「掌編小説」として成立させたい文章たち
ひとりでも笑う
祖母との約束
祖母の部屋は、いつも朝の匂いがした。古びた桐箪笥の引き出しから漂う樟脳の香り、薄く日焼けした襖紙、窓辺の鉢植えから立ち上る湿った土。微かに揺れる白いレースカーテンの隙間から光がすべりこんでくる。 テーブルの上には、母の「今日もお願いね」という短いメモが残っていた。
祖母はベッドの上に半身を起こし、窓の外を見ていた。目は開いているのに、何かを見定めている気配がない。私が「おばあちゃん、おはよう」と声をかけると、祖母はゆっくり顔をこちらへ向けた。
「今日は……何曜日やったっけぇ」
「土曜日だよ」
「そうかぁ」と言いながら、祖母は笑ったような、笑わなかったような表情をした。枕元には時計がひとつ置かれている。黒くて丸い金属の筐体、背面に小さなつまみが二つ。
部屋を簡単に掃除し、台所で遅めの昼ごはんを作った。盆に載せて戻ってくると、祖母は時計を指でつついていた。
「それ、動かないよね?」
「そやなぁ」
「壊れちゃったの?」
「そやなぁ」
祖母の視線は時計の盤面を通り抜け、どこか遠くへ抜けていった。
私はふと時計の背面に目をやった。銀色の小さなつまみをそっと指でつまむ。固い。もう少し力を入れる。金属が擦れる微かな感触が指先に伝わった。ぜんまいが抵抗しながらも回り始めた。
巻くたびに、何かが目に見えないところで縮こまり、力を蓄えるのが分かる。私は三度ほど巻いて、そっと枕もとに時計を戻した。すると、長針がほんの少しだけ震え、秒針が動いた。
チッチッチッチ。
最初の一拍は、部屋の音のすべてを押しのけて響いた。次の一拍は、カーテンの揺れと一緒にやってきた。私は息を呑んだ。祖母が私の名を呼んだのだ。
「マリ」
はっきりした声だった。驚いて顔を見ると、祖母の目の焦点がしっかりと私に合っていた。瞳が少し濡れている。
「背え、伸びたなあ。ちょっと見せてみい」
祖母は、私の掌を両手で包み込んだ。その体温はいつもと同じなのに、どこか若い感じがした。
「時計、動いたね」
「ほんまやあ。久しぶりやあ、この音」
祖母は耳をすませるように横を向く。秒針は規則正しく刻む。私は祖母の枕元に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「なあ、マリ。明日、時間あるかあ」
「あるよ」
「ほな、明日の朝ごはん、二人で食べよ。十時にな、台所のテーブルで」
「いいね。何、食べたい?」
「目玉焼き。二つ焼いて、黄身は半熟。醤油はちょん、や」
「うん。パンも焼こっか」
「パンは、マリが好きな薄いやつや。ええかあ、薄めのやつやで」
祖母は矢継ぎ早に言う。私の頭の中には、白い皿にのった二つの目玉焼きが描かれた。黄身が柔らかく揺れる。
「それから、ラジオをつけといて。あの俳句のコーナーが好きなんや」
「うん」
祖母の声は弾む。私は笑いながら、ちら、と時計を見る。秒針の動きが、わずかに遅くなった気がする。
「明日の約束やで」と祖母が言う。
「うん。明日の約束」
「紙に書いとこかあ。忘れんように」
私は自分の部屋からメモ用紙とボールペンを取ってきた。祖母が言う順に書く。明日十時、目玉焼き二つ、薄い食パン、ラジオ、俳句コーナー。
「それと、もう一つ」
「なに?」
「食べ終わったら、庭でマリと写真撮る」
祖母は口角をわずかに上げた。
「この時計と一緒に」
秒針は、確かに遅くなっていた。音も、最初より軽く、弱くなっている。私はメモを祖母の目の前に掲げ、読み上げた。
「明日十時、目玉焼き二つ、薄い食パン、ラジオ、俳句コーナー、庭で写真」
「よう書けた。冷蔵庫に貼っとき。磁石はあるかあ」
「あるよ」
「あと、台所のテーブル、今のうちに整えとこかあ」
祖母は、少ししんどそうに立ち上がろうとした。私は慌てて支える。
「無理しないで。私がやるから」
「ええねん。今が、ええんよ」
祖母はゆっくり立ちあがる。私は時計をそっと両手で持ち上げた。金属の冷たさに、指先がぴんと伸びる。チッチッチ……と音が、指先を伝って身体の中に入ってくるみたいだった。
