刑事御幸さんと赤い丸

下呂

刑事御幸さんと赤い丸


夜明け前、街には冷たい霧雨が降っていた。


人気の絶えた交差点。笠原御幸(24)は、立ち入り禁止のテープを潜り抜け、バス停のシェルターへと足を踏み入れた。


血の気配はない。争った形跡もない。


ただ一つ、異様な存在感を放つものがある。


側面のガラスに、指で丁寧になぞられたような「赤い円」が一つ。


御幸はしばし、その円を凝視した。


「また……」


小さく独り言をこぼす。


背後から年配の刑事、大田が足早に近づいてきた。

「御幸、これで今週三件目だぞ」


「目撃者は?」


「ゼロ。防犯カメラにも何も映っていない。……いや、」


大田がためらいがちにタブレットを差し出した。

「一箇所だけ、おかしな点がある」


画面には、ベンチに座って淡々とスケッチをする一人の女性が映っていた。


黒髪。穏やかな横顔。ベージュのコート。


彼女は周囲を警戒する様子もなく、ただ手元に集中している。


そして、その手がガラスに指を滑らせた瞬間、画面がノイズに覆われた。


「……彼女は何者ですか?」


「チンラン。25歳。フリーランスのイラストレーターだ。身元はクリーンだが……」


御幸はタブレットを返し、深く息を吐いた。


「私が直接会います」


数時間後。古びた書店の隣にある、静かなカフェ。

御幸は窓辺でペンを走らせるチン・ランの姿をすぐに見つけた。


「……チン・ランさん?」


彼女が顔を上げる。その瞳は、雨の日の空のようにどこか静かで、孤独な色をしていた。


「はい」


「警察の笠原です」


御幸が席を勧められ、向かいに座る。


チン・ランのノートには、無数の「赤い円」が描き殴られていた。どれも完璧な比率で。


「これを、知っていますか?」


御幸が現場の写真を見せる。


チン・ランは少しだけ目を細め、自分のノートと写真を見比べた。


「シンボル……? いいえ、分かりません」


「では、なぜこれを描いているのですか?」


チンランは少しだけ戸惑ったように微笑み、自分の右手をじっと見つめた。


「分かりません。……ただ、気づくと手が勝手に動いているんです。まるで、何かに導かれるように」

「手が勝手に」と、彼女は言った。


御幸の刑事としての勘が警鐘を鳴らす。しかし、目の前の女性からは邪悪な気配など微塵も感じられなかった。


「……昔、見たことは?」


「……多分」


「記憶にありませんか?」


「深い霧の中にあるみたいで。……どこか懐かしいような、それでいて、すごく怖いものだった気がします」


彼女の言葉に、御幸は思わずペンを握る手に力を込めた。


「怖い、ですか」


「刑事さん、あなたは少し疲れすぎているみたいですね」


ふいにチンランが言った。


御幸は意表を突かれ、瞬きをする。


「え……?」


「あなたの目。……いつも何かに怯えながら、一人で戦っている人の目です。それじゃあ、温かい珈琲も冷めてしまいますよ」


外の雨が激しさを増す。窓ガラスを伝う雫が、まるで涙のように見えた。


御幸は思わず珈琲を一口含んだ。喉の奥に、少しの苦味と温かさが広がる。


この女性は、自分の正体に気づいているのか。それとも、単なる直感なのか。


「私、疑われているんですよね」


チンランが少しだけ茶目っ気のある笑みを浮かべた。


「……今はまだ」


「よかった。なら、あと少しだけ、この珈琲を飲み終わるまではここにいてくれますか?」


御幸は否定しなかった。外の喧騒を忘れ、ただ雨の音だけが二人を包んでいた。


その時、御幸の胸がかすかに締め付けられる。

自分もまた、ずっと「何者か」に理解されたいと願っていたのかもしれない。


店を出て、御幸はふと立ち止まった。

カフェの向かいの電柱。


そこには、先ほどまでなかったはずの「赤い円」が、雨に濡れながら浮かび上がっていた。

「……見ていたのか」


御幸は唇を噛み締め、雨の中に走り出した。


刑事としての義務か、それとも、この不思議な孤独を共有する女性を守りたいという感情か。


その境界線が、雨音とともに崩れ始めていた。


カフェを出る頃には、雨はあがっていた。しかし、御幸の胸の中には、晴れない霧のような重苦しさが居座り続けていた。


それは「赤い円」の謎ではない。チン・ランという女性が、自覚なきままに何かを隠しているのではないかという、拭えない予感だった。


歩道に出たところで、御幸のスマートフォンが短く震えた。


