第3話:三本尻尾の常連客
「ひゃあああっ!?」
紡(つむぎ)は椅子から転げ落ちそうになりながら悲鳴を上げた。
無理もない。目の前に立っているのは、豪奢な西陣織のような着物を羽織り、二本足で立つ、巨大な白い狐なのだから。
その背後で、燃えるような三本の尻尾が、機嫌よさそうにゆらゆらと揺れている。
「これ、蓮。この娘っこはなんだ? 新しい非常食か?」
「なわけないだろ。ただの迷い子だ、お稲荷(いなり)」
蓮(れん)は深いため息をつきながら、手慣れた様子で焼き網の上に大きな油揚げを載せた。
パチパチと炭が爆ぜる、心地いい音が店内に響く。
「おい、そこの人間。そんなに怯えるな。我はこれでもこの土地の守り神だぞ。ほれ、美味そうな匂いに釣られて、ついな」
お稲荷と呼ばれた神様は、カウンターの端の席にどっこいしょと腰掛けた。
紡は、腰を抜かしたまま蓮とお稲荷を交互に見つめる。
「か、神様……? 狐……? 私、ついに頭がおかしくなっちゃったのかな……」
「安心しろ。君の頭は正常だ。ここはそういう店なだけだ」
蓮は炙りたての油揚げに、特製の甘辛い醤油タレをハケで手際よく塗った。
ジューッという、凶悪なほど香ばしい音が立ち上り、一瞬で店内の空気を塗り替える。仕上げに九条ネギをこれでもかと乗せ、お稲荷の前に差し出した。
「うむ! 相変わらず蓮の作る『キツネ焼き』は絶品じゃ!」
神様がハフハフと嬉しそうに油揚げに齧りつく姿を見て、紡は恐怖よりも、不思議な「おかしみ」を感じ始めていた。
「しかし蓮よ。お前、いつもは死にかけの霊か、我らのような神しか入れぬ結界を張っておろう。なぜこの人間の娘がここへ来られた?」
「……さあな。結界の張り方が甘かったんだろ」
蓮はふいっと目を逸らし、手元のグラスを磨き始めた。
だが、その綺麗な耳の先端が、ほんの少しだけ赤くなっている。
お稲荷は「ほう?」と、細い目をさらに細めてニヤリと笑った。
「この娘、心がすっかり擦り切れておる。中身が空っぽになりかけておるから、世界の『隙間』にあるこの店にストンと落ちてきたのよ。……おい、娘。お主、ここでアルバイトでもしたらどうじゃ?」
「えっ!? 私が、ここで……?」
「馬鹿言うな、お稲荷。うちは人手なんていらない」
蓮が慌てて制止するが、お稲荷は「まあ待て」とふさふさの尻尾で蓮の口をピシャリと塞いだ。
「蓮、お前は料理は一流だが、愛想が皆無じゃ。この娘のような、優しく美味そうに食う者が店に居るだけで、店の格が上がるというもの。それに……」
お稲荷は紡に向かってパチンとウインクをした。
「こ奴、口は悪いが、寂しがり屋の寂しがり屋でな。夜中にずっと一人で鍋を混ぜている姿は、見ていて不憫極まりないのじゃよ」
「おい、お稲荷。余計なことを言うな」
蓮が本気で嫌そうな声を出す。
そのやり取りが、どこか普通の人間同士のボケとツッコミのようで、紡は思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。
今日、初めて心の底から笑えた気がした。
「私……もし本当に、迷惑じゃなければ、お手伝いしたいです。ここに来ると、なんだかすごく、心が温かくなるから」
紡が真っ直ぐに蓮の目を見つめる。
蓮は Grind(ガリガリ)と、少し大きめの音を立てて珈琲豆を挽きながら、深く、大きなため息をついた。
「……好きにしろ。ただし、朝4時になったら強制閉店だ。それまでに帰る準備をしろよ」
それは、ツンデレな店主の、不器用な「承諾」の言葉だった。
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