テーブルの上に白い皿を重ね、箸置き、醤油差し、湯飲みを並べる。ラジオの電源コードをコンセントに差し、ダイヤルを軽く回しておく。私はパンの入った袋を皿の上に置いた。祖母は「薄いやつ。薄いやつや」と小声で繰り返し、私を見て笑った。
部屋に戻ってくると、秒針の音が途切れ途切れになっていた。祖母の表情が、いくらか暗くなっていくのが分かった。
「マリ」
「うん」
「明日、十時やからなあ」
「うん、十時」
「約束やで」
「うん。約束」
祖母は満足そうに頷いた。次の瞬間、秒針がすっと止まった。音が消えると同時に、祖母の目の焦点がふっとほどけ、窓の外に戻る。
「今日は……何曜日やったっけぇ」
私は時計をそっと撫でる。
「土曜日だよ」
「そうかぁ」
祖母はまた笑ったような、笑わなかったような顔をして、枕に頭を沈めた。
その日の夜、私は冷蔵庫に貼ったメモを眺めた。母から「どう?機嫌はよかった?」と聞かれて、私は「うん」と答えた。何から話せばいいか分からなかった。時計のことを話しても、たぶん信じてもらえないだろう。いや、信じてもらえるはずがない。
日曜日の朝、私は九時半に目覚めた。台所に立ち、油を引いたフライパンを温める。卵を二つ。じゅっ、と静かな音が立つ。半熟になるよう、火加減を調整する。パンはいつもよりちょっとだけ長くトースターに。ラジオは音量を小さめに設定しておく。
九時五十五分、私は祖母の部屋に行った。祖母はベッドの上に座っている。
「おばあちゃん。朝ごはんにしよう」
「そうかぁ」
「ほら、もうすぐ十時だよ」
「そうかぁ」
祖母の目は、まだ霧の向こう側にいる。私は枕もとの時計を見た。昨日巻いたゼンマイは、すでに力を失っている。私は時計を手に取り、背面のつまみに指を当てた。昨日より少しだけ緊張した。慎重に三度回す。チッチッチッチ。
祖母の肩が小さく震えた。
「おはよう」
祖母の瞳に光が差す。
「もう朝かいな」
「うん。目玉焼き、できてるよ」
「半熟か」
「うん」
「醤油は?」
「ちょん、だけ」
「そうかあ、ええ感じや」
祖母は立ち上がり、私の腕につかまって歩いた。時計の秒針は確かに私たちをテーブルへ連れていく。テーブルの上は昨日のまま。白い皿に二つの目玉焼き、パン、醤油差し。ラジオからは俳句コーナーの始まりを示すジングルが流れる。
「今日は夏帽子やて」
「いい季語だね」
「じいちゃん、夏帽子よう被ってはったわ」
祖母は黄身に箸の先を入れ、小さく笑った。とろり、と黄金色が流れ出す。私たちはほとんど喋らずに食べた。ラジオと秒針の音だけが部屋のすべてになった。
食べ終わる頃、秒針の音がまた細くなった。祖母は私の顔を見て、少しだけ首を傾げる。
「写真、撮ろか」
私たちは庭に出た。紫陽花がもう色を落としている。昔、祖父が打ったという石畳の端で、祖母に時計を持ってもらい並んで立った。
「笑って」
「笑っとる」
その瞬間、秒針が止まった。祖母は手の中の時計を見下ろし、それから、私の顔を見た。
「今日は……何曜日やったっけぇ」
私は深く息を吸い、吐いた。
「日曜日だよ」
「そうかぁ」
祖母が笑ったように見えた。そう、見たかった。祖母を部屋へ送り、私はテーブルの上を片づけた。
その日から、私と祖母の「日曜日の約束」は、祖母の一週間の中心になった。学校に行っている間の祖母を私は知らない。その約束は祖母にとって道標になった。私がいなくても、十時になると、台所の椅子に座ってラジオのダイヤルを手でなぞり、皿の上のパンをちぎり、ラジオで俳句コーナーをぼんやり聞いているらしい。母が教えてくれた。
「十時が分かるんだね」
「分かるっていうより、タイマーしたみたいに十時になったら動くのよ」 母はそう言って笑った。
夏休みが終わる頃、私は受験校を定めた。合格したら、春には家を離れる。祖母と日曜日を過ごすことができなくなるかもしれない。
私は祖母に話した。
「春になったら、少し遠くに行くかもしれない」
秒針の音がまだしっかりと聞こえているときだった。祖母は静かに頷いた。
「ええことや」
「でも、日曜は一緒にいられなくなるよ」
「ほな、約束の形、ちょっと変えよか」
