第3話 ウチがもらう

 朝、台所に立ってから、少しだけ手が止まった。


 冷蔵庫を開ける。

 昨日の夜、無意識に二人分を考えて買っていた材料が並んでいた。

 鶏肉も、卵も、ほうれん草も、いつもより少し多い。

 癖というのは、思ったより抜けないらしい。


 俺は卵をひとつだけ取り出して、もうひとつを冷蔵庫に戻した。

 それだけなのに、胸の奥が少しだけ重かった。


 依織の分は作らない。

 そう決めたのは俺だ。

 依織が嫌だったことを、やめる。

 俺が勝手にやっていただけなら、やめるのが正しいと思う。


 分かっている。

 分かっているのに、弁当箱をひとつだけ出すと、台所がやけに広く感じた。


 いつもの淡い色の弁当箱は、食器棚の奥にしまった。

 見えるところにあると、手が伸びそうだったからだ。


 黒い弁当箱に、おかずを詰めていく。

 卵焼きは少し甘めになった。

 自分の分だけなら、別に甘くしなくてもいい。

 けれど、味つけを変えるところまでは頭が回らなかった。


 いつもの中身だった。

 ただ、渡す相手がいないだけ。

 蓋を閉める音が、妙にはっきり響いた。


 スマホは静かなままだった。

 依織からのメッセージもない。

 俺から送るメッセージもない。


 昨日までなら、この時間には『起きてる?』と送っていた。

 それをしないだけで、朝の流れがひとつ欠けたみたいだった。

 俺はスマホをポケットにしまった。


「……行こう」


 誰に言うでもなく呟いて、家を出た。

 通学路の角には、誰もいなかった。


 依織を待つ必要はない。

 そう思って、立ち止まらずに歩く。

 足取りは軽くない。

 けれど、昨日よりは迷わなかった。


 学校に着くと、教室はいつも通り騒がしかった。

 朝の雑談。

 誰かの笑い声。

 椅子を引く音。


 その全部が、いつもより少し遠く感じる。

 席に着いて教科書を出していると、依織が教室に入ってきた。

 目が合いそうになって、俺は先に視線をノートへ落とした。


 逃げたわけではない。

 ただ、何を言えばいいのか分からなかった。

 昨日の昼から、依織の顔を見るたびに、あの言葉を思い出す。


 彼氏でもないのに、彼氏みたいなことするよね。


 依織は、本気で俺を傷つけようとしたわけではないと思う。

 それは分かっている。

 だからこそ、どうすればいいのか分からない。

 悪意がなくても、言葉はちゃんと刺さる。


 午前の授業は、淡々と過ぎていった。

 板書を写して、問題を解いて、先生の話を聞く。

 普通の一日だった。

 ただ、昼休みが近づくにつれて、少しだけ胸がざわついた。


 昨日、依織は購買のパンを食べていた。

 今日もそうするのだろうか。

 それとも、弁当を持ってきたのだろうか。


 考えかけて、俺はシャーペンを置いた。


 いや、もう考えなくていい。

 依織が昼に何を食べるかは、俺が気にすることじゃない。


 チャイムが鳴る。

 昼休みになった。

 俺は鞄から弁当箱を取り出した。

 黒い弁当箱がひとつだけ。

 それを机の上に置いて、蓋を開ける。


 甘い卵焼きが見えた。

 昨日よりは、食べられる気がした。

 箸を手に取った時、机の横に影が落ちた。


「それ、影宮が作ったの?」


 顔を上げると、天羽羅依奈さんが立っていた。

 彼女は、いわゆるギャルだ。

 金に近い明るい髪。

 きれいに整えられた爪。

 制服は校則ぎりぎりなのに、なぜかだらしなく見えない。

 教室のどこにいても目立つ、クラスの頂点にいる人。


 クラスカーストの女王。

 俺とは、ほとんど関わりのない人だった。


「……うん」


「へえ」


 天羽さんは俺の弁当を覗き込んだ。

 近い。思わず体を少し引くと、天羽さんは気にした様子もなく笑った。


「一口ちょうだい」


「え?」


「卵焼き。うまそうだから」


 言われて、反射的に弁当箱を少し自分の方へ寄せてしまった。


「いや、これは」


「ダメ?」


「ダメっていうか、人に食べてもらうつもりで作ったものじゃないから」


