第51話 この衣装で座る
いつものカフェは、平日の昼さがりで空いていた。奥のいちばん静かな席に、朝霧さんはもう座っている。約束の時間より早く着いたつもりが、先を越されていた。
ぼくに気づくと、朝霧さんは座ったまま小さく頭を下げた。テーブルには、手をつけていないカフェオレと、布のケースに入ったタブレットが並んでいる。指は布の角に添えたまま、開く様子はない。
「すみません、わざわざ来てもらって」
「いえ。ちょうど外に出たかったので」
向かいに腰を下ろす。窓から入る光が、朝霧さんの眼鏡のふちで一度跳ねた。
「朝霧さん、そのケース、手作りですか」
市販のものにしては、角の処理が少しいびつだ。
「あ……はい。タブレット、そのまま鞄に入れると傷が怖くて。自分で縫ったんですけど、下手で」
「丁寧だと思いますよ。だいじに使ってるの、伝わります」
店員が水を置いていく。ぼくはコーヒーを頼んで、朝霧さんはまだカフェオレに口をつけない。話の本題を、どこから出すか決めかねているようだった。
代わりに、ぼくのほうから軽いところを置く。
「このあいだのラフ、あれから進みました?」
「……はい。それは、もう」
言いかけて、朝霧さんは口をつぐむ。テーブルのタブレットに目をやって、また戻す。本題はそこにあるのに、先にべつのことを確かめておきたい、という顔をしていた。
「あの。しずさん、ほんとに、大丈夫ですか」
炎上のことだと、すぐにわかった。
「あれから、もっと回ってて。コメントも、引用も。見ないほうがいいって私が言ったのに、私のほうがずっと見ちゃってて」
朝霧さんは早口になると、語尾が少しずつ縮む。最後のほうは、ほとんど独り言に近かった。
「慣れてます。こういうのは、初めてじゃないので」
「でも、慣れてる人が言う『慣れてる』が、いちばん心配なんです」
返す言葉に詰まる。炎上のあしらい方なら、口が勝手に動く。プロのころに身につけた。心配されたときの返し方は分からなかった。朝霧さんは普段、こんなふうに踏み込んでこない。自分で言ってから自分で驚いたらしく、カフェオレのカップを両手で包んで、視線を落とした。
テーブルに伏せたスマホが、短く震えた。一度では終わらず、間を置かずにまた震える。伏せた縁の隙間から、通知の光がちらちらと漏れている。ぼくは手を伸ばさない。今日は見ないと決めていた。
ただ、朝霧さんの目が、その点滅を追っていた。震えるたびに視線がそちらへ動いて、ぼくの顔へ戻る。眼鏡の奥が、わずかに硬くなる。何か言いかけて、結局、口の中で消えた。
ぼくには、その間の意味がうまく読めない。盤面の読みは利くのに、こういうところはまるで駄目だ。
◆
「……それで、本題なんですけど」
水を一口飲んで、朝霧さんがケースを開いた。タブレットを取り出して、テーブルの真ん中に立てる。
「これ、新衣装です。動くところまで、入れました」
まだラフだった服が、完成した線になっていた。当たりの消し残しは拾われ、色が乗っていた。
朝霧さんが画面を指で滑らせる。モデルが、軽く向きを変えた。動きに合わせて、帯がワンテンポ遅れて流れる。止まった絵では見えなかった重さが、動いて初めて立ち上がった。
「わ」
思わず声が出る。朝霧さんが、ぱっと顔を上げた。
「帯、長めにしたんです。リアクションのときに、ここが大きく動くように」
いったん喋りだすと、朝霧さんは別人みたいになる。指がすばやく画面を切り替えて、別の角度を出した。
「肩、出したんです。しずさん、読みに入るとき、画面にぐっと前のめりになるでしょう。あのとき肩のラインが見えてると、画がぱきっとするから。腕のところは別で巻いて、手は開けて……しずさん、配信でいつも手元映してるから、そこは隠さないほうがいいなって。帯の揺れも、強めに設定してあって。しずさんって、集中すると、ぴたって動かなくなるじゃないですか。本人が止まってるぶん、帯だけでも動いてたら、画面が死なないかなって思って――」
そこで、自分が長く喋っていたことに気づいたらしい。朝霧さんは口を閉じて、耳のあたりを赤くした。
「……すみません。つい」
「いえ。聞いていたかったです」
本当だった。朝霧さんは、ぼくが画面でどう映っているかを、たぶんぼくより見ている。読みに入ると静かになるところも、手元をいつも映していることも、拾えるだけ拾って、その上で線を引いている。邪魔にならない場所と、足りないところを足す場所を、見分けていた。
少し前まで、まだ途中だと言っていた。途中だったものを、動くところまで仕上げて、今、ぼくの前に立てている。
画面の隅に、小さくサインが入っていた。
Tsumugi Asagiri.
