた。川沿いを長く歩いた。街灯が灯った。家に戻り、シャワーを浴びて、早めに床についた。翌朝目覚めたとき、窓の外の光はいつもと同じ――特別ではないが、確かに彼女のものだった。
彼女の一部は、まだどこへ向かうのか分からないままだった。しかし、その分からないという感覚は、恐怖から、受け入れられる不確かさへと変わっていた。彼女は起きて、お湯を沸かし、お茶を淹れ、机に向かって仕事を始めた。ごく普通の日の朝のように。そして、彼女はすでに自分自身の人生の主人だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます