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  • 今日も暑い日だった。への応援コメント

    この作品の奥で静かに支えているものについて、私なりに考えました。

    一読すると、これは夏の記憶の中に娘のまぶしさを探す、父親の物語として読めます。
    川辺の光、蝉の音、石を選ぶ小さな指、虫取り網を握る緊張、アイスの甘さ、ひまわり畑の黄色い海。
    どの場面からも、「あなたはまるで太陽だった」という冒頭の言葉が、具体的な色と温度を持って立ち上がってきます。

    読み返してみて感じたのは、回想の場面ひとつひとつが、「太陽だった」という言葉の中身を、丁寧に見せているということです。

    「空の青さも、入道雲の雄大さも、全て霞むほどに」とはどういうことか。

    その答えを、川石を撫でる小さな指が、虫取り網を握って一歩ずつ近づく足音が、父親のアイスにまで目を輝かせる顔が、少しずつ教えてくれる。回想の場面全体が、「太陽だった」という言葉の具体的な内容として置かれています。



    そのなかで最も心に残るのは、アイスの場面です。

    かつての場面では、ビニール袋から取り出したアイスを、二人で分け合い
    娘は父親のアイスにまで目を輝かせ、差し出すと嬉しそうに受け取る
    「食べたのは内緒だぞ」と囁く、夏の午後の小さな秘密
    その場面には、アイスが二人の間を行き来するものとして置かれています。

    現在の場面では、この一文として置かれます。
    「ビニール袋の中で、開けられないアイスがぴちゃんと音を立てた」
    同じビニール袋、同じアイス、もう誰かに差し出すことができない。
    開けることすらできないまま、溶けて音だけを立てている。

    この対比は、「悲しい」「辛い」とは一度も書きません。

    同じ物を、同じ帰り道の場面に並べるだけで、受け取り手のいない今を正確に届けてくる。
    この反転のしかたが、読んでいてとても苦しかったです。

    回想と現在の切り替わりは、ひまわり畑の場面に置かれています。
    かつて娘の誕生日に植えたひまわりは、「黄色い海が咲く」「堂々と天を仰ぐ」ものとして語られるのに、「いまは首を傾げ、見る影もない」という一文で現在に戻ってくる。
    ひまわりは娘の誕生日に植えられた花であり、太陽の方を向いて咲く花です。
    そのひまわりが「首を傾げ」ているという現在の描写があります。
    それ以上の言葉を使わずに、何かの不在を示しています。



    そして終盤では、記憶そのものが崩れていきます。

    写真立てには君がいるのに、顔が思い出せない。乳歯は抜けていたか。声はもっと高かったはず、まるで鈴が鳴るみたいに。いつもおんぶをせがんでいた、あの小さい体は——。

    「体は」のあとに、文章は続きません。述語がないまま、点だけが打たれる。
    記憶が言葉にたどり着けなかった場所が、文章の形としてそのまま残されています。
    顔も、声も、乳歯も、体も、たしかにそこにあったはずのものほど、遠くなっていきます。

    その直後に置かれるのが、「なのに、この白磁だけはやけに鮮明で」という一文です。

    ここで、気づいたことがあります。

    先ほど読んできた回想の場面——川辺で石を選んでいた娘、蝉を捕まえようとしていた娘、アイスを受け取って嬉しそうに食べていた娘、ひまわり畑の「黄色い海」——そのどこにも、一度も白磁は出てきていません。

    川辺にはなかった。蝉捕りの場面にも。アイスを分け合う場面にも。ひまわり畑にも。あの夏の記憶を構成していた場面には、白磁はどこにも置かれていません。

    その記憶が顔・乳歯・声・体の順に崩れていくなかで、記憶の中に一度も出てこなかった白磁だけが、最後に「やけに鮮明」に残っている。

    本文は、白磁が何なのかをはっきりとは説明しません。
    なぜ生きた記憶が薄れていき、白磁だけが鮮明であり続けるのかも、書かれていない。
    「なのに」という逆接語が対比を示しているだけで、その理由は語られない。
    私はその説明されなさのなかに、この作品のいちばん重いものが宿っている気がしました。
    「こういうことです」と解き明かされてしまうと、たぶんこの重さは無くなる気がします。



    「君は、こんなにも小さい」

    これは最後の一文です。

    「空の青さも、入道雲の雄大さも、全て霞むほどに」まぶしかった太陽
    その太陽の中身として積み重ねてきた、夏の記憶のひとつひとつ
    そのどこにも出てこなかった、説明されないまま鮮明に立つ白磁

    この三つが、同じ「君」という言葉のなかに重なる地点として、「こんなにも小さい」は置かれています。
    娘が小さくなったという結論ではなく、あれほど大きかった太陽と、記憶の外から来た説明できないものとの間の距離を、そのまま「君」に向けてしまった言葉のように感じました。

    作品のタイトルは「太陽を供養する」です。

    供養というのは、普通は何かをしずめて、閉じて、送り出すための行為だと思います。
    この作品は、最後まで何も閉じません。
    思いも、疑問も、距離も、そのままにして終わります。

    語り手は、供養しようとして、思い出そうとして、でも記憶は少しずつ薄れて行きます。
    記憶の中にいなかったものだけが鮮明に残り、「こんなにも小さい」という言葉のところで、立ち尽くしたまま文章が終わります。

    夏の記憶はあんなにも温かくまぶしいのに、最後に手元に残るのは、そのまぶしさではありません。

    それは説明のつかない小ささと、答えの出ないままの静寂です。

    作者からの返信

    説明をしすぎないことによる重さに気づいてもらえたこと、とても嬉しかったです。
    この作品を書くとき、対比や空気の転換を意識的に作ったわけではありませんでした。自分が幻覚のように目の前に浮かんでくる情景を書き連ねていくと、自然とそうなり、書き終えた文章を読み返すときに、「あ、こうなっていたんだ」と気づいた部分がほとんどです。
    白磁についても、このコメントを読んで初めて気づきました。読んでくださる方がいることで、作品がこんなにも豊かになることに正直驚いています。
    これほど真摯に向き合って読んでくださったことへの感謝を、これからも作品を書き続けることで返していけたらと思っています。

  • 今日も暑い日だった。への応援コメント

    最後まで読んで、ジンときました。亡くなった娘への想いが詩的で美しい文章で紡がれていて、読後感がすごく良かったです。

    作者からの返信

    感想をいただけて、とても嬉しいです!ありがとうございます....!
    8年前に書くのを辞めてから、初めて書いた小説だったので、余計に胸に沁みました。
    またいつか書いたとき、読んでいただけたら嬉しいです。