第69話 見えざる刃

インプ餓鬼もどきたちの動きは素早く、そして厄介だった。宙を不規則に飛び交い、急降下しては、また舞い上がる。空を自在に使われると、地上の的とは違い、まともに狙いをつけにくい。数も多い。


ユーガは、慌てなかった。むしろ、その口の端が静かに持ち上がった。


「空を飛ぶ的か。……ならば、こちらも、目にも見えん一手でいこう」


図鑑を開き、名を呼ぶ。


「海行かば――『オザワタンガクウナギ』」


光が弾け、ユーガの近くに小さな影がぽとりと落ちた。


『……む? ユーガ、なんじゃこの、みみずみたいなのは』


ロアが首を伸ばして覗き込む。


「これでええんじゃ。……見た目で侮ってはいかん」


細く、小さく、黒っぽい体。掌に乗るほどしかない。超深海の底の底、光すら届かぬ世界で、余計なものを削ぎ落とし尽くした生き物。上顎さえ捨て、下顎ひとつだけを残し、目さえ小さく退化させた――極限まで無駄をなくした刺客。


その眼はもう、ほとんど見えてなどいない。


「あの子はな、超深海の申し子じゃ。何もない闇の底で、目なんぞ、とうに見限っておる。……代わりに、肌で聴くのよ。水の揺らぎ、風の動き。獲物がどこにおるか、ぜんぶ、体で分かる」


ユーガが図鑑を握る手に力を込めた。


「――はしれ」


その瞬間。小さな体の中で、退化したはずの一対の眼が紫色の光を灯した。目で見るためではない。その身に眠る刃の速さを、解き放つために。


オザワタンガクウナギの体が、細い水の刃と化した。風もないのに、すうっと宙へと滑り上がる。水の中を泳ぐのと変わらぬ滑らかさで、見えない刺客が、空を舞うインプもどきたちの間合いへと音もなく忍び寄る。


その体は、透けてなどいない。ただ、速すぎた。肌で敵の揺らぎを聴き、目にも止まらぬ疾さで奔るその軌跡は、もはや誰の目にも捉えられない。斬られて初めて、そこに刃があったと知れる。


インプもどきたちは、気づいていない。獲物はユーガだと信じ、下卑た哄笑を上げながら、頭上を旋回している。


刃が動いた。


先頭のインプもどきが突然、笑い声を途切れさせて羽を止めた。何が起きたのか傍目には分からない。ただ、その細い首に一条の傷が走り、小さな体が石のように落ちていった。


二匹目。三匹目。


耳障りな哄笑が、一つ、また一つと、理由も分からぬまま宙から消えていく。仲間が落ちる。だが、敵の姿は、どこにもない。見えない死が、羽ばたく群れの中を音もなく巡っていた。


残ったインプもどきたちに、明らかな動揺が走った。金切り声を上げ、右へ左へと逃げ惑い、必死に敵を探す。だが捉えられない。速すぎるのだ。空へ逃げても無駄だった。刃もまた、空を舞っていたのだから。


最後の一匹が、力なく地に落ちた。


岩場に静寂が戻る。


やがて、宙を奔っていた刃の疾さがふっと緩んだ。役目を終えた小さな刺客が、ひらりと地に舞い降り、元の掌に乗るほどの姿へと戻っていく。


「見事な腕前じゃ。感謝する」


ユーガが軍帽を取り、一礼する。オザワタンガクウナギは応えるように身をくねらせ、光の粒子となって図鑑へと還っていった。


『……いやはや。えげつない奴じゃのう。刃の一振りも見せずに、皆殺しとは』


図鑑によじ登りながらロアが呟く。


「あの子にとっちゃ、あれが当たり前なんじゃ。……何もない超深海で、確実に一撃で仕留めんと、次の獲物にありつけるとは限らん。無駄のない、洗練された狩りよ」


ユーガは、宙に浮かぶ図鑑のページへふと目を落とした。いつものように、そこには新たな記録が静かに書き加えられていた。


【魔界適応レポート:見えざる刃】

対象: オザワタンガクウナギ

従来: 上顎も胸鰭も切り詰め、目さえ小さく退化させた、無駄を削ぎ落とした極限の姿。光なき闇では視覚を頼らず、水の揺らぎを肌で感じて獲物を捉える。

現在: 退化した眼に紫光を灯し、その身に眠る疾さを解き放つ。水の刃と化して宙を奔り、肌で捉えた敵を、目にも止まらぬ速さの一閃で断つ。斬られて初めて、刃の在処が知れる。

