第8話 「腐食地帯の入口で、全員が黙った」
腐食地帯の入口まで、ミルタの街から三日かかった。
三日間、ゼーマはずっと何かを計算していた。歩きながら空中に術式を書き、食事中も羽ペンを離さず、夜営の焚き火の前でも本を開いていた。
タクが「寝ないのか」と聞くと「寝たら計算が止まる」と返ってきた。タクは以来、ゼーマに話しかけるのをやめた。
ガルドは無口なまま先頭を歩いた。
ラナは地図と現地の地形を照らし合わせながら、腐食の境界を確認し続けた。
タクは荷物持ちをしながら、ゼーマの呟きをたまに聞いて、たまに無視した。
コシオは保温魔道具の中で揺られながら、三日間ずっと同じことを考えていた。
(本当に俺に、何かができるのか)
三日目の夕方。
ガルドが先頭で足を止めた。
「着いた」
全員が並んだ。
そして、黙った。
言葉が、出なかった。
地平線まで、黒かった。
それだけだ。それだけのことなのに、全員の足が止まった。
コシオが事前に想像していた「腐食地帯」は、街の一角が黒く変色している程度のものだった。ラナの記憶で見た、石畳が侵食された光景。規模が大きくなったとしても、せいぜい森一つ、山一つが黒くなっている程度だろうと思っていた。
違った。
見渡す限りの大地が、黒かった。
かつて農村だったと思われる場所の輪郭が、黒い中に沈んでいる。街道の石畳が黒く染まり、その先が完全に闇に溶けている。木々は枯れて炭のように黒く立ち尽くし、空気すら黒く澱んで見えた。
しかも、動いていた。
境界線が、じわじわと、しかし確実にこちら側へ動いている。一時間で人の歩く速さほどの速度で、腐食が広がっている。
(これは……)
「想像の、三倍はある」とガルド。
「五倍よ」とラナ。声が、わずかに硬かった。「地図で把握していた範囲より、はるかに広い。ここ最近で急激に広がったのかもしれない」
「臭いがする」とタク。
確かに、空気が違った。腐ったような、金属のような、何とも言えない臭気が漂っている。タクが鼻を押さえた。
ゼーマだけが、黙って腐食地帯を見つめていた。
羽ペンが、止まっていた。
(ゼーマ)
コシオは念話を飛ばした。
ゼーマはしばらく反応しなかった。
(ゼーマ、聞こえるか)
「……聞こえている」
老人の声が、いつもより低かった。
「想定外だ」
(何が)
「全部だ」
ゼーマは杖を地面に突き立て、その先端が黒く変色するのを観察した。杖を引き抜くと、先端が完全に腐食していた。
「接触しただけで、これだ。近づくことすら難しい」
(術式は)
「展開できない」
全員がゼーマを見た。
「誤解するな。術式の理論が間違っているわけではない。問題は規模だ。これほどの規模の腐食を包囲するには、私の術式では範囲が足りない。文字通り、桁が違う」
「解決策は」とラナ。
「今は、ない」
ゼーマが「ない」と言った。
その言葉の重さを、全員が噛みしめた。三十年かけて術式を作り上げた老魔法使いが、「ない」と言った。
ラナが地面に指を当てた。【腐食看破】が発動し、指先が黒く光る。腐食の範囲と境界線が見えているはずだ。しばらくして、ラナは指を離した。
「深さもある」
「深さ?」とガルド。
「地面の下にも、腐食が広がっている。地表だけじゃない。根っこが、地中深くまで伸びている」
(根っこ、か)
コシオは、腐食の黒い大地を見た。
境界線の向こうで、黒い靄のようなものが漂っているのが見えた。あれが腐食のエネルギーだろうか。漂いながら、こちらへ向かって、ゆっくりと、確実に。
そのとき。
黒い靄の奥に、何かが見えた気がした。
人の形をした、影のようなもの。
一瞬だけだった。すぐに靄の中に消えた。
(今、何かいたか)
「うどんが何か言ってる」とガルド。
「腐食の中に何かいたって」とラナ。
全員が境界線の向こうを見た。
靄だけが、ゆっくりと揺れていた。
日が暮れ始めた。
ラナが「今夜は境界線から離れた場所で野営する」と判断した。全員が黙って従った。
焚き火を囲んで座ったが、しばらく誰も喋らなかった。
タクが小枝を折りながら、静かに言った。
「どうするんだ」
誰も答えなかった。
「計画が通用しないってことはわかった。じゃあ次をどうするか、誰か考えてるか」
「考えてる」とラナ。「ただし、まだ答えが出ていない」
「ゼーマは」
「計算中だ」とゼーマ。目は本に向いたままだ。「ただし、現時点では解が出ない計算をしている。それだけは言っておく」
「つまり、お手上げってことか」
「今は、そうだ」
タクは小枝を折るのをやめた。
ガルドが焚き火に薪をくべた。火が大きくなった。
ラナがコシオの保温魔道具を膝の上に乗せた。
