部屋②
まこととはたまに出掛けるようになった。
二人で選んだ場所は、街外れや人気のない公園をただ歩いたり、博物館や美術館に行ったり。
あまり人が多くなくて、息苦しくもない場所が多かった。
まことの言葉を借りると。
「水槽の端っこの方を誰ともすれ違わないように歩いている感じ」
でも、それも終わりが来る。
長く雨が続くようになった。
降り続ける雨は溜まりすぎて、空気中に溶け始めている。じっとりとまとわりつく湿った空気に包まれる。どんよりとした鉛色の空が広がっていく。
不快ではあったけど、嫌じゃなかった。
ただ、出かけるのには少し面倒。
だから、そうした日は僕の家で過ごすようになった。
特に何をするでもない。
ただ……。
ふと、チャイムの音が響く。
インターホンを見ると、まことが映っていた。
ドアを開けてまことを迎え入れる。
「やっほ。元気?」
まことが部屋に来る、それだけで空気が入れ替わっていくのを感じる。
澱んで息苦しい空気が透き通って、楽に呼吸できるようになっていく。
「元気だよ。まことは?」
「うん、ぼちぼちだよ。でも、髪が……」
見ると、いつも真っ直ぐな鈍色の綺麗な髪が、湿気で少しはねている。
「こ、これでも頑張って戻そうとはしたんだよ?」
うまく整っていないことに納得していないのか、やたらと手ぐしで髪を整えようとしているが、どうやってもうまくいかないようで、少しだけ跳ねたままだった。
「飲み物、用意してくるから座ってて」
僕は用意しておいたアイスコーヒーとアイスティーをグラスに注いで、まことのところに運んでいく。
「はい、これ」
結露しても良いように、コースターを敷いて、グラスを置く。
「ありがと」
まことは喉が渇いていたのか、半分ぐらい一気に飲み干して言う。
「いつも思ってたけど、キミの部屋ってさ、綺麗に掃除はされてるけど何もないよね」
部屋の中を見渡すまこと。
冷蔵庫、電子レンジ、掃除機、ソファー、テーブルにベッド……それしかない。
「普段、何してるの?」
「……別に、何もしてないよ」
僕は少し言葉に詰まって答える。
大丈夫……嘘はついていない。
「そうなの?」
まことはそれ以上、聞いてはこなかった。
どう思ったのか、まことの顔を見たけどわからなかった。
「あ、そうだ。この前言ってたゲーム持ってきたからやろうよ」
そう言って、まことは鞄からゲーム機を取り出して、起動する。
ゲーム画面には、まことが持っているゲームがいくつか映った。その中に……見覚えのあるアクアリウムシミュレーションゲームがあった。
「あ……このゲーム……」
僕は迂闊にも思わず口に出てしまった。
「あ……これ? 知ってるの? 結構マイナーだと思うけど……」
「ああ、なんかどこかで……見たことあった気がするような……かも」
「そう……なんだ。あ、ほらこれだよ」
そう言ってまことが起動したのは今流行りのゲームだった。
「ちょっと休憩しよ」
まことはゲーム機をスリープにする。
コップに残っていたアイスティーを飲み干して、伸びをしている。
僕は空になったコップを持って、冷蔵庫に向かう。
中には少しの食材と、アイスコーヒーとアイスティーが入っている。
お代わりを注ぐと、アイスティーがちょうど空になった。
まことは紅茶が、特にアイスティーが好きみたいでいつも飲んでいる。
だから空になったボトルを洗って、新しくアイスティーを作っておく。最初は紅茶を普段飲まないからか、手間取っていたが今では大分慣れてきた。
お湯を沸かしている間に少し多めの茶葉を用意する。
沸いたお湯を注いでいくと茶葉が泳ぐ。
少しの間、お湯を見ていると薄らと茶色に……濁っていくように見えた。
いや……気のせいだ。
気を取り直して茶葉を抜く。あとは少し冷ましたら冷蔵庫に入れるだけだ。
コップを持って戻るとまことは少し考え込んでる様子で携帯電話を見つめていた。
「………………」
「どうしたの、携帯電話じっと見つめて」
「…………え? あ、ううん。なんでもない。気にしないで」
まことは携帯電話を机の上に伏せて置く。
「そう?」
携帯電話を見ては小さくため息をつく。最近のいつものまことの仕草だ。
たまに理由を聞いてみるが、同じようにはぐらかされる。
「はい、これ、お代わり」
「うん、ありがと」
まことはどこか誤魔化すようにアイスティーを飲む。
一瞬、眉を寄せるが頷いている。
「キミさ、わたしのために濃く淹れてくれてるよね」
ストローで氷をくるくると回している。
