第13話 嘘が上手くない人と、絶対に離れない人

 広場に静寂が戻ってから、しばらく誰も動かなかった。

 クルドが転移で消えた後に残ったのは、崩れかけた結界の痕跡と、石畳に走ったひび割れと、月明かりだけだった。黒い霞は少しずつ薄れて、夜の空気に溶けていく。

 俺は杖を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。

 手が、まだ少し震えていた。


「ミリアン」


 アルクさんが隣に来た。肩に手を置かれて、俺は顔を上げた。


「怪我はないか」


「……ないです」


「そうか」


 それだけ言って、アルクさんは手を離した。でも、すぐには離れなかった。俺の少し前に立ったまま、周囲を確認している。その背中が、さっきまでよりずっと近くにあった。

 リイナが走ってきて、俺の腕をぎゅっと掴んだ。


「ミリアン、怖かったよね。大丈夫?」


「うん。大丈夫。ありがとう」


 リイナの手が温かくて、少しだけ胸の強張りがほぐれた。


◇


 エルネストさんが広場を静かに歩き回って、結界の痕跡を調べ始めた。手帳に何かを書き留めながら、独り言のように言う。


「内側から結界を解いた術式の痕跡があります。ただし、クルドの術式とは全く異なる構造です」


「つまり、別の誰かが」


「そうなります。かなりの手練れです。解いた跡が、ほとんど残っていない」


 俺は広場の暗がりをもう一度見た。

 さっき確かに感じた、あの気配。姿は見えなかった。でも、誰かがいた。そしてその誰かが、住民たちの拘束を解いて、結界に裂け目を作った。それがなければ、今頃どうなっていたか。


「群青の、マントだったと思う」


 口から出て、少し驚いた。


「……ミリアン、見えたの?」


 リイナが目を丸くする。


「一瞬だけ。でもたぶん」


 アルクさんが黙った。眉間に、わずかにしわが寄っている。


◇


 翌朝、行方不明になっていた住民たちが全員、街の外れで見つかった。

 意識はあって、怪我もない。ただ、どこにいたのか覚えていないらしく、ぼんやりした表情で家族に支えられていた。俺は一人ひとりに回復魔法と、意識を安定させる支援魔法をかけて回った。

 全員を診終えた頃には、昼をすぎていた。


「疲れましたわね、ミリアン」


 姉さんが、俺の隣に来てそっと肩に手を置く。


「少し。でも、みんな無事で良かった」


「ええ」


 姉さんが頷いた。それから、少しだけ声を落として言う。


「昨夜、怖かったでしょう」


「……怖かったです。動けなくて、情けなかったです」


「情けなくはありませんわ」


 きっぱりした声だった。


「ミリアンが動けなかったのは、住民の方たちを傷つけたくなかったからでしょう。それを情けないとは言いませんわ」


 俺は俯いた。

 分かっている。でも、あの瞬間に「もっとうまくやれたはずだ」という気持ちが消えない。詠唱を止めたとき、住民が傷つくかもしれないと思ったから止めた。それは間違いじゃない、はずなのに。


「姉さんは、怖くないですか」


「何が」


「ああいう場面。人質を取られて、どう動いても誰かが傷つくかもしれない場面」


 姉さんは少しの間、空を見上げた。


「怖いですわよ」


 あっさりと言った。


「ただ、怖くても動ける体と、怖くても待てる胆力は、ちゃんと別のものですわ。どちらも、積み重ねるものだと思っています」


 俺はその言葉を、ゆっくり胸の中に降ろした。

 怖くても待てる胆力。昨夜の姉さんが、ただ立っていたあの時間が、それだったのかもしれない。


◇


 街を出る前に、宿で荷物を整えていると、窓の外から声がかかった。


「少し、いいかな」


 聞き覚えのある声だった。

 窓を開けると、群青のマントがあった。仮面の男が、宿の壁際に立っている。昼間なのに、どこかひっそりとした場所を選んでいた。


「あなたでしたか。昨夜」


「さあ、どうだろうね」


 いつもの、煙に巻くような返し方だった。でも今日は、俺もあまり引き下がる気になれなかった。


「助けてもらいました。ありがとうございます」


 真っ直ぐに言うと、仮面の男が少しだけ黙った。


「礼を言われる筋合いはない。私の都合でやったことだ」


「それでも、助かりました」


 また黙る。仮面の下の目元が、かすかに動いた気がした。


「……あなたは、なぜ助けてくれるんですか」


「言っただろう。君を失うわけにはいかない」


「利用価値があるから、ですか」


「そうだ」


 即座に返ってきた。でも、なぜか今日はその答えがそのまま収まらない感じがした。利用価値があるから。それだけなら、もっと別の動き方があるはずだ。あの場で正体を明かして、取引を持ちかける方が、ずっと効率的なはずなのに。


「……嘘が上手くないですね」


 口から出てから、しまったと思った。

 でも、仮面の男は怒らなかった。少しの間置いてから、低く笑った。


「生意気なことを言う」


「すみません」


「謝るな。……嫌いじゃない」


 その言葉が落ちた瞬間、背後で廊下を歩く足音がした。


◇


 部屋の扉が開いて、アルクさんが顔を出した。

 窓の外の仮面の男を見て、一瞬で表情が変わった。


「……また来たのか」


「勇者殿も息災で何よりです」


「ミリアンから離れろ」


「嫌だと言ったら?」


「追い払う」


 二人の間に、火花が散る感じがした。物理的に何かが起きているわけじゃない。でも、空気が張り詰めている。

 俺は慌てて間に入ろうとして、でも何を言えばいいか分からなくて、ただ二人を交互に見た。


「アルクさん、昨夜も助けてもらったので」


「……分かってる。それでも、信用できない」


「信用していただかなくても構いませんよ」


 仮面の男が、涼しく言った。


「ただ、ミリアン殿が望む限りは、話をさせていただく。それだけです」


 アルクさんが拳を握った。何か言いかけて、でも俺の顔を見て、止まった。


「……ミリアン、お前はどうしたい」


 聞いてきた。珍しかった。この人が、こういう聞き方をするのは。

 俺は少しの間、考えた。


「……話を、聞きたいです。怪しいのは分かってます。でも、まだ何も分からないうちに遠ざけるのは、違う気がして」


 アルクさんが、黙った。長い沈黙だった。

 それから、大きく息をついた。


「……俺は、近くにいる」


「はい」


「絶対に、近くにいる」


 念押しするように、もう一度言った。俺は頷いた。


◇


 アルクさんが廊下へ戻ってから、窓の外を見ると、仮面の男がまだそこにいた。


「聞いていましたか」


「全部」


「……どう思いましたか」


 仮面の男は少しの間、何も言わなかった。


「勇者殿は、思ったより厄介だ」


 それだけ言って、マントを翻した。

 消えていく背中を見送りながら、俺は窓枠に手をついた。

 胸の中に、いくつかの感情が混在している。昨夜の怖さの残滓と、助けてもらった安堵と、アルクさんの「絶対に近くにいる」という言葉と、仮面の男の「嫌いじゃない」という声と。

 全部が、うまく整理できないまま積み重なっている。

 でも不思議と、悪くない気分だった。

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