無意識の仕草だった。ラナ自身、気づいていないようだった。ただ、膝の上に置いて、両手で静かに包んでいた。
(ラナ)
「……なに」
(寒いか)
「寒くない」
(そうか)
「でも、少し、怖い」
ラナが、そんなことを言うのは初めてだった。
コシオは黙っていた。何も言わなかった。ただ、湯気をゆっくりと立ち上らせた。
ラナの手に、温かさが伝わった。
「……ありがとう」
焚き火の音だけが、しばらく続いた。
深夜、全員が眠った後、コシオは一人で考えていた。
腐食の規模は想定外だった。ゼーマの術式は通用しない。正面から挑んでも無理だ。
では、どうする。
コシオは自分の能力を整理した。
記憶と知識を得る。感情を読む。念話ができる。治癒効果がある。能力を授ける。
そして、まだ完全には使いこなせていないが――食べた者と深く繋がる。
(俺が持っているのは「情報を集める力」と「人を繋げる力」だ)
コシオは考え続けた。
腐食の根源に近づくには、今の自分たちには力が足りない。知識が足りない。
ならば、集めるしかない。
この世界中の人間から。医者から、学者から、農民から、兵士から。腐食に立ち向かったことのある者から、この世界の歴史を知る者から。
食べてもらえれば、記憶が手に入る。知識が手に入る。
一人の人間には限界がある。でも、百人分、千人分の知識があれば――
(もしかしたら、ゼーマも気づいていない答えが見つかるかもしれない)
コシオは焚き火の残り火を見た。
赤く揺れる炎が、黒い大地の方角を照らしていた。
腐食の靄の中に見えた、人の形をした影のことを思った。
あれは何だったのか。
コシオにはわからなかった。
でも、一つだけ確かなことがあった。
(あの影は、孤独そうだった)
翌朝、全員が目を覚ました。
ラナは保温魔道具を脇に置いて地図を広げていた。昨夜、膝の上に抱えていたことは、もう意識していないようだった。
ゼーマは一睡もしていないようで、目の下に影があった。本は新しいページに移っていた。
ガルドは無言で朝食の準備をしていた。
タクは腐食地帯の方角を、じっと見ていた。
コシオは全員の顔を見渡してから、念話を飛ばした。
(みんな、聞いてくれ)
「うどんが何か言ってる」とガルド。
「聞いてって」とラナ。
全員がコシオの保温魔道具に視線を向けた。
(作戦を変える。ここで無理に腐食に挑むのはやめる)
「撤退か」とゼーマ。
(撤退じゃない。準備だ)
「何の準備だ」
(知識を集める。この世界中の人間から。腐食のことを知っている者、歴史を知る者、医術師、魔法研究者、何でもいい。俺を食べてもらう。記憶を集める。ゼーマの術式が届かないなら、届く方法を世界中の知識の中から探す)
沈黙。
(俺一人の知識には限界がある。でも、百人分、千人分なら話が変わる。腐食を止める方法を、この世界の誰かが知っているかもしれない。あるいは、複数の人間の知識を組み合わせたら、答えが出るかもしれない)
ゼーマが羽ペンを止めた。
「……理論上、あり得る」
全員がゼーマを見た。
「転生体が大量の知識を収集・統合した場合、通常の人間では到達できない発想が生まれる可能性がある。私が三十年かけて作った術式も、元を辿れば膨大な先人の知識の統合だ。原理は同じだ」
(やれると思うか)
「時間はかかる」
(それでいい)
「非効率だ」
(それでもいい)
「お前が馬鹿みたいにあちこちで食べられ続けるということだぞ」
(わかってる)
ゼーマは長い沈黙の後、鼻を鳴らした。
「……まあ、今ここで無駄死にするよりはましか」
(死なないが)
「うどんが何か言ってる」とガルド。
「死なないって」とラナ。
「既に死んでいるだろう」とゼーマ。
(それはそうだが)
ラナが立ち上がった。
「賛成。コシオの案で行く」
「俺も」とガルド。
「反対する理由がない」とタク。
全員の視線が、コシオの保温魔道具に集まった。
コシオは湯気を大きく揺らした。
(決まりだ。行こう)
「どこへ向かう」とガルド。
(まず、人が多い場所だ。王都に戻る)
「王都に?」とラナ。「私が王女だとばれたら――」
(ばれなきゃいい。変装をもう少しちゃんとしてくれ)
「昨日より言い方がきつい」
(昨日より状況が切迫している)
タクが小さく笑った。ゼーマが荷物をまとめ始めた。ガルドが焚き火を消した。
ラナは腐食地帯の方角を一度だけ振り返った。
黒い大地は、今日も静かに広がり続けていた。
境界線の向こうに、靄が揺れていた。
(また来る。必ず)
コシオは、黒い靄に向けてそう思った。
返事は、なかった。
当然だ。
でも、靄が一瞬だけ――揺れた気がした。
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