「でも昨日まで、雪代さんには作ってたんでしょ?」


 その名前が出て、箸を持つ指が止まった。

 天羽さんは、悪びれた様子もなく言った。

 けれど、からかっているようには見えなかった。


「だから、いいじゃん。ウチにもちょうだい」


「あれは、俺が勝手にやってただけだよ」


「ふうん」


 天羽さんは少しだけ目を細めた。

 その視線が、妙にまっすぐだった。


「いいじゃん。影宮、多めに作ってるでしょ」


 言い当てられて、何も言えなくなる。

 実際、弁当箱にはいつもより少し多めに詰めていた。

 自分の分だけに慣れていなくて、加減を間違えたのだ。


 天羽さんは俺の沈黙を肯定と受け取ったらしい。

 机の上に身を乗り出して、箸を見た。


「あ、さすがに直箸は嫌?」


「それは、まあ」


「じゃあ、これ使う」


 天羽さんは自分の鞄から割り箸を取り出した。

 なぜ持っているのかは分からない。

 断るタイミングを失ったまま、俺は弁当箱を少しだけ前に出した。


「……無理して食べなくてもいいよ。口に合うか分からないから」


「そういうとこ、なんか影宮っぽいね」


 天羽さんは笑って、卵焼きをひとつ取った。


 教室が少しざわつく。

 当然だと思う。

 天羽羅依奈さんが、俺の席の前に立って、俺の弁当を食べようとしている。

 昨日までの俺なら、絶対に想像しなかった光景だ。


 天羽さんは卵焼きを口に入れた。

 数秒、黙る。

 その沈黙が妙に長く感じた。


「……うま」


 小さく漏れた声だった。

 それから、天羽さんはぱっと顔を上げた。


「え、なにこれ。普通にうまいんだけど」


「普通ならよかった」


「いや、普通じゃないし。店出せるじゃん」


「それは言いすぎ」


「言いすぎじゃないって。朱音、ちょっと来て」


 天羽さんが教室の向こうに声をかける。

 姫咲朱音、彼女もまたクラスで目立つ女子だ。


「え、なに? 羅依奈が男子の席にいるんだけど」


「影宮の弁当、うまい」


「は?」


 姫咲さんが目を丸くする。

 その周りにいた女子たちも、こっちを見た。

 教室のざわつきが、少し大きくなる。

 俺は居心地が悪くなって、視線を落とした。


「その、あまり、騒がないで」


「ごめんごめん。でもこれ、ほんとに影宮が作ったの?」


「うん」


「毎日?」


「昨日までは、そうだったけど」


 そこまで言って、言葉が止まる。


「もう、作らないよ」


 それだけで、空気が少し変わった気がした。


「いらないって、言われたから」


「ふーん」


 天羽さんは一度、教室の向こうを見た。

 つられて視線を向けると、依織がいた。

 依織は自分の席に座ったまま、こちらを見ていた。

 手には購買の袋がある。

 まだ開けていない。


 目が合った気がした。

 すぐに俺は視線を戻した。

 見てはいけないものを見た気がした。

 天羽さんは、そんな俺の反応も見逃さなかったらしい。

 少しだけ口元を上げて、もうひとつ卵焼きを取った。


「いらないなら、ウチがもらう」


 その声は、教室のざわつきの中でもはっきり聞こえた。

 俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 教室がまたざわついた。


「え、何その展開」


 御門が笑う声が聞こえた。

 でも、天羽さんがそちらを見ただけで、その笑い声は小さくなった。

 天羽さんには誰も逆らえない。


「天羽さん」


「なに?」


「そういうの、冗談で言うと誤解されるよ」


「冗談じゃないけど」


 返事に詰まった。


「影宮さ、昨日のこと、自分が悪いって思ってるでしょ」


 自分が悪い。

 そう思っていなかったと言えば、嘘になる。

 天羽さんは、俺の弁当箱を指で軽く示した。


「でも、これ作れるのって普通にすごいじゃん」


「別に、慣れてるだけだよ」


「慣れるくらいやってたんでしょ。じゃあ、すごいでいいじゃん」


 何も言えなかった。

 昨日は、恥ずかしいと言われた。

 彼氏でもないのにと言われた。

