第10話 狸の迷宮と理系の意地
その日の調査は、裏山の北斜面だった。
冬華から渡された地図に、龍脈の歪みが強い地点がいくつか印をつけてある。北斜面はその中でも特に歪みが大きく、翠玉の言った「臨界」に最も近い場所だと宗次郎から聞いていた。
和臣は一人で山道を登っていた。弓は影に仕舞ってある。両手が空いているので、クリノメーターと地質図を交互に使いながら歩ける。
おかしいと気づいたのは、1時間ほど経った頃だった。
同じ岩が、また出てきた。
V字に割れた
(道を間違えたか!?)
地質図を確認した。現在地は間違っていない。しかし目の前の露頭は、確かにさっき見たものだ。
さらに10分歩いた。
また同じ岩が出てきた。
◇◆◇◆◇
霧が出てきた。
山の霧は珍しくない。しかし今日は雲ひとつない晴天だ。霧が出る条件にない。それでも白い靄が足元から上がってきて、あっという間に視界が2メートルほどになった。
和臣は立ち止まった。
霧の中に、光があった。
暖かいオレンジ色の光だ。窓の光だ。その輪郭が、少しずつ鮮明になってくる。
記憶にある匂いだ。
研究室だ。
東京の大学の、地質学の研究室だ。
本棚に岩石標本が並んでいる。デスクの上に文献の山。ホワイトボードに地層の模式図。窓の外に、都市の夜景が広がっている。
和臣は、その光景を見つめた。
懐かしい。
指導教授に研究テーマを詰められた夜。同期と深夜まで文献を漁った日。ゼミ発表の前日に標本を並べ直した朝。それが全部、ここにある。
研究室の椅子に、誰かが座っていた。同期の山田だ。振り返って、「天城、戻ってきたのか」
「戻ってきたって、俺は、ずっとここにいたぞ」
「それは、そうと来週のゼミ発表、資料できてるか? 教授が研究テーマについて話したいって言ってたぞ」
ゼミ発表。研究テーマ。
そうだ。大学4年の夏はやることが山積みだ。卒業研究のテーマを固めて、大学院の準備をして、フィールドに出て、データを積み重ねて。その最初の一歩を、今まさに踏んでいるはずだった。
和臣は一歩、研究室へ踏み出した。
フローリングを踏んだ。冷えた空調の空気が顔に当たった。山道の蝉の声が、消えていた。
椅子を引いて、デスクに向かった。文献を開いた。知っている言語が並んでいる。堆積岩の走向、断層の解析、地磁気の測定——これが自分の世界だ。
時間が、経っていた。
どのくらい経ったのかわからない。気づくと窓の外が暗くなっていた。山田が「帰るぞ」と声をかけてきた。
「ちょっと待ってくれ、もう少し……」
「またか。お前、根詰めすぎだって!」
そうかもしれない。でも、これが自分だ。
地層を読んで、数値を出して、仮説を立てる。それが性に合っている。
妖狐の恋人も、河童も、烏天狗も、ここにはいない。
いなくて、いい。
◇◆◇◆◇
「和臣くん!」
声がした。
遠い。霧の向こうから、綿を何枚も重ねたような感触で届いてくる。
「和臣くん、返事して!!」
和臣はデスクから顔を上げた。山田が首をかしげた。「どうした?」
「……声がした?」
「ん? 何も聞こえないけど……」
そうかもしれない。その通りだ。
研究室に声がする理由がない。
和臣はまた文献に目を落とした。
「お兄ちゃん!」
今度は別の声だった。高くて、少し震えていた。
和臣の手が、止まった。
お兄ちゃん。
そう呼ぶのは、小春だ。白銀の髪と水色の目の、あの子だ。
「和臣くん、お願い、聞こえてる?」
陽秋の声だ。今度はさっきより近い。霞がかった感じが少し薄くなっている。
和臣は立ち上がった。
「何してるんだ。まだ終わってないだろ」
「……ちょっと待ってくれ」
和臣は窓に近づいた。窓の外は東京の夜景だ。どこにも山道はない。どこにも霧はない。
しかし、声は確かにそこから来ていた。
◇◆◇◆◇
「お兄ちゃんは逃げて!」と、あの時小春が言った。「大丈夫、後ろで見てて。そう簡単にやられないだろ」と和臣は答えた。
あの子は妖怪で、でも怖がって泣きそうな顔で和臣を心配した。
(俺は今、どこにいる?)
