第2話 ナナティナ

 三体のファングル。


 槍一本。


 背後には、正体不明の白髪の娘。

 状況としては最悪だった。


 夜の森は、息を潜めているように静かだった。


 湿った土の匂い。


 踏み荒らされた落ち葉。


 木々の隙間から落ちる細い月明かり。

 その中で、三体の獣型魔物だけが、低く喉を鳴らしていた。

 アレンは、槍の穂先を三体の獣型魔物へ向けたまま、口元だけで笑った。


 笑うしかなかった。


 まともに考えれば、勝てる状況ではない。

 グリムリとは格が違う。

 畑を荒らし、家畜を盗む程度の小心者ではない。

 ファングルは獲物を狩る。

 牙で肉を裂き、爪で骨を砕き、群れで囲んで逃げ道を潰す。

 大人が数人がかりで追い払う相手。

 それが三体。

 村の若者が一人で相手にしていい数ではなかった。

 背後の娘は、そんな状況を理解しているのかいないのか、地面に座り込んだままアレンを見ていた。


 腰まで届く白い髪。


 夜の森の中で、妙に浮き上がる白い肌。


 見慣れない白い衣装。


 眠たげにも見える細い目。

 

 彼女の周囲に張られていた薄い光の膜は、まだかすかに揺れている。

 結界魔法のようなもの。

 少なくとも、アレンにはそう見えた。

 だが、彼は魔法の専門家ではない。

 魔法を使えるのは、基本的にウィッチと呼ばれる女性たちだ。

 

「おい、白いの」


 アレンは前を向いたまま言った。


「立てるか?」


「白いのとは、私のことか?」


「他に白いのがいたら紹介してくれ」


 ファングルが低く唸る。

 喉の奥で石を擦るような音だった。

 アレンは舌打ちした。

 軽口を叩いている余裕などない。


 ――それでも喋る。


 黙ると、恐怖が喉を塞ぎそうだった。

 一体目が低く身を沈めた。


 来る。


 そう思った瞬間、ファングルが跳んだ。


「っ!」


 アレンは半歩横へずれ、槍の柄で牙を受け流した。


 重い。

 

 ただの獣ではない。

 体重も、勢いも、グリムリの比ではなかった。

 柄を通して腕が痺れる。

 骨まで響くような衝撃に、アレンは歯を食いしばった。

 そのまま石突きでファングルの脇腹を突く。

 鈍い手応え。

 だが、浅い。

 ファングルは軽く跳び退き、すぐに体勢を整えた。


「硬ぇな、おい……!」


 次の瞬間、左から二体目が来た。

 アレンは槍を回し、穂先で牽制する。

 ファングルはそれを読んでいたように、ぎりぎりで足を止めた。

 そして三体目が、反対側から回り込む。


「くっ、嫌な動きしやがる!」


 群れの狩りだ。

 一体が注意を引き、一体が横を取り、一体が背後を狙う。

 アレンは白髪の娘を背にしている。

 後ろには退けない。

 退けば、彼女が食われる。

 アレンは槍を短く持ち替えた。

 広く振るう余裕はない。

 近づかれたら終わりだ。

 だが、近づかせなければ、白髪の娘の前を守れない。

 矛盾した状況だった。


「白いの、後ろに下がれ!」


「『後ろ』とは、どちらだ?」


「お前マジか!?」


 思わず振り向きそうになった。

 その隙を、ファングルは見逃さなかった。

 一体が正面から突っ込んでくる。

 アレンは慌てて槍を構えた。

 ファングルの牙が穂先を弾く。

 金属音に似た硬い音がした。

 獣の肩がアレンの胸にぶつかる。

 息が詰まった。

 体が後ろへ押される。

 足元の落ち葉が滑る。


「ぐっ……!」


 倒れかけたところを、アレンは槍を地面に突き立てて踏みとどまった。

 だが、そこへ二体目が飛び込んでくる。

 狙いはアレンの右腕。

 槍を握る腕だ。


「やべ――」


 避けきれなかった。

 牙が腕に食い込む。

 熱い痛みが走った。


「がぁっ!」


 血が飛んだ。

 ファングルは噛みついたまま首を振ろうとする。

 腕を持っていかれる。

 アレンは反射的に膝を叩き込んだ。

 