「氷がさ……溶けると少し薄くなるんだよね。なんか味がぼやけちゃう気がするんだ」
まことがいつも味や香りが少し際立つものを好んでいるのはなんとなく分かっていた。
ほんの少しの間、回っていた氷がゆっくりと止まるのを眺める。
「……そうだ、お腹空かない? 夕ご飯、作るよ」
まことはちらりと机の上に置いた携帯電話を見たあと、僕の方を見る。
「……うん。ありがとう」
はにかんで答えてくれた……けど、どこか何かに困ってるような顔だった。
正直、料理なんてほとんどしたことがなかった。
毎日、外食か惣菜か弁当。
でも、やってみようかなって思った。
何にしようか考えた時に思い浮かんだのはパスタだった。
まことがたまに喫茶店で美味しそうに食べてた。
何もなかったから、色々用意しないといけなかった。
そもそも、包丁も鍋もない。
必要な物を用意して、試しに作ってみた。
なんだか……味がぼんやりして美味しくなかった。
なんでか分からなかったけど、まことが食べているパスタと同じ物を自分でも食べてみたら分かった気がした。
少し、味が濃くて……料理の輪郭が分かる味。
試してみたら、それなりに美味しい気がした。
そうやって、いくつか、よくまことが食べてるパスタを真似て作ってみた。
今日作るのはその一つ。きっと今日も食べてくれるかなって、そう思って材料も用意してあった。
「ねぇ、何作るの?」
まことがキッチンに顔を出してくる。
「今日はパスタにしようかなって」
「パスタ! 楽しみだなー! 見てても良い?」
「良いけど…」
まことはやった、って呟く。
視線を感じて少し緊張するけど、前に作った手順を守って作っていく。
鍋からは水蒸気が立ち上っている。すぐに霧散して世界に溶けて消えていく。
麺を茹でて、材料を切って、少し多い調味料も用意して。
茹で上がったら氷水で冷やすのに、冷凍庫を開けて氷を取る。
「氷、たくさん入ってるね」
「飲み物にもいっぱい使うから」
茹でた麺を大量の氷で冷やして、あとは用意した調味料と材料とあえる。最後はお皿に盛り付けて。
「できたよ。運んでくれる?」
「うん、良いよ。……冷製パスタ、美味しそう」
「よだれ、垂らさないでね」
「しないよ!?」
そう言いながらお皿を運んでくれるけど、視線はパスタに落ちたままだった。
「キミさ、パスタ上手だね。
すっごい美味しかったよ。また作って欲しいな」
アイスティーの氷をまた回している。
「そう? じゃあまた作ろうかな」
「ほんと? やった。
あ、でも、今度は、わたしも手伝う……よ」
「うん、お願いしようかな」
まことは少し微笑えむ。
でも、視線は伏せた携帯電話に滑る。
僕はそれを気にしないことにして、冷凍庫に用意してあった物の話をしようとする。
「そうだ、この後……」
「あ、もうこんな時間だ。帰らないと」
僕は途中まで言い掛けた言葉を飲み込む。
「ごめんね?」
「いや、気にしないで。送ってくよ」
「うん、ありがと」
外に出ると雨は上がっていた。
夜の濡れてどこか冷たい空気が、微かな風に乗って運ばれてくる。
雨の季節の匂いがした。
会話はない。
濡れた足音だけが響いてついてくる。
でも、それで良いって思った。
少しだけ、ゆっくりと歩く。
隣を歩くまこと。
触れようと思えば、触れられる。
遠くない。今だってたまに手が触れて離れる。
でも……。
結局、駅の明かりが見えてくる。
いつもの帰り道。
「あ、電車来るみたい。じゃあ、またね」
「うん。また。気をつけてね」
まことは階段の前で振り返って、小さく手を振った後、見えなくなった。
電車の発車音が聞こえた。
まことは乗れただろうか。
駅を出ると帰宅ラッシュもピークを過ぎたのかあたりに人影はまばらだった。
まことを駅まで送って行った帰り道。
2人で歩いてきた道を1人で歩く。
さっきよりも、気温が下がったのか、少し薄着の服の中にまで濡れた空気が入ってきて身震いする。
自分の足音だけが響く中、ピロン、と音が鳴った。
『明日の夜、配信します』
配信者のまことの通知だった。
またすぐに、ピロン、と音が鳴った。
「今日はありがと。また遊ぼうね」
今度はさっき別れたまことからだった。
僕はまことに返事を打ちながら歩く。
返事をするとまた通知が届く。
冷凍庫の中のアイス。
いつも食べ損ねている。
でも、きっと。いつか食べれるはず。
一人の帰り道だけど、寂しさを感じなかった。
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