 重いものみたいに笑われた。


 でも今、天羽さんはそれを普通に褒めた。

 受け取って、食べて、うまいと言った。

 それだけのことなのに、胸の奥が少し軽くなる。


「……ありがとう」


「ん。もっと感謝して」


 天羽さんが笑う。

 姫咲さんが近づいてきて、俺と天羽さんを交互に見た。


「羅依奈が男子の弁当褒めるの、初めて見たんだけど」


「だってうまいし」


「へえ。影宮くん、そんなに料理できるんだ」


「す、少しだけ」


「少しだけでこれかぁ」


 姫咲さんも軽く笑う。

 その笑いは、昨日の教室の笑いとは違った。

 俺を変なものとして見ている感じがしない。

 からかってはいるけれど、踏みつけるような軽さではない。

 天羽さんは俺の前の席の椅子を勝手に引いて、そこに座った。


「今日、ここで食べる」


「え」


「いいでしょ。空いてるし」


 天羽さんはもう自分の昼食らしいコンビニのサラダとパンを机に置いている。

 本当にここで食べるつもりらしい。

 俺は困って、弁当箱を見る。


「俺、そんなに分けられる量ないよ」


「別に全部取ろうってわけじゃないし」


 箸を持ち直す。

 教室のあちこちから視線を感じた。

 当然のことだ。

 クラスカーストの頂点が、どうでもいいモブの席にいるんだから。

 天羽さんはパンの袋を開けながら、何でもないように言った。


「明日も作ってよ」


 箸が止まる。


「え?」


「ウチ用に」


 あまりに自然に言われて、すぐには返事ができなかった。


「……本気?」


「本気。今日の卵焼き、また食べたいし」


「でも」


「でも?」


「そんなことしたら、まわりの目とか、恥ずかしくないかな」


 天羽さんは一瞬きょとんとした。


「恥ずかしいかどうかは、まわりじゃなくてウチが決めるから」


 強すぎる。

 これがクラスの女王。

 昼休みの終わりまで、天羽さんは俺の前の席にいた。

 時々、卵焼きをひとつ取っては「やっぱうま」と言った。

 姫咲さんは隣で面白そうに眺めていた。


 俺は何度か困ったけれど、昨日みたいに息苦しくはなかった。

 昼休みが終わるチャイムが鳴る。

 天羽さんは立ち上がって、空になったパンの袋を丸めた。


「じゃ、明日もよろしく」


「ま、まだ作るとは」


「作ってくれないの?」


「いや、それは、その」


 俺はもごもごと口を動かした。


「俺なんかの弁当でよければ」


「言質取ったり」


 天羽さんは楽しそうだった。


「いらないって言われたくらいで、自分のいいところ捨てなくてよくない?」


 返事ができなかった。

 天羽さんはそれ以上は何も言わず、姫咲さんの方へ戻っていった。

 俺は机の上の弁当箱を見下ろした。

 卵焼きは、いつもより早くなくなっていた。

 唐揚げもひとつ減っている。


 誰かが食べてくれた。

 うまいと言ってくれた。それだけで、昨日から胸の奥に残っていた冷たいものが、少しだけ溶けた気がした。


 放課後、鞄に弁当箱をしまう時、ふと依織の方を見てしまった。

 声はかけなかった。

 かけていい理由が、見つからなかった。

 家に帰って、台所に立つ。


 冷蔵庫を開ける。

 材料はまだ少し余っていた。

 二人分の癖で買ってしまったものだ。


 昨日なら、それを見るだけで胸が重くなったと思う。

 でも今日は、少し違った。


 天羽さんは、明日も作ってと言った。

 それが冗談なのか、本気なのかはまだ分からない。

 天羽さんみたいな人が、どうして俺の弁当を食べたいと言ったのかも分からない。


 ただ、少なくとも笑わなかった。

 俺の弁当を、恥ずかしいものみたいに扱わなかった。

 卵を二つ取り出す。

 少し迷ってから、俺はそのまま二つとも台所に置いた。


「……天羽さん用、か」


 口に出すと、変な感じがした。

 でも、昨日ほど苦しくはなかった。

 明日の弁当箱をどうするか考えながら、俺は冷蔵庫から鶏肉を取り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る