第12話 魂の帰還

星暦六二零三年、深冬。

下京区のガレージには、祝杯の熱気が満ちていた。誠は空のビール缶を転がした、大笑いしながら律の肩を叩いた。「律、徳晞のジジイの判決書は核爆弾級だったぜ! 国響の株価は開始十分で三度のサーキットブレーカーだ。あいつら今頃、揃って飛び降りる準備でもしてんだろ……」

壁の仮想スクリーンには、『暁』の登録者数が狂ったように跳ね上がっていた。しかし、誠が言い終える前に、その数字が凍りついたように動きを止めた。

「……どうなってんだ?」

誠がキーボードに飛びつき、指を叩きつけた。「回線は生きてる。だが『暁』の検索インデックスがネット全体から弾かれてる! シャドウバンだ……レコメンド・アルゴリズムが俺たちを蹴り出しやがった。トラフィックの死角に閉じ込められたんだ!」

律は画面を凝視した。アカウントは存在するが、ページを開いてもそこには空白しかない。

「ただの遮断じゃない、」律の声は氷のように冷たかった。「奴らは表向き、法廷の判決に逆らっていない。また裏で手を回したんだ。表では『システム更新によるインデックス遅延』や『AIの誤判定』だと釈明し、裏では徹底的な清算を行っている」

直後、彼らの目の前で『汐』の公式チャンネルのアイコンが、灰色の、冷徹な 【DELETED】 へと崩壊した。

誠のローカルフォルダからは、耳障りなアラートが鳴り響く。無数のファイルが白く明滅し、次々と消えていく。

「クソッ! 国響がプラットフォーム各社と結託して基幹プロトコルを動かしてやがる!」

誠の声が恐怖に震えた。「遠隔ハッシュ値上書きだ!ネットワーク上の全クリーンアップ権限を発動させやがった。『汐』と一致する声紋(ボイス・プリント)を検知した瞬間、システムが強制的にゴミコードで上書きしてやがる。律、止められねえ……ネットワークに繋がっているデバイスなら、ファイルは全部乱数(デタラメ)に変わっちまう!」

律は、画面上で五色のデジタル・モザイクへと崩壊していくデータと、スピーカーから響く耳刺すような高周波のノイズを死んだ目で見つめていた。彼は油染みのついたジャケットの襟を引き上げ、ガレージのシャッターを力任せに押し上げた。

風雪が中に吹き荒れる。目を向けた先、上京区に聳え立つ巨大広告塔では、雨の中で歌い続けていた『汐』の身体が、まるで強酸に侵食されるように溶解し、無数のデータ塵へと変わっていくところだった。

「これが奴らのやり方か、」律は虚無へと消えゆく街の灯りを見つめ、安物の煙草に火をつけた。紫煙が寒風の中に霧散していく。「法律で制御できないのなら、物理的な意味で抹消することを選んだわけだ。国響は今夜、この街に集団健忘(アムネジア)を強要している」

「じゃあ、この四年間は何だったの?」

緋は、慣れ親しんだリンクが次々と【404 NOT FOUND】に変わっていくのを呆然と見つめていた。「私の録音も、練習の時の笑い声も……あいつらはこれらすべてを殺すつもりなの?」

「これが武江京よ」

絵が自嘲気味に笑った。その瞳には激しい怒りが宿っている。「ここの人間は『ストリーミング依存型』の生存に慣れすぎた。データはクラウドにのみ存在を許され、私蔵すれば個人信用ポイントが消える。国響がプラットフォーム会社と手を組んであのキーを押せば、あなたの存在の正当性なんて一瞬で剥奪されるのよ」

エラー音が響くたび、自分の肉体が削り取られていくような感覚。利益を生み出さない存在になった瞬間、彼女の四年間は、いつでも初期化可能な一行のコードへと成り下がった。

絶望がその場を支配しかけたその時、高度な暗号化を施された通信リクエストが、緋の古い端末にひっそりと着信した。

発信人:守(マモル)

ファイル名:[ALL_FILES_FOR_AKE]

そこには、装飾の一切ない、素っ気ないシステムフォントのメッセージが添えられていた。。

> 「国響はサーバーを消せても、あなたの歌声によって生まれた、私の心の悸動までは消せません。データの私蔵が禁じられたこの国において、これは私が人生で犯した、最も狂気じみた過ちでしょう。物理層直接導出(フィジカル・レイヤー・エクスポート)によるオリジナル・マスターデータです。本来、あなたに属すべきものを、今、あなたに返します。

> 暁、歌い続けてください」

>

プログレスバーが100%に達した瞬間、緋は震える指でファイルを開いた。

それは四年前、彼女が初めてテスト録音に臨んだ時の、未加工のオリジナル映像だった。瞳にはまだ純粋な火花が宿り、マイクのベースノイズすら、生々しく、真実味のある物理的共鳴として残っていた。

「みんな……お願い、ちょっと来て、」緋の声は涙に詰まっていた。「誰かが……私の魂を、返してくれた」

誠はそのデータ流を見つめ、息を呑んだ。「これはバックアップなんてレベルじゃない……物理層(フィジカル·レイヤー)から直接引っこ抜いたマスターだ。緋、お前の背後には、俺たちには見えない、ずっとお前を見守り続けていた奴がいる」

絵はその生々しい映像を見つめ、目頭を熱くした。「これがあれば……私はあなたの本当の姿を描ける。ううん、アルゴリズムさえも畏怖する、あなた自身の姿を」

律は、発信人の『守』という一文字を見つめ、静かに呟いた。

「どうやら、法律が守りきれなかったものを、人間性が守り抜いたようだね」

誠は画面上の乱数を見つめ、自嘲気味に笑った。「奴らはコードこそが法だと信じ、データを書き換えれば現実すら書き換えられると思っている。だが、忘れている。コードには決して書けないものが、この世界にはあるということを」

窓の外では、冬の間ずっと武江京を覆っていた重い雲がようやく晴れ、初春の陽光が破れかけた録音室の床を照らし出した。

『汐』は消えた。だが『暁』の声は、すでにアルゴリズムの届かない暗がりに、野火の如く燃え広がり始めている。

緋は立ち上がり、錆びついたマイクの前へと歩み寄った。もう、誰の許可も必要ない。

彼女は口を開き、闇を震わせる最初の一音を放った。

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