第6話:レンズの向こうの証言者
「――ですから! 私はただ、あの夜にしか撮れない山の表情を記録していただけです! なぜカメラやデータを警察に渡さなきゃいけないんですか!」
箱根外輪山の麓にある小さなカフェ。その一角で、観測カメラマンの東雲紗英は、激しい剣幕でテーブルを叩いていた。二十七歳。気が強そうな大きな瞳をいらだちで揺らし、彼女の前に立ちはだかる山崎拓海刑事を睨みつけている。
「東雲さん、落ち着いてください。あなたは事件当夜、旧遊歩道のすぐ近くで撮影をしていた。犯人の姿や、何らかの決定的な証拠がそのカメラに写っている可能性があるんです。捜査への協力をお願いします!」
山崎も一歩も引かずに声を荒らげる。突っ走るタイプの山崎と、芸術家肌でプライドの高い紗英の話し合いは、完全に平行線をたどっていた。
「ふっ……。美しいレディを前にして、そんな無骨な取り調べは感心しませんね、山崎刑事」
そこへ、仕立ての良いスーツのボタンを外しながら、乃木礼司がキザな足取りで割り込んできた。
「君は……探偵の乃木?」
「いかにも。名探偵の乃木礼司です。東雲紗英さん、君の素晴らしい作品の数々は拝見させてもらいました。自然の持つ冷徹な美しさ、そしてその一瞬を切り取る君の繊細な指先……実に素晴らしい。そんな君が、野蛮な事件に関与しているなどと私は微塵も思っていませんよ。さあ、僕に免じて、少しだけそのレンズの向こう側で見聞きしたことを教えてくれないかな?」
礼司は髪を掻き揚げ、自信満々の笑みを向けた。これで落ちない女性はいない――そんな顔だったが、紗英はあからさまに軽蔑の視線を向け、フンと鼻を鳴らした。
「ナンパなら他所でやって。余計に話す気無くしたわ」
「えっ!? あ、いや、僕はナンパをしているわけでは……」
一瞬で玉砕し、真っ白になって固まる礼司。その背後から、それまで気配を消していた流石田美衣が、トコトコと紗英の前に歩み出た。美衣の目には、いつもの眠たげな光ではなく、紗英のカメラバッグに向けられた純粋な興味の色があった。
「東雲さん。……あなた、あの夜、『普通じゃない霧』を撮ろうとしていたんですよね?」
美衣の静かな、しかし確信に満ちた声に、紗英の手がピタリと止まった。
「……どういう意味?」
「箱根の霧は気流によって激しく動く。でも、一昨日の夜の旧遊歩道付近の霧は、まるで地面の一点から這い上がるようにして、その場に留まっていた。自然の気象条件だけでは説明がつかない、局所的で不自然な高密度の霧……。カメラマンであるあなたの目なら、その違和感に気づいて、思わずシャッターを切ったはずです」
美衣は紗英の目をじっと見つめた。紗英の瞳が、驚きと動揺で大きく見開かれる。
「あなた……なんでそれを……」
「私には、あの山の『不自然な歪み』が見えているだけです。東雲さん、あなたが大切にしている芸術を汚すつもりはありません。ただ、あの夜の山で何が起きていたのか、その真実を知りたいだけなんです」
美衣の言葉には、礼司のような軽薄さも、山崎のような高圧さもなかった。ただ純粋に、紗英の「目」を信頼するトーンだった。
紗英はしばらく黙っていたが、やがて大きくため息をつくと、カメラバッグから一台のデジタル一眼レフカメラを取り出し、液晶画面を美衣たちに向けた。
「……一枚だけよ。警察に没収されるのは真っ平だから、ここから見て」
画面に表示されたのは、闇の中に浮かび上がる旧遊歩道のモノクロームのような写真だった。美衣の指摘通り、ある特定の岩壁の周囲だけ、不気味なほど濃い霧が壁のように立ち込めている。そしてその霧の輪郭は、ライトの光を受けて奇妙に歪んでいた。
「撮影日時は、事件の推定時刻の少し前。いつも通りの山の霧を撮ろうとしたのに、なぜかこのエリアだけ光の乱反射が異常で、距離感がバグるような変な写真になっちゃったの。不気味だからすぐに退散したんだけど……」
(……やっぱりね)
画面を見つめる美衣の脳内で、仮説が確信へと変わる。
(この霧は、ただの水蒸気じゃない。意図的に火山ガスの噴出バランスを操作して作り出された『偽りの視界』。犯人はこれを利用して、御堂さんの距離感を狂わせた。東雲さん、あなたの写真は、犯人が仕掛けたトリックの決定的な証明よ)
「東雲さん、ありがとうございます。最高の写真です」
美衣は小さく微笑んだ。ミスリードの霧の向こうに、実行犯である「山を操る者」の影が、はっきりと浮かび上がり始めていた。
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