備考: 姿は見えれど、刃は見えぬ。何に斬られたかも分からぬまま逝く。ただし刃は速きに全振りで、目方が軽い。


『……相変わらず、律儀な図鑑じゃな』


図鑑の上のロアが覗き込んで鼻を鳴らした。


『しかし、これほど切れるなら、次からもこいつでええんじゃないか? 面倒がなうて助かるぞ』


「そう、うまくはいかん」


ユーガは地に落ちた小さな骸を見やった。


「あの子の刃はな、速さがすべてよ。……その代わり、軽い。相手があの薄っぺらい羽虫インプだから、首の一筋で墜ちてくれた。だが、これが分厚い装甲の大物じゃったら、どうなる」


『……刃が、弾かれるか』


「そういうことじゃ。掠り傷ひとつ、つけられまい。速さに乗せる目方が、あの子には無さすぎる。……だから、あの子の出番は、こういう、小さく素早い雑魚が群れとる時だけ。大物には、大物の相手をさせにゃならん」


ロアが、ふんと鼻を鳴らした。


『万能な刃なぞ、どこにもない、か』


「そういうことじゃ」


ダゴンが、地に落ちたインプもどきたちを静かに見下ろしていた。


「……見えざる刃、ですか」


「ええ」


「羽の生えた小鬼インプどもには、さぞ、悪い夢でしょう。……何に斬られたかも分からぬまま、逝くのですから」


その声には、微かに愉快そうな響きがあった。

そしてダゴンは、地に落ちたインプもどきの骸へと、ゆっくり右手を向けた。


「……このまま、放ってはおけません。この穢れた骸は、地に染みます。海が、いただきましょう」


その指先から、深海の色をした燐光が滲み出す。すると、骸の上の虚空に黒い水の渦が生まれた。


握り拳ほどの、小さな渦だった。だが、その中心はどこまでも昏く、底がない。まるで、そこだけ世界に穴が空いたかのようだった。渦はゆっくりと回りながら、周囲のものを吸い寄せる力を帯びていく。深い海の底の、そのさらに奥――光も届かぬ深淵へと通じる、水の口。


インプもどきの骸が地を滑り、宙へと持ち上がり、その渦へと吸い込まれていった。一つ、また一つ。骸は、渦の中心の闇に触れると、音もなく跡形もなく消えていく。どこへ行ったのかは、分からない。ただ、二度と戻らぬことだけが、確かだった。


やがて全ての骸を呑み込むと、渦は静かに閉じた。あとには、何の痕跡も残らなかった。


ダウンカレント下降海流…のようなものですか」


ユーガが、感心したように目を細めた。


「岩礁の縁から深みへ沈み込む、あの死の流れを……その場に、それもどことも知れぬ深淵へ繋げてしまうとは。あんな穴に放り込まれたら、たまったものじゃない」


「穢れた肉塊を、この地に残すのは、避けたいもので」


ダゴンは、静かに答えた。


「海が、元より深きへ物を運ぶ流れを持っております。それに、少し、行き先を書き足したまでのこと」


「その『少し』が、末恐ろしいんですよ」


ダゴンは、応えなかった。ただ、渦の消えたあたりへ、しばし目を落としていた。


「……買いかぶりです」


やがて、低く、答えた。


「今の私にできるのは、せいぜい、あの程度。あの小鬼インプどもの、薄い穢れを流すだけで、精一杯です。……本来であれば、この程度の渦、開くまでもない」


その声に、微かな苦さが滲んだ。


「昔であれば、と?」


ユーガが、静かに問う。ダゴンは、否とも応とも言わなかった。


「氷の牢に、長く在りすぎました。力は、まだ、戻りきってはおりません。……大きな穢れ、大きな骸が相手では、渦は保たぬでしょう。今は、まだ」


「なら、大物はこちらで引き受けます」


ユーガは、あっさりと言った。


「小さいのはあなたが。大きいのは、僕らが。……分ければいい。ちょうど、あの子オザワタンガクウナギと同じでしょう」


ダゴンは、その横顔を、しばし見た。


「……そうですね」


ほんの少しだけ、その口元が緩んだように見えた。


ユーガは、軍帽を被り直した。


岩礁の先、海が鈍く光っていた。


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図鑑No.49 オザワタンガクウナギ(オザワ・ワンジョー・ガルパー)

https://kakuyomu.jp/users/maruni-junoji/news/2912051605359372009

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