第17話 峠

二月。春の前触れはまだ訪れず、東京の空気には最後の寒さが残っていた。高梨香織は板橋と浅草の間を行き来する回数が徐々に定まってきた――毎週、浅草で三、四泊し、残りの日は板橋の六畳のアパートで古い荷物を整理していた。まだ正式に退去の手続きをしていない。どうしても手放せなかった――あのひび割れは、ある意味で彼女の出発点を象徴していた。たとえ、もはやそのひびの下で眠る人間ではなくなったとしても。


ある日の昼、田中が昼休みに珍しく自分から口を開いた。彼は湯呑みを手に窓辺に立ち、彼女を見ずに、まるで窓の外の天気に話しかけるように言った。


「高梨さんは、決断が早い方ですか、それとも遅い方ですか?」


彼女はコンビニで買ったサンドイッチを食べていたが、手を止めた。


「……遅い方だと思います。」


田中はうなずいた。「僕もそう思います。」そう言って、茶を飲み干し、自分の席に戻った。彼が何を言いたかったのか、彼女には分からなかった――いや、本当は分かっていた。ただ、それを認める準備がまだできていなかった。


その週の金曜日、彼女の机の上に社内便の封筒が置かれていた。表書きに名前はなかったが、手に取った瞬間、牧原の仕業だと分かった。封を開けると、中にはA4のコピー用紙が一枚。手書きで三行だけ、こう記されていた。


来週月曜――それが君が社長室を離れるかどうか決める日だ。

僕が見たいのは、君の最終的な去就ではなく、どこでその決断を下すかだ。

午前十時、浅草のアパートで待っている。


そのメモを読み終え、彼女はしばらく動けなかった。来週の月曜――自分で決めた期限まで、あと三日。彼はその日、何も問いはしない。ただ、彼女が浅草のアパートに来るかどうか――それだけだった。決定権はすべて、彼女の手に委ねられていた。


土曜日、彼女は新幹線に乗って大阪へ向かった。出発前、榎本真一には何も知らせなかった。新大阪駅に着いてから、彼にメッセージを送った。


大阪に来ています。会えますか?


返事は一分も経たずに届いた。場所だけが書かれていた。彼女が向かったのは駅前のビジネスホテルではなく、大阪城公園近くの小さな公園だった。到着すると、榎本はベンチに座って彼女を待っていた。スーツではなく、休日のセーターとコート姿で、手には何も持っていなかった。彼女の足音に気づくと、顔を上げた。そして、いつもの――緊張を隠そうとするような笑みで言った。


「――本当に来てくれたんだ。」


彼女はベンチの端に腰を下ろした。公園の地面は冬枯れの色で、水辺の水は澄み切っていた。しばらく黙って言葉を探し、それから口を開いた。


「月曜、私は決断しなきゃいけない。」


「――決められそう?」


「――分からない。」


彼は前を見つめ、少し間を置いた。そして、彼女がまったく予想しなかったほど静かな声で言った。


「――決められなくても、いいんだよ。」


彼女は顔を上げて彼を見た。彼は依然として前を見ていた。しかし、その横顔には作り物の平静さはなかった――それは平静よりももっと本物に近い何かだった。悲しみでも怒りでもなく、すべてを受け入れた後にだけ生まれる静けさ。


「――言っただろう、僕は待つって。」


彼の言葉は極めて簡潔だった。余計な説明はなかった。彼女はその横顔を見つめ、数秒間、言葉が出なかった。


その日の夕方、彼女は大阪を離れた。榎本は改札まで見送った。今回も、彼はいつものように軽く手を上げて言った。


「――またね。」


彼女は振り返らなかった。振り返らなかった理由は自分でも分かっていた――もし振り返ってしまったら、もう一歩を踏み出せなくなるかもしれなかったから。


日曜日、彼女は板橋のアパートで一日中過ごした。何も食べず、本も読まなかった。ただ布団の上に座り、天井のひび割れを見つめていた。数ヶ月前、二十歳の身体で目覚めたその瞬間、最初に目にしたのがあのひびだった。数ヶ月後の今日も、彼女はそれを見上げていた。ひびはまだそこにあった。修復されていなかった。しかし、見上げる角度は、以前とは少しだけ違っていた。


月曜日。午前十時。


彼女は浅草のアパートの前に立っていた。鍵はバッグの中。彼女はそれを取り出し――そして鍵穴に差し込んだ。


その部屋で、牧原が彼女を待っていた。

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