「……笠原です」


「御幸か。また見つかった」


大田の張り詰めた声。


「場所は?」


「市役所の文書保管庫だ。古い記録室から」


御幸は眉間に皺を寄せた。市役所。それは事件とは無縁の場所だ。


市の古い庁舎は、しんと静まり返っていた。黄色く変色した蛍光灯が、埃っぽい空気をあぶり出している。


御幸は手袋をはめ、慎重に保管庫へと足を踏み入れた。


テーブルの上に、一枚のセピア色の写真が置かれていた。


その隅に、見覚えのある「赤い円」が、まるで呪詛のように刻まれていた。


「誰が見つけたんですか?」


「記録室の職員だ。……他に、こんなものも」


大田が古びた箱を差し出した。


御幸は箱を開けた。中には当時の報告書や新聞の切り抜きが雑然と詰め込まれている。そして、そこに繰り返し記されていた言葉があった。


『赤丸(あかまる)事件』


背筋に冷たいものが走った。それは単なる記号ではない。


迷宮入りした、古い、暗い過去の事件の名前だった。


その30分後。署のデスクで、御幸は写真を広げていた。


虫眼鏡で細部まで追いかける。すると、写真の隅、学校の正門前でノートを抱えて立つ幼い少女の姿が目に飛び込んできた。


御幸は息を呑み、画像を限界まで拡大した。


「……嘘でしょう」


そこにいたのは、間違いなくチン・ランだった。15年前の、あどけない少女の姿。


翌朝。御幸は再び、あの小さなカフェを訪れた。

窓際でスケッチを続けるチン・ラン。彼女は御幸の姿を認めると、ふわりと柔らかな微笑みを向けた。

「おはようございます、刑事さん」


御幸は何も言わず、昨夜手に入れた写真をテーブルに置いた。


チン・ランの表情が、ふっと消えた。震える指先が、ゆっくりと写真に近づく。


「これ……私、です」


「この日のことを覚えてる?」


彼女は深く目を閉じた。数秒の沈黙。


やがて、遠い記憶の底から、誰かの笑い声が聞こえてきた。


『忘れてはいけないよ。あの赤い円のことだけは』

チン・ランは弾かれたように目を見開き、頭を押さえた。


「……声が。誰かの声が聞こえたの」


「男? それとも女?」


「分からない……顔も、名前も」


御幸は彼女の肩をそっとかばうように言った。


「無理をしないで。……今の私たちが追っている事件は、あなたの過去と繋がっている可能性がある」

チン・ランは大きく息を吐き、静かに言った。


「なら、一緒に探しましょう」


「一緒に?」


「あなたが調べているのよね。私は、この謎への唯一の手がかり。……なら、私たちが組むのが一番だわ」


驚きで言葉を失う御幸。これまで一人で戦い、誰にも踏み込ませなかった自分の領域に、彼女は躊躇なく踏み込んできた。


けれど、その瞳に嘘の色はない。


御幸は口元をわずかに緩めた。


「……わかった。協力して」


チン・ランもまた微笑む。しかし、すぐに彼女は首を傾げた。


「ただし、条件があるの」


「条件?」


「たまにはちゃんと休むこと」


御幸は思わず苦笑した。


「それが捜査に関係あるの?」


「あるわ。疲れ切った刑事は、一番大切なものを見落とすから」


その夜。街の裏路地。


黒い手袋をした人影が、闇に溶けるように壁の前に立った。


スプレー缶を振る音が響く。新たに描かれた「赤い円」。その横に、冷ややかな文字が刻まれた。


『思い出してはいけない。』

人影は闇に紛れて姿を消した。


だが、その背後から――冷徹な視線が、しっかりと彼を捉えていた。


翌朝、署に戻った御幸の机の上には、『赤丸事件』の資料が山積みになっていた。


15年前に終了した捜査。公式の理由は「証拠不十分」。


しかし、読み進めるほどに御幸の背筋は凍りついた。


抜け落ちたページ。改ざんされた報告書。そして、塗りつぶされた名前の数々。


誰かが真実を意図的に隠蔽した――それは火を見るより明らかだった。


「一体、誰が……」


呟いた瞬間、スマートフォンが震えた。チン・ランからのメッセージだった。


『おはようございます、刑事さん。……少し、思い出しました』


御幸は即座に椅子を蹴り上げ、署を飛び出した。


カフェ。チン・ランは湯気の立つカップを両手で包み込み、いつもより硬い表情で窓の外を見ていた。


「何を思い出したの?」


「……廊下です」


彼女の声は、冷たい空気に溶けるように低かった。

「とても長くて、暗い廊下。……たくさんの子供たちの泣き声が、響いていました」


