第一章:覚醒《めざめ》⑪
轟音とともに迫る白い巨体を前に、
紫月の体が石畳を滑る。
その直後、白虎が大きく口を開いた。
鋭い牙が、茅燈の右腕へ食らいつこうと迫る。
「――っ!」
反射的に右手を突き出す。
甲高い音が夜へ響いた。
まるで硬い金属同士がぶつかったような音。
牙は、茅燈の掌へ届く寸前で弾かれていた。
「……何だ?」
茅燈自身が一番驚いていた。
右手を見る。
さっき石段を転がり落ちた時に焼けるような痛みが走った場所。
けれど今は傷一つない。
白虎もまた信じられないものを見るように目を見開き、小さく後ずさる。
だが、その紅い瞳はすぐに激しい苦悶へ
低く唸りながら
青白く明滅する縞が、不規則に脈打っていた。
白虎は低く唸り、そのまま地を蹴った。
茅燈は紫月を振り返る。
「紫月!」
その声に、紫月ははっと顔を上げた。
「香を作れ」
「でも……!」
「俺が時間を稼ぐ」
「茅燈!」
白虎が唸り声を上げる。
茅燈は視線を逸らさない。
「そんなの……」
震える声は最後まで続かなかった。
茅燈は短く息を吐く。
「──信じろ」
それだけ言い残すと、白虎を挑発するように駆け出した。
白虎も咆哮を上げ、その背中を追う。
夜の境内へ二つの影が消えていく。
「茅燈……」
追いかけたい。
けれど。
香を作れるのは自分しかいない。
紫月は震える手をぎゅっと握り締め、小さく息を吸った。
「落ち着いて……」
浴衣の巾着を開く。
中へ入れていた香材を石畳へ並べる。
どれも祭りへ持ってきた、ほんのわずかな量だった。
「またたび……」
乾燥木天蓼はある。
けれど、どう配合すればいい。
焦りで思考がまとまらない。
震える指でスマートフォンを取り出す。
検索欄へ打ち込む。
『またたび 成分』
画面を流し読みする。
けれど、文字が頭へ入ってこない。
――紫月は頑張りすぎるからね。困った時ほど、一番最初に思いついたことを信じてごらん。
ふいに、
「……そうだ」
またたび。
最初に思いついた答えは、それだった。
紫月はゆっくりと息を整える。
不思議と、震えていた指先が静まっていく。
迷いなく香材へ手を伸ばす。
龍脳。
没薬。
松脂。
白檀。
そして、乾燥木天蓼。
自分でも考えて選んでいるわけではない。
指先が、ずっと前から知っていた手順をなぞるように、自然と香材を組み合わせていく。
「これなら……!」
不意に。
ぐい、と足首を掴まれた。
「ひっ!?」
氷のように冷たい。
恐る恐る足元を見る。
草むらの中から、黒い牛のような体が這い出していた。
だが、その顔だけは若い女のもの。
青白い顔が、紫月をじっと見上げている。
口元から血を流しながら、その唇がゆっくりと開いた。
「七つは
紫月は息を呑む。
女は苦しげに呼吸を繰り返し、それでも最後の力を振り絞る。
「門を開くは――選ばれし者にあらず」
言葉が途切れると同時に。
女の体は音もなく崩れ落ち、淡い光となって夜風へ溶けていった。
その場へ残されたのは、一対の黒く湾曲した角だけだった。
遠くで、白虎の咆哮が夜空を震わせる。
紫月ははっと顔を上げる。
「茅燈……!」
角を拾い上げると、完成した香を胸へ抱き締め、白虎の咆哮が響く方へ駆け出した。
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