第十六話 二つの道
薄暗い控え室の椅子に座った瞬間、全身から力が抜けた。
思ったより、身体が重い。
今日の試合はメインイベントを残すだけ。控え室も自分たちしかいない。
「疲れ、溜まってるな。大丈夫か」
武國がきらりのテーピングをほどきながら言った。
「……はい」
試合で大きな攻撃をもらったわけじゃない。内容だけ見れば、うまく運べた方だと思う。だけど、試合が終わった途端、どっと疲れが押し寄せた。
新曲もできたし、数字は伸びて、JIGの出場ラインにも届きかけている。
地下闘技場の試合もJIGも大事で、両方とも今の自分を前に進めている。ただ、全部を同じ力で走れるほど、身体は便利にできていなかった。でも、止まれない。
何かが変わると思っていた東京。現実はお金のことばかり考える毎日だった。正直に言うと、弟の借金返済はただのキッカケ。今となっては、弟のためだけじゃない。生活が少し楽になるかもしれないと思っている。
お金のためと思って、ケージに上がったはずだった。
それなのに。
気がつくと、黒い床を思い出している。金網の向こうの歓声、対戦相手を倒したときに、会場が沈黙する瞬間。
かわいいと言われたときとは違う、ステージの上で名前を呼ばれたときとも違う、もっと身体の奥から揺さぶられるような熱。
アイドル活動と、返済のための地下の試合。どちらも大事なはずなのに、心が向く先は同じじゃなくなっている。そのことに気づいてしまったのが、少しだけ怖かった。
そのとき、控え室の扉がノックされた。
入ってきたのは、黒いスーツの男。丁寧で、姿勢も声も固い。
「星空きらり様。主催がお呼びです」
「……主催?」
顔を上げると、隣にいた武國も眉をひそめていた。
「俺も行く」
「はい。郷田様もご一緒に、と伺っております」
「じゃあ俺たちは外で待ってる。着替えろ」
「はい」
全員が控え室を出ていくのを見送りながら、きらりは無意識に息を吐いた。
その後、案内されたのは、闘技場を見下ろすように設けられた部屋だった。後ろには武國。正面の大きな窓からは、金網のケージが一望できる。
部屋の中には男が二人、ソファに座っていた。
一人は髪型が整っていて、妙に肌がツルツル。歯は異様に白く、どこか独特の雰囲気がある。男は立ち上り、名刺を差し出してきた。きらりと武國は、名刺を受け取り頭を下げる。
名刺には、芸能プロデューサー、
「いやあ、君、よく見ると強いだけじゃなくて画になるね。芸能活動、考えたことは?」
「えっ」
突然の話に、思わず固まる。
「あ、
「アイドル? へぇ、どこの? 名前、なんて言うの?」
「桐生さん」
もう一人の男が、座ったまま声をかけた。
桐生は「あ」と笑い、悪びれた様子もなく軽く頭を下げた。
「申し訳ない。つい仕事の癖で」
後ろに座っていた男が立ち上がる。ツーブロックのヘアスタイルでプロレスラーみたいにガタイがいい。少しオーバーサイズのスーツを着ている。ただ、見た目に反して落ち着いた雰囲気だった。
「はじめまして。この興行のプロモーターをさせてもらっている、
武國は、差し出された名刺を受け取った瞬間、何かに気づいたように、名刺に目を止める。
「前田慶治って、もしかして昔、年末にやってたK-1 HYPERの?」
「おお、よく知ってるな」
前田は嬉しそうに笑った。
K-1
立ち技最強を決めるK-1。その中でも、日本人選手が活躍しやすい中量級の大会、だったはず。小さい頃のことであまり覚えていないけど、人気選手を何人も生んだ。
「そんな方が、どうしてここに?」
「単刀直入に言う。日本に、世界一の
武國は一瞬驚いた表情を見せ、すぐに尋ねる。
「狙いは?」
「悪い意味で捉えてほしくはないんだが、君や怜那さんみたいに強くて華のある選手に、客を呼んでほしい」
九条怜那。この間見たサディストの女。
その名前と自分が並べられたことに、少し驚いた。怜那はどう見ても格上だ。
「強いだけの選手ならいくらでもいる。だが、強くて、客にもう一度見たいと思わせる選手は多くない」前田はガラスのほうに移動すると、闘技場を見下ろした。「勝負は勝てば終わりだ。だが、興行はそこで終わらない。次も見たいと思わせられるかどうか。そういった選手がいることも含めて、団体の価値になる」
アイドルと似ていた。次も見たいと思わせなければ、お客さんはまた会いに来てくれない。
「君は、今日の試合でそれを見せた。賞金目当てで終わらないでほしい。君は売れる」
売れるという言葉に、身体のどこかが反応する。
桐生が、座ったまま身を乗り出す。
「勝ち上がれば、地下闘技場だけじゃない。アイドルとしても、売り出す手伝いができる」
「……アイドルとしても?」
「もちろん。今どき、ただ可愛いだけじゃ埋もれる。でも、戦える地下アイドルなんて肩書き、どう考えても強いでしょ。しかも君は本当に強い。商品として面白いよ」
異様に白い歯を見せて桐生は笑った。
商品。
頭では分かっていても、少しだけ何かが引っかかった。
でも、アイドルと地下闘技場。別々だと思っていた二つの世界が、同じ線の上に並んだ気がした。
これまでの目的は、はっきりしていた。
優勝して借金を返す。奨学金と食費に追われる生活を、少しでも楽にする。それだけのはずだった。けれど、目の前の二人は違う未来を見せてくる。
勝てば、賞金だけじゃない。格闘家としても、アイドルとしても、
お金のために上がったケージが、人生を変える場所に思え始めた。
もっと上に行きたい。もっと見られたい。この熱狂の中心に立って、全部ひっくり返したい。
そんな欲が、怖いくらい自然に、でも確かに、胸の奥で湧いた。
東京へ出たときに夢見ていた未来が、初めて形を持った気がする。
もう、優勝賞金だけを見てケージに入ることはできそうになかった。
武國と部屋を出ると、廊下の壁にもたれるようにして、女が立っていた。
えっ、この人……九条怜那?