御幸は手帳にペンを走らせる。手が震えないよう、必死に自分を律しながら。


「誰かの声は聞こえた?」


チン・ランはゆっくりと目を閉じた。呼吸を整え、記憶の深淵へと潜り込む。


「……ええ。『後ろを振り返るな』と。……そう、誰かが言っていたんです」


『後ろを振り返るな』。


その言葉の持つ意味を考え、御幸は手帳を閉じた。

「無理をしないで。もう十分よ」


「……あなたは、いつもそうですね」


チン・ランが御幸をまっすぐに見つめた。


「え?」


「人を守ろうとする時、自分を犠牲にすることばかり考えている。……刑事さん、あなたの心は、自分が思っている以上に脆いですよ」


御幸は視線を逸らした。核心を突かれた動揺が、心地よい痛みとなって胸に広がる。この女性には、自分の武装がすべて見透かされているような気がした。


午後、二人はあの写真の廃校へと向かった。


冷え切った空気。ひび割れた壁。かつて子供たちの笑い声があった場所は、今や沈黙の墓場となっていた。


校門の前で、チン・ランが足をとめた。


「……私、ここを知っている」


床板が軋む音だけが響く中、御幸は懐中電灯で道を照らした。たどり着いたのは、埃まみれの教室。

チン・ランがその場に立ち尽くし、青ざめた。


「ここです。……私たちは、ここで毎日のように描かされていたんです」


「描かされていた?」


「赤い円を。……もし描かなければ、何か恐ろしいことが起きるような、そんな暗い空気の中で」


顔を歪めるチン・ランを、御幸はとっさに支えた。

その時、御幸の足元に、床に落ちていた一枚の紙切れが目に入った。


震える手で拾い上げる。そこには、鋭い筆跡でこう記されていた。


「最後の証人を見つけるな。」


御幸の鼓動が早まる。最後の証人。……それが目の前にいるチン・ランのことだと、直感したからだ。

廃校の外。一台の黒い車が、エンジン音もなく停車していた。


運転席の男は、一枚の古い写真を眺めている。


そこに写るチン・ランの顔は、鮮烈な「赤い円」で囲われていた。


男は写真の裏に、ゆっくりと書き加える。


「時間がない。」

車内には冷徹な静寂が満ちている。


一方、廃校の教室。


御幸はチン・ランの肩を強く抱き寄せた。


これがただの事件捜査ではないこと。自分は今、一人の女性の「過去」と「命」を守るために、取り返しのつかない深淵へと足を踏み入れたことを理解していた。


「チン・ラン、聞いているか?」


御幸の声は、かつてないほど決意に満ちていた。


「何があっても、私があなたを守る。……この約束だけは、絶対に守り抜くから」


外はもう、夕闇に染まり始めていた。


二人を待ち受ける運命が、確実に動き出そうとしていた。



その夜、御幸のデスクは資料の海に沈んでいた。


写真は散乱し、新聞の切り抜きには赤ペンで無数の線が引かれている。中心にあるのは、やはり「チン・ラン」という名前だけだ。


15年前の廃校で行われた、謎の実験。記録は消され、子供たちの記憶は奪われた。


ほとんどの子供たちは過去を失い、街を去った。

だが、一人だけ――。


「あなたが最後の証人なのね……」


呟いた瞬間、スマートフォンが鳴った。


『刑事さん、家で変なものを見つけました』


チン・ランからのメッセージ。御幸は迷わず、夜の街へと駆け出した。


チン・ランのアパートは、彼女の性格を表すように整理整頓されていた。


しかし、彼女が指差した古い箱は、まるで異物のように部屋の空気を濁らせている。


手袋をはめた御幸が蓋を開けると、中には無数の子供の絵が詰まっていた。すべてに赤い円が描かれている。


その底に、一枚の古びた封筒があった。表書きにはこうある。


『チン・ランへ。すべてを思い出した時に開けてください』

二人は顔を見合わせ、頷く。


チン・ランが震える指で封を開けた。筆跡は細く、消え入りそうだ。


『これを読んでいるなら、あなたが無事に大人になれたということね』


彼女の声が小さく震える。


『私はあなたの記憶を、できる限り消し去りました。でも、いつか記憶は戻ってしまう。……赤い円は、遊びなんかじゃない。私たちが互いを識別するための、暗号だった』


御幸は息を呑む。暗号。それは、子供たちを束ねるための……。


『誰かが、この学校を実験場にしていたの。子供の記憶を書き換え、操る実験を』


チン・ランは言葉を切り、沈黙した。部屋に時計の秒針の音が響く。


御幸の背筋に、氷のような戦慄が走った。記憶操作。それは単なる犯罪を超えた、悪魔の所業だった。