 ファングルの顎がわずかに緩む。

 

 その隙に、左手で短剣を抜き、獣の鼻先を切りつけた。

 ファングルが悲鳴を上げて離れる。

 アレンは腕を押さえ、よろめいた。

 血が指の間から流れる。

 右腕に力が入らない。

 槍を持つ手が震える。


「っ、は……」


 息が荒くなる。


 痛い。


 痛いが、それ以上にまずい。


 右腕をやられた。


 槍の動きが鈍る。

 ファングルたちはそれを理解したように、じりじりと距離を詰めてきた。

 獣のくせに、笑っているように見えた。


「……白いの」


 アレンは血の混じった息を吐きながら言った。


「動けるなら、走れ」


「お前は?」


「俺は、まあ……格好よく時間稼ぎだ」


「時間稼ぎ?」


「そう。男の見せ場ってやつだな」


 自分で言って、馬鹿な台詞だと思った。

 だが、そうでも言わなければ立っていられなかった。


 恐怖はある。


 痛みもある。


 足は震えている。


 それでも、背中の娘を置いて逃げるという選択肢だけは、どうしても選べなかった。


――「お前は、死ぬのか?」


 静かな声だった。

 あまりにも静かだった。

 責めているわけでも、怯えているわけでもない。

 ただ、分からないことを尋ねている。

 

 その響きが、妙に腹立たしかった。


「……かもな」


 アレンは槍を構え直した。

 右腕から血が落ちる。

 痛みで視界が揺れる。

 それでも、前に立つ。


「……これでようやく……だが、ただでは死なねぇ!」


 ファングルが一斉に動いた。

 三方向。

 逃げ場はない。

 アレンは正面の一体へ槍を突き出した。

 だが、腕に力が入らない。

 穂先は狙いよりわずかに下へ逸れた。

 ファングルがその槍を避け、低く潜る。

 左から別の一体。

 右から噛みついてきた一体。


 間に合わない。


 アレンはそれでも、彼女の前から退かなかった。


 その時。


 背中に、冷たい指先が触れた。


「……?」


 白髪の娘が、アレンに触れていた。

 ほんの軽く。

 服越しに、背中へ手を添えただけ。


 それなのに。


――「死ぬな、アレン」


 アレンの全身に、激痛が走った。


「あ――がっ!?」


 怪我の痛みではない。

 噛まれた腕とは別の痛み。

 まるで鋭い針が血管の内側を切り裂きながら、体中を駆け巡っていくような感覚。


 心臓から指先へ。


 喉から腹へ。


 背骨から脳の奥へ。


 白い何かが流れ込んでくる。


 熱い。


 冷たい。


 痛い。


 痛い。


 痛い。


「な、に……しやがっ……!」


 アレンは叫ぼうとした。

 だが、声にならなかった。

 次の瞬間。


 ――アレンの中で、なにかが爆発した。


 森が白く染まる。

 音が消え、ファングルの牙も、爪も、唸り声も、すべて白い光に呑まれる。

 三体の獣型魔物は、断末魔を上げる暇すらなかった。

 白い光に触れた瞬間、灰のように崩れ、霧のように消えた。

 

 アレンは何が起きたのか分からなかった。


 ただ、体の中を駆け回っていた激痛が、唐突に途切れた。

 膝から力が抜ける。

 地面が近づく。

 アレンはそのまま倒れた。


       β


 最初に戻ってきたのは、土の匂いだった。

 湿った落ち葉。

 夜の森。

 草の青臭さ。

 それから、自分の荒い呼吸。


「……っ、は……」


 アレンは目を開けた。

 空が見える。

 木々の隙間に、星がちらついていた。


 生きている。


 そう理解するまで、少し時間がかかった。


「腕……」


 アレンは噛まれた右腕を見た。

 血はついている。

 服も破れている。

 

