第35話 笑顔

 ダイが退院して復学した。大怪我をして痩せてしまったが、元気に騒ぐ様子は入院前と変わらない。

「ねえ、ナナーシュ。俺、大変なことに気づいちゃったんだ」

 休学中の遅れを取り戻すべく、ダイは毎晩談話室で自習に励むことになった。監視役のカイと教師役のナナーシュ、シオリも暇なときは顔を出している。

「ダイ、話を逸らそうとしてもやり直しは変わらないわ」

「ち、違うよ」

「じゃあ、何に気づいたの?」

「兄上がアネモネ様の家の養子になったら、兄上って呼べなくなるんじゃないか」

 丸い目を細めて腕を組んだダイの頭に、手刀が入った。

「痛え、兄上、酷え」

「好きに呼んでいいし。さっさとやり直せ」

「えー」

 不満そうに口を尖らせるダイの手に、ナナーシュの手が重なる。

「ダイ……しっかりやりましょうね」

「あ、はい」

 笑顔の圧が最も強いのはナナーシュなのかもしれない。楽譜に書き込みをしながら様子を見ていたシオリは肩を竦める。

「手続きは止まってる。もう、書類上はシェン家から除籍になってるんだけど……」

「そうなの?」

 ナナーシュの問いに、カイが苦笑して頷いた。

「滞在資格について問題になってるんだ。こじれてる」

 行政手続きが政治的な問題で止まっているらしい。カイからもアネモネからも謝罪されたが、シオリはあまり気にしていない。

「……どこの国でも潜在的に異国を排斥したい層はいるものね」

 ため息交じりのナナーシュに頷いて見せて、カイは椅子から立ち上がる。シオリの隣の席へ移って、肩を寄せた。

「早く婚約しないと、またシオリを狙おうって輩が出てくるかもしれないからなー」

「俺、頑張ってるのに、兄上はまたそうやってイチャイチャして」

「……カイ、ちょっと離れて」

 カイの肩を押しのけようとするシオリの耳は熱い。ナナーシュは小さな笑い声を上げて頬杖を突いた。

「ふふ、ダイも戻って。カイもシオリも仲良しで……本当に良かったわ」

 しみじみとした彼女の呟きに、カイとシオリは顔を見合わせて微笑んだ。


 今日もシオリは専門棟の音楽練習室にいた。時間を忘れて集中している間に、窓の外は暗くなっている。楽器に付いた汚れを拭き取り、弓を緩めてケースへ収納した彼女は、ふと思い立ってクラヴィーナの前に座った。ハンカチで両手を拭ってから、彼女は軽やかに鍵盤を叩き出す。バイオリンとは異なる音が室内に明るく響き出した。柔らかな音色が胸を弾ませる。彼女の中から生まれ出した新たな旋律を口ずさみながら、流れるように動く指先に任せて音に浸った。

 満足して扉を開けると、練習室の前にカイがいた。出てくるのを待っていたらしい。

「待ってたなら、声を掛ければいいのに」

「クラヴィーナが聞こえてきたからさ、聞き入ってた」

「そう……」

「なんて曲?」

「え……」

「さっきの、いい曲だね。明るくて弾んでて、なんかかわいい感じ」

 カイの笑顔を見上げて、シオリの胸がコトリと音を立てた気がした。

「『幼き恋の舞踊』にしようかしら」

「……作ったの?」

「なんか、出てきたの」

 はにかんでバイオリンケースを抱きしめるシオリに、カイは優しく微笑んだ。

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