『あなたは唯一、真実に気づいた子。だから、あなたは標的になった』


チン・ランは最後の行を読み上げた。


『もしまた赤い円が現れたら――その人が戻ってきたという合図よ』


差出人の名前はない。しかし、犯人は今も自由に歩き回っているのだ。


しばらくして、御幸はキッチンの片隅でコーヒーを淹れていた。


ソファで手紙を握りしめるチン・ランに、湯気の立つマグカップを差し出す。


「大丈夫?」


「……ううん、全然」


チン・ランは弱々しく微笑んだ。


「無理をしないで。平気なふりをしなくていいの」


「……あなたは、本当に何でもお見通しなのね」


「仕事だから」


チン・ランが小さく笑う。


「違うわ。それは、あなたの優しさよ」


御幸は言葉を失い、コーヒーに視線を落とした。

いつもなら即座に否定するのに、今は言葉が出てこない。


自分の鎧をいとも簡単に剥がしていくチン・ランの存在が、恐ろしくもあり、同時に救いでもあった。

御幸が帰ろうとしたその時、署からの緊急コールが鳴った。


「笠原、緊急事態だ」


大田の声は、信じられないほど引きつっていた。

「廃校で何者かが侵入した痕跡が見つかった」

御幸は凍りついた。


「……何か、見つけたんですか?」


大田は一呼吸置いて、声を絞り出した。


「壁に、メッセージが残されていた。『刑事も消さなければならない』と」


御幸は動けなくなった。


傍らに立つチン・ランも、その会話を聞いたのか、顔から血の気が引いていく。


「御幸さん……」


「……大丈夫。絶対に守るから」


刑事としての義務感を超え、今、御幸の胸にあるのはただ一つの執着だった。


彼女を殺させはしない。


静寂に包まれた部屋で、二人の運命は決定的な分岐点を迎えた。


翌朝、警察署全体が厳戒態勢に入った。廃校に残されたメッセージは、捜査を最優先事項へと押し上げた。


御幸は巨大なボードに散らばる資料を食い入るように見つめる。写真、名前、日付。断片的な情報の海。


ふと、一枚の古い写真が御幸の目に留まった。窓ガラスに反射した、ぼやけた人影。


御幸はそれをデジタル解析にかけた。ぼんやりと浮かび上がる文字――『児童認知開発研究所』。

「……違法な人体実験だったのね」


確信した瞬間、電話が鳴った。かつて学校に勤めていた教師が、重い口を開いたという。


一時間後。図書館の片隅で、御幸とチン・ランは一人の老人と対面していた。


老人の手は震え、瞳には深い後悔が宿っている。

「全て話しましょう。あの学校で行われていたのは、人間の記憶を操る研究です」


老人は声を潜めた。「資金源は、国の要人たち。子供たちは……実験台でした」


「なぜ子供だったのですか?」


チン・ランの問いに、老人は悲しげに微笑んだ。

「子供は記憶を書き換えやすいから。……ですが、あなたたちは彼らの計算を超えていた」


老人はチン・ランを指差した。


「あなたが『赤い円』を生み出した。記憶を奪われても、自分たちが何者であるか、どこから来たかを思い出すための、あなただけの暗号だったのです」

チン・ランは自身の口元を覆い、震えた。自分が何者かを守ろうとしていたのか。


「……でも、黒幕は?」


「プロジェクトの主導者は、まだ生きています」


その夜、御幸の端末に匿名の場所が届いた。廃校のメインルーム。


「危険すぎるわ」と言う御幸に、チン・ランは静かに微笑んだ。


「もう逃げたくないの」


廃校の廊下は、まるで過去と現在を繋ぐ迷路のようだった。


部屋の奥には、一人の老人が椅子に座っていた。優雅で、不気味なほど冷静な男。


「遅かったな」


「プロジェクト『赤丸』の責任者ですね」


御幸が拳銃を構える。男は肩をすくめた。


「全てを忘れるべきだった。あんなにも美しい実験だったのに」


男が証拠の書類を燃やそうとした瞬間、御幸が飛び込んだ。


外で待機していた捜査員たちがなだれ込み、静寂が破られる。15年という長い時を経て、闇のプロジェクトはついに終止符を打たれた。


数日後。街は日常を取り戻していた。


署のボードはすでに空っぽで、事件は「解決済み」のラベルが貼られている。


署から出た御幸を、向かいの歩道でチン・ランが待っていた。手には二つのコーヒー。


「お疲れ様でした、刑事さん」


二人は並んで歩き始めた。事件という名の重圧から解放され、ただ春の風が心地よい。


「……あの」


チン・ランが立ち止まり、御幸を見た。


「もう、私たち、会わなくなるのでしょうか?」


御幸は歩みを止めた。今まで、事件の解決だけを信条にしてきた。けれど、今の自分には、事件のない世界でも彼女と歩きたいという思いがあった。


「……それは困るわ」


「どうして?」


御幸は初めて、刑事としての「仮面」を外して俯いた。


「……あなたと過ごす時間が、今は何よりも大切だから」


チン・ランが目を細め、心からの笑みを浮かべる。それは、彼女の記憶の中のどんな思い出よりも温かいものだった。


「なら、解決策があるわ」


チン・ランが手を差し出した。


「次からは、捜査なしで会いましょう?」


御幸はその手を見つめ、迷うことなく握り返した。

その手は、凍えるほど冷たかった過去の記憶を拭い去り、確かな体温を伝えていた。


二人は歩き出した。


御幸の赤い手帳には、最後の一文が記されていた。

『赤丸事件:解決。』


その下に、彼女は書き足す。


『真実を追い求めた果てに見つけたのは、事件の答えではなく、この先を共に歩む人でした。』


あれから三週間が経った。街に平穏が戻り、「赤い円」の噂も過去のものとなった。


笠原御幸にとって、それはあまりにも長く、そして静かな休息だった。


御幸は紙袋を手に、かつてすべてが始まったあのカフェの前に立っていた。


窓越しに見えるチン・ランは、いつもと同じ席でペンを走らせている。だが、そのキャンバスに描かれているのは、呪いのような赤い円ではなく、色鮮やかな花々だった。


ドアベルの音と共に店に入ると、チン・ランが顔を上げ、花が咲くような笑みを浮かべた。


「おはようございます、刑事さん」


席に着いた御幸は、紙袋から新しい画材を取り出した。


「これ、あなたの分」


「……新しいマーカー?」


チン・ランの瞳がキラキラと輝く。「どうして、これが欲しかったって分かったの?」


「……仕事の一環よ」


御幸がいつもの言い訳をすると、チン・ランは声を立てて笑った。二人を包む空気は、かつての張り詰めた緊張感とはまるで違う、穏やかなものだった。

その日の午後、二人は公園を散策していた。


どこにでもある日常。子供たちの笑い声。平和な風景が、今の御幸には何よりも眩しく見えた。

「ねえ、御幸さん」


チン・ランが足を止め、こちらを向く。


「調査することが何もない日常って、不思議ね」


「ええ。……でも、悪くないわ」


「寂しくないの?」


「……今は、全く」


チン・ランはふふっと微笑み、続けた。


「……ねえ、聞いてもいい? あなたが『私を好きだ』って気づいたのは、いつ?」


御幸は不意を突かれ、足を止める。


「……いきなりね」


「捜査の一環よ?」


チン・ランの悪戯っぽい笑いに、御幸もつられて笑った。


「……あのカフェでの初日よ」


「えっ、あんなに早く?」


「あなたが『休んでください』って言った時。……今まで、誰もそんなことを言ってくれなかったから」


結果や効率ばかりを求められる人生。けれど、チン・ランだけは、一人の人間として自分を見てくれた。


「そうだったのね」と、チン・ランの瞳が優しく細められる。


夕暮れ時。公園のベンチに座り、チン・ランがスケッチブックを開いた。


そこに描かれていたのは、寄り添って歩く二人の姿。


「どうかな?」


「……とても綺麗ね」


「私たちよ」


チン・ランの言葉に、御幸は小さく頷いた。

「ええ。……私たちね」


チン・ランがそっと、御幸の手を握った。


二人の指が自然に絡み合う。御幸はもう、刑事として取り繕うことも、困惑することもない。ただ、その温もりを心から受け入れていた。


刑事としての長い旅は終わった。けれど、彼女たちの本当の物語は、ここから始まる。


御幸は家に帰り、最後の一ページを開いた。


そこには力強い筆跡で、こう記されていた。


「赤い丸は終わった。」


そしてその下に、新しい希望を込めて書き足した。

「でも、私たちの物語は、ここから始まる。」


御幸は手帳を閉じた。答えを探す必要は、もうどこにもない。


彼女は、人生で一番大切な「何か」を、この手の中にしっかりと握りしめていたからだ。


【完】



---•---


あとがき:


この話を連載化したい衝動に駆られています…とりあえずパイロット版とでも言っておきましょうか、ハハ。

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