「あ……お、おつかれさまです」
怜那は返事の代わりに、少しだけ笑った。
その視線が、きらりの後ろにある部屋の扉へ流れる。
「めっちゃよいしょされてたやろ」
「え?」
「売れるとか、華があるとか。あの人ら、そういう言葉好きやから」
聞こえていたのだろうか。
きらりが固まると、怜那は壁から背中を離した。
「あ、聞こえてへんよ。うちのときもそうやっただけ」けらけらと笑う。「嫌やった?」
「……嫌、ではなかったです」
「正直でええね」
怜那が一歩ずつ、きらりに近づく。
えっ。
ちょ。
ちょちょちょ。
止まる様子もなく、きらりの数十センチ前まで近づいた。
近っ。
そう思ったときには、もう怜那の手がきらりの口元の近くにあった。
触れるか、触れないか。
ほんの紙一枚分の距離で、止まる。
怜那の視線が、きらりの頬をすべるように下りて、唇の端で止まった。
「見られるの、好きやろ」
「えっ」
「かわいい顔……今日、ケージの中で笑ってたやん」
「……それは」
「分かるよ。あれ、楽しいだけの顔ちゃう」
言いながら、怜那は、きらりの頬に手のひらを添えるみたいに、ゆっくり手首を返した。
え?
ビクッときらりの身体が震えた。
触れてはいない。
でも、頬の丸みに沿って、上から下へと手のひらが這っていくように動く。そのまま親指だけが、唇の端へ降りてきた。
口元をすくうみたいに、下唇の輪郭をなぞるみたいに、ゆっくり横へ流れる。
触れていないのに、そこに手のひらの熱がある気がした。
「へぇ。そういう顔、するんやね」きらりは、怜那の瞳に吸い込まれたみたいに動けなかった。「相手が落ちる瞬間、好きなんやろ?」
「……っ」
「ええよね、あの顔」
怜那の表情がみるみるうちに興奮へと変わった。
指先が、きらりの頬から顎の下、首筋へと落ちる。
そこで、武國の手が怜那の手首を掴んだ。
「触るな」
武國のドスが利いた低い声。明らかな威嚇。
怜那は痛がる様子も、驚く様子もない。
むしろ、少し楽しそうに目を細めると、手首を掴まれたまま、ゆっくりと武國のつま先から頭のてっぺんまでを見た。
「すっごい殺気。ぞくぞくするわ」
「離れろ」
「過保護なんや」
「用があるなら口で言え」
武國が手を離すと、小さく笑って、素直に一歩下がった。視線がきらりへと戻る。
「元気な子って、最初は声大きいやん。効いてません、まだやれます、って顔するんよ」嬉しそうに自分の手首を軽くさする。「でもな、だんだん呼吸が変わる。苦しそうにもがいて、目の光がすうっとなくなって、顔が変わる」
背中に、ぞわ、と悪寒が走った。
「そういうの見ると、もうちょっと見たくなるねん」
「……趣味、悪くないですか」
「うん。悪いよ」あっさり認めると、悪びれるどころか、嬉しそうに無邪気な笑みを浮かべる。「でも、きらりちゃんも分かるやろ?」
「分かりません」
「ほんまに?」
言い返せなかった。否定したいのに、できない。
「まぁ、勝ち上がってきてよ」
「……お、押忍」
怜那が、きらりへ近づいた。
武國が一歩踏み出す。
「何もせえへんよ。うち、あっち行きたいだけやし」二人の後ろを顎でしゃくった。「楽しみにしてるわ。笑ってるとこ、近くで見たいし」
すれ違いざま、きらりの耳元で囁く。
「それが消えるところも、な」
フッと笑い、そのまま通り過ぎていった。
強いとか、弱いとか、そういう表面の話じゃない。
もっと奥。
きらりが自分でも見ないふりをしていたところに、怜那は当たり前みたいに指を伸ばしてきた。
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