「約束の形?」
「約束はな、二人が一緒におらんでも続くもんにしよ。たとえば、十時になったら窓を開ける、とか。風を入れて深呼吸する、とか。マリとばあちゃんは、どこにおっても同じ時間に同じことをする」
祖母は言葉を探るようにしながら言った。
「約束は近くにおるってことやない。遠くにおっても、同じ時間に同じもんを信じることや。なあ、マリ。あんたがどこに行っても、十時に窓を開けたら部屋に入ってくる風は、ばあちゃんと同じや」
祖母の言葉は、秒針の音に少し遅れて私の胸の奥へ届いた。私はうつむいて涙をぬぐい、それから顔を上げた。
「じゃあ、約束ね。十時になったら、窓を開ける」
「うん。それでええ」
祖母は安心したように目を細めた。秒針が静かに動きを止めた。
年が明けて、試験日が近づいてきた。私は図書館の自習室から窓の方へ顔を向けた。冷たい光。呼吸を整え、心の中で窓を開ける。祖母も、同じ時間に窓を開けているはずだ。私は目を閉じ、俳句コーナーのジングルを思い出して、小さく笑った。
合格通知が届いた。祖母の部屋の扉を開けると、祖母は椅子に座り、空を見ていた。
「受かったよ」
祖母は私の声に反応せず、窓の向こう側を眺めている。私は反射的に時計を手に取り、ぜんまいを巻く。チッチッチと音が鳴り始める。
「試験はどうや?」
「うん。受かったよ」
「そうかあ。そらよかった。よう頑張ったなあ」
祖母は立ち上がり、私を抱きしめた。背中に祖母の手の骨ばった感触。
「春になったら、遠く行くんやな」
「うん。でも十時には窓を開ける」
「そしたら、風が、同じや」
出発の朝、私はボストンバックを玄関に置き、祖母の部屋へ行った。窓からの光が柔らかい。祖母は目を閉じていた。
私は時計の背面に指を当てた。いつもと同じように三度回す。チッチッチと音が鳴る。祖母の目に光が差し、焦点が合う。
「行くんか」
「行ってきます」
「十時」
「うん。十時」
「窓」
「うん。窓」
私たちは、儀式みたいに交互に言葉を交わした。最後に、祖母は私の頬を両手で包んで、うんうんと頷いた。
「風は、同じや」
電車の窓から見える景色は、冬の色を少しだけ残して、あちこちで春の光に輝いていた。駅に着き、寮に入り、部屋の窓を開けた。まだ段ボールの中にしまわれたままのものがたくさんある。私は窓辺に立ち、目を閉じる。
遠くで俳句コーナーのジングルが流れたような気がした。私は笑って、風を抱きしめるように両腕を伸ばした。
季節がひとつ過ぎ、ふたつ目の季節の最初の雨の日、母から電話があった。祖母が少し体調を崩している、と。私は翌週末に帰ると言い、電話を切る前に「おばあちゃん、十時に窓を開けてる?」と聞いた。母は少し黙ってから、「日曜だけ窓を開けてる」と言った。 私は顔を上げ、寮の窓を半分だけ開けた。雨の匂いが部屋に入る。地面に打つ細い雨音が聞こえた。
帰省した日、祖母の部屋は相変わらず朝の匂いがした。部屋に入ると、祖母はベッドの上で目を閉じていた。
「おばあちゃん」
私は時計を手に取り、ぜんまいを巻いた。指先に伝わる久しぶりの小さな抵抗。
「ただいま、おばあちゃん」
祖母は目をつむったまま動かない。秒針の音が、私にだけ聞こえているのかもしれないと思った。祖母の耳には、もう届いていないのかもしれない。私は祖母の手を握った。祖母はうっすらと目を開け、私の方を見て、小さな声で聞いてきた。
「約束、守ってるかぁ」
「うん」
「そうかぁ。えらい子やぁ」
秒針が止まり、音が消える。祖母の目が閉じた。今日は……何曜日やったっけぇ、と聞こえた気がした。
私は「日曜日だよ」と答え、窓から入ってくる風を胸いっぱい吸い込んだ。
あれから何年経ったのだろうか。今でも、私はあの時の約束を守り続けている。10時になり、スマートフォンが振動した。窓を開けて、風を部屋へ入れる。大きく深呼吸をひとつ。
「おばあちゃん」
声のするほうに顔を向ける。
「おばあちゃんの部屋、朝のにおいがするね」と孫が言った。
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