 だが、傷がない。


 牙に裂かれたはずの皮膚は、何事もなかったように塞がっていた。


 痛みもない。


 右肩も、腕も、全身も。

 さっきまでファングル相手に無理をしていた体が、嘘のように軽い。


 むしろ絶好調だ。


「……何だ、これ」


 アレンは起き上がろうとした。


 その時、横に白髪の娘が倒れていることに気づいた。

 気を失っている。

 長い白髪が落ち葉の上に広がっている。

 顔色は悪くない。

 息もしている。

 だが、ぴくりとも動かない。


「おい。白いの」


 アレンは慌てて彼女の肩を揺らした。


「おい、起きろ。お前、何したんだよ」


 返事はない。

 その時、遠くから声がした。


「アレン!」


 ミドだった。

 警笛を握りしめたまま、森の奥へ駆け込んでくる。

 顔は真っ青だった。


「今の音、何だ!? 爆発みたいな――って、お前、無事か!?」


「たぶん」


「たぶんって何だよ!」


「ファングルがいた。三体」


「は!?」


「だけど消えた」


「……何言ってんだ?」


 ミドはアレンの顔を見た。

 それから周囲を見回した。

 そこには確かに、戦いの跡があった。

 地面は円を描くように抉れている。

 落ち葉は吹き飛び、木の幹には白く焦げたような跡が残っていた。

 その中心に、ボロボロで血の付いた服を着ているアレン。


 彼を中心に、何かが爆発したように見えた。


「……何したんだ、お前」


「いや、俺じゃねぇよ」


 アレンは気絶している白髪の娘を見下ろした。


「たぶん、この白いのが何かやった」


「誰だよ、その子」


「知らん」


「知らんって、お前な……」


「俺が一番聞きてぇよ」


 アレンは頭をかいた。

 血のこびりついた袖。

 破れた服。

 傷のない腕。

 消えたファングル。

 倒れている白髪の娘。


 証拠はある。

 だが、何一つまともに説明できない。

 ミドはしばらく黙っていた。

 再び抉れた地面と白く焦げた木を見て、渋々頷いた。


「……お前が嘘ついてるって感じじゃねぇな」


「だろ?」


「でも、意味は分からん」


「ああ、俺もだ」


「どうすんだ、その子」


 アレンは白髪の娘を見る。

 夜の森に置いていくわけにはいかない。

 ファングルは消えたが、魔物が他にいない保証はない。

 それに、この娘は明らかに普通ではない。

 結界のようなものを張り、アレンに触れた瞬間、白い爆発を起こした。


 何者かは分からない。


 だが、命の恩人ではある。


「……とりあえず、家に連れて帰る」


「お前ん家に?」


「爺ちゃんに怒られる未来が見えるが……仕方がない」


「見えるな」


「だよねー」


 アレンは白髪の娘を背負おうとした。

 その体は驚くほど軽かった。

 いや、軽いというより、現実感が薄い。

 腕に抱えているのに、どこか夢でも見ているような不思議な感覚があった。


 白い髪が、アレンの肩にかかる。


 夜風に揺れて、月明かりを吸ったように淡く光った。


「……本当に何なんだよ、お前」


 娘は答えなかった。


       β


 ガレンは、話を聞き終えるまで一度も口を挟まなかった。

 ただ、腕を組み、厳しい顔で孫の説明を聞いていた。


 森でファングル三体に遭遇したこと。


 白髪の娘が結界のような光で身を守っていたこと。


 腕を噛まれたこと。


 娘が触れた瞬間、白い光が爆発し、ファングルが消えたこと。


 気づいた時には、怪我が治っていたこと。


 すべて話した。

 話しながら、アレン自身も信じられなかった。

 あまりにも現実離れしている。

 だが、背後の寝台には、現実として白髪の娘が眠っている。

 それだけは疑いようがない。


「……そうか」


 ガレンは短く言った。