いつも見ている名前のはずなのに、絵の端に置かれていると、少し違って見えた。誰かの名義ではなく、この線を引いた人の名前として、そこにある。
礼を言おうとして、口を開く。「朝霧さん」と言うつもりだった。
けれど、画面の隅に残った文字が、先に浮かんだ。
「……ありがとうございます、つむぎさん」
今、ぼくは何と言った。
言ってから、自分の声が少し遅れて耳に届いた。口にするまで、自分でもその名前を選んだことに気づいていなかった。
言い直すなら、今だった。
けれど口の中で作りかけた「朝霧さん」は、さっきより少しだけ遠いところにあった。
つむぎさんの指が、画面の上で止まった。立てたタブレットが、かたん、と前に傾く。つむぎさんは慌てて両手で受け止めて、胸の前に抱え込んだ。耳から首まで、一気に赤くなっていく。
「……い、今」
口は動くのに、続きが出てこない。眼鏡の奥で目が泳いで、一度ぎゅっとつむる。
ぼくは、訂正しなかった。
それで、たぶん伝わった。
つむぎさんは小さく息を吸い直して、ぼくから目をそらしたまま、言った。
「……もしよかったら、これ、使ってください」
「はい」
と、ぼくは答えた。
◆
家に帰って、机の前に座る。
タブレットはなくても、さっきの服はもう目に焼きついていた。つむぎさんが自分で考えて、ぼくのために描いてくれたもの。
レナさんの三先の投稿は、まだ開いたままになっている。引用の数はあれから倍に増え、そこには受けるか逃げるかの二択が、きれいに並んでいた。
『音無しず逃げんなよ』
『元プロが見てやるってさ』
『これ受けなかったら終わりだろ』
三日もすれば、火は次の燃えやすい何かへ移っていく。ぼく一人に向けられたものなら、放っておけばいい。流せないのは、つむぎさんの仕事まで同じ火にくべられていることのほうだった。
ここで黙って引けば、つむぎさんの仕事まで軽く扱われたまま、この流れだけが残る。
それは、見過ごせない。
返信の画面を開いた。
『FG6でよければ、お受けします』
先方が出してきたのは、一週間後の夜だった。ガチ最の二日目、リンネさんが勝ち進んでいれば本戦に出る日でもある。
その時間なら、Vtuberファンの多くはガチ最を見ている。こちらの視聴者が、どちら寄りに偏るかは考えるまでもなかった。
明日から、リンネさんたちのスクリムも解禁される。Vtuber側の注目がガチ最に集まりきる本戦二日目に、レナさんはこのコラボを差し込んできた。
表向きはコラボ、中身は私闘。
配信のタイトルは、淡々と置くつもりでいる。『FG6・三先』。レナさんのほうは、もう少し煽りの効いたサムネを上げていた。『話題のゲームV、実力を見せてもらう』。温度の差は、そのままにしておく。
モニターには、つむぎさんから送られてきた新衣装のモデルを映している。
レナさんは、自分の作った流れにぼくを引きずり込んだと思っているだろう。半分は、当たっている。残りの半分が何なのかは、たぶん、あの人には見えていない。
一週間後の夜、ぼくはこの服で画面の前に座る。
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