雨見谷物語

谷の住人

第一章 谷をひらく

第1話 山深き雨見谷へ

 永禄の末頃、飛騨と信濃の国境に程近い山間の集落、雨見谷あまみだには、諸国の争乱から置き去りにされたようにひっそりと息づいていた。谷には名ばかりの主がいたが、先代の死後、当主は都の戦乱への対応で京に詰めており、十余年、百姓たちはほとんど自治のように暮らしてきた。


 その春、六騎の一行が細い山道へと分け入った。谷は険しく、空は狭い。雪解け水の落ちる小川が、音を立てて流れている。残雪の匂いを含んだ風が、頬を刺した。

 先頭の若い武士が振り返り、明るく言う。

「皆、もうすぐだ。この谷は、蕎麦の花が秋には見事らしいぞ」

 彼こそ雨見谷の領主・雨見義時あまみよしとき。年は二十四。気さくで親しみやすく、武家らしからぬ柔らかい笑みを絶やさない。

 後ろで頷いたのは、義時の傅役である安城周防あんじょうすおう。厳格そのものの顔で、長年の忠義を背負っている。

「殿、所領に赴くのは初めて。浮かれてばかりでは締まりませぬぞ」

「う……わかってるよ」

 叱られても、義時は笑った。

 三騎目。まだ二十歳に満たぬ若槻笙八郎わかつきしょうはちろうがおずおずと馬を進めている。顔に残る古傷を気にして俯きがちだが、義時と目が合うと、安心したように微笑む。

 その後ろ、坊主頭の中年男、寺島主水てらしまもんどはいつもののんびりした声で言う。

「まあまあ周防殿。殿は谷の皆が困らぬよう、はりきっておられるのでしょう」

 そして最後尾には、絵図を片手に谷の地形を観察し続ける一人の女性がいた。桜田日近さくらだひちか。算術に長け、治水や普請の才を持つ。無表情だが、実務に関しては誰よりも信頼されている。

 その横では、太い眉の三十路武士がぽりぽりと頭をかいていた。

「しかしまあ、こんな山奥に殿が来るとは思われておらんだろうな。名前くらい覚えてもらえるやろか」

 この男、村田兵馬むらたひょうまは、もと山城国の足軽大将で、明るく調子がよく、弓と地方交渉に長ける。


 やがて雨見谷が見えた。

 義時は笑う。

「良いところだな」

 しかし周防だけは笑わなかった。

「殿」

「ん?」

「この谷は十年放置されました」

 周防は遠くの田畑を見た。

「人の心もまた、十年放置されたのです」

 義時の笑みが少しだけ消えた。



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