第22話 負荷は消えない
「ユリス・フォルク。前へ」
測定室の空気が変わった。
リナの測定で淡く温まったように思えた空気が、一瞬で硬くなる。
ユリスは黒銀色の測定盤へ向かった。
台座の前に立つ。
午前の測定盤よりも、ずっと近く感じた。
「本測定では、午前測定で確認された結果成立予兆の再確認を行う」
結果成立予兆。
その言葉を聞いた瞬間、ユリスの胸の奥が沈んだ。
「条件は三つ。第一に、魔法は発動させない。第二に、属性変換も行わない。第三に、術式は未成立のまま維持する」
測定官の声は淡々としていた。
「通常であれば、この条件下で結果判定光は発生しない。発生する場合、測定盤はその経路を記録する」
通常であれば。
その言葉が、妙に耳に残った。
「掌を置け」
ユリスは右手を上げた。
掌が重い。
自分のものなのに、自分のものではないようだった。
測定盤へ手を置く。
薄い膜越しに、盤面が脈打つような感触が伝わってくる。
学長の視線を感じた。
測定官たちの視線。
リナの視線。
そして、扉の向こうにいるかもしれないセリアのことを思った。
待っているわ。
昼休みの声が、胸の奥に残っている。
ユリスは息を吸った。
少しだけ流す。
発動させない。
結果を望まない。
何も起こさない。
ただ、測定盤に魔力を触れさせるだけ。
「開始」
ユリスの掌から、魔力が流れた。
黒銀色の盤面に、白い線が灯る。
主流路を進む。
欠けた線へ近づく。
そこで、