「爺ちゃん、信じるのか?」


「お前がそこまで馬鹿な嘘をつけるほど器用なら、畑仕事ももう少し上手くサボれてる」


「信頼のされ方がひどいぜ」


 ガレンは立ち上がった。


「俺は村長に話してくる。それからナチュレ家にも報告だ。領主様の判断も仰がにゃならん」


「この子はどうする?」


「怪我が無いようだし、ひとまずここで寝かせる。夜中に目を覚ましたら刺激するな。逃げ出しそうなら止めろ。暴れそうなら、すぐ呼べ」


「暴れると思うか?」


「分からん」


 ガレンは娘を見た。


 白い髪。


 白い肌。


 人間離れした雰囲気。

 村で見かける娘ではない。

 旅人にしては荷物もない。

 貴族令嬢にしては服も素性もおかしい。

 魔法を使ったようだが、ウィッチなのかも分からない。


「厄介なことになるかもしれん」


「だよなぁ」


「だが、放っておくわけにもいかん」


 ガレンはアレンを見た。


「お前も少し休め」


「俺は大丈夫だって」


「昨日はグリムリ五体、今日はファングル三体。しかも謎の娘を拾った。大丈夫なわけあるか」


「拾ったって言うと物みたいだろ」


「お前が先に言ったんだろうが」


「そうでしたねぇ、はい」


 ガレンはため息をつき、家を出ていった。

 居間には、アレンと白髪の娘だけが残された。

 小さなランプの灯りが、彼女の白い髪を淡く照らしている。

 森の中では月明かりを吸うように見えたその髪は、家の中では雪のように静かだった。

 アレンは椅子に腰を下ろし、頬杖をついた。


「……何なんだろうな、お前」


 娘は答えない。

 眠っている。

 その寝顔は、驚くほど静かだった。


 森でファングルに囲まれていた時もそうだったが、恐怖というものが薄いのかもしれない。

 あるいは、自分が何者なのかも分かっていないのか。

 アレンは自分の右腕を見た。


 傷はない。


 血もない。


 噛まれた痛みの記憶だけが残っている。

 それが、逆に現実離れしていた。

 あの牙の感触は覚えている。

 腕を持っていかれそうになった恐怖も覚えている。

 なのに、今は何もない。


 白い光。


 倒れた魔物。


 治った傷。


 そして、目の前の白髪の娘。


「……あーあ、厄介なもん拾ったな」


 呟く。

 その時、娘の指先がわずかに動いた。

 アレンは反射的に身構えた。

 しかし、彼女は目を覚まさない。

 ただ、眠ったまま、手を伸ばす。


 その手が、アレンの服の裾を掴んだ。


「……え」


 離れない。


 軽く引いても、意外と力が強い。

 アレンはしばらく無言でその手を見つめた。

 まるで、どこにも行くなと言われているようだった。


       β


 翌朝。

 白髪の娘は目を覚ました。

 目を開けた瞬間、彼女は天井を見た。

 知らない家。

 木の梁。

 素朴な寝台。

 窓から入る朝の光。

 しばらくそれらを眺め、ゆっくりと体を起こす。


 ちょうどその時、アレンが水の入ったカップを持って戻ってきた。


「お、起きたか」


 白髪の娘はアレンを見る。

 じっと見る。

 あまりにもまっすぐ見るので、アレンの方が少し引いた。


「……何だよ」


「お前は、昨日のやつだな?」


「その言い方だと俺が魔物みたいだな」


「おや、違うのか?」


「全然違うわ!」


 少女は首を傾げた。

 だが、その目は明らかにアレンをからかっている。

 アレンは頭を抱えた。


「えーっと……まず名前。お前、名前は?」


「名前か」


「そう。名前」


 娘は少しだけ考え、ぽつりと言った。


「ナナティナだ」


 その声は、不思議なほど自然だった。

 それだけは、最初から知っていたかのように。

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