和臣は首から下げたルーペを握った。
足元を見た。
フローリングではなかった。野外の、露出した岩盤だ。
和臣はしゃがみ込んで、岩盤にルーペを当てた。10倍。岩石の表面が拡大される。結晶の形。鉱物の配列。
おかしい。
劈開の方向が、バラバラだ。石英の結晶が、物理的にあり得ない角度で並んでいる。自然界でこの配列が生まれることはない。
(これは、幻だ!)
「石は嘘をつかない!!」
声に出して言った。
研究室の光景が、揺れた。
「だから、これは偽物だ!!」
霧が晴れた。
北斜面の陽射しが戻ってきた。蝉の声。岩盤の照り返し。
「和臣くん!」
陽秋が駆け寄ってきた。息が上がっている。顔が青い。和臣の腕を掴んで、上から下まで確かめるように見た。
「大丈夫? 怪我してない?」
「大丈夫だ。どのくらい経った?」
「2時間以上、よ!」
和臣は少し黙った。感覚的には30分ほどだと思っていた。
「お兄ちゃん!」
小春が後ろから追いついてきた。息を切らして、和臣の腕にしがみついた。目が赤い。泣いていたらしい。
「よかった……返事してくれないから、もうどこかに消えちゃったのかと」
「心配かけた。ごめん」
そこへ、ぬっと影が落ちた。
太った男が、
「ほっほっほ」
男は腹を揺らして笑った。
「2時間とは、よく保った方じゃ」
「……あなたが茂助さんですか」
「そうとも。宗次郎から聞いておるのかの?」
陽秋が茂助を見た。茂助は陽秋を見返した。にこにこしたまま、お辞儀をした。
「二の姫。お久しぶりです」
「……茂助さん」
陽秋の声が、少し低くなった。
「今回のこと、冬華姉は知っているんですか?」
「知らんよ。ワシが勝手にやった」
「勝手に?」
「二の姫も七尾の姫。ワシに口出しするなら、それ相応の力で来てほしいもんじゃ」
陽秋と茂助が、しばらく無言で向き合った。茂助は一歩も引かない。陽秋も引かなかった。
小春が和臣の袖をそっと引いた。小声で言う。
「茂助さんはね、誰の味方でもないの。お嬢にも、竜神様にも、私たちにも。ただ、この土地のことだけを考えてる」
「だから試したのか」
「うん。でも……」
小春は茂助を見た。
「公平だから、私たちが助けに来ることも止めなかった」
茂助が和臣の方を向いた。
「人間よ。一人では無理だったな」
「……そうです」
「素直じゃな」
茂助は腹を揺らした。
「しかし最後は自分で気づいた。声があっても、ルーペを出したのはお前じゃ。それは認めてやる」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。ただ——」
茂助は北斜面の木々を見渡した。
「一人で抱えようとするな。この土地には、お前を助けたいと思う者が大勢おる。それを素直に受け取れるかどうかも、器の条件じゃよ」
茂助の姿が、霧に溶けるように消えた。
北斜面に、三人だけが残った。
陽秋が和臣の隣に立った。まだ少し顔が青い。
「……心配したんだよ」
「ごめん」
「次からも、一人で行くなとは言わない。でも--」
陽秋は和臣を見た。
「返事くらいして」
和臣はルーペを首に戻した。
「わかった。絶対にする」
小春が二人の間に割り込んで、両方の手を繋いだ。
「帰ろ。お昼ごはん、冷めちゃう」
地質図を鞄に仕舞いながら、和臣は北斜面を振り返った。龍脈の歪みを示す印が、いくつも並んでいる。あと9日。
一人では無理だった。それはそうだ。
和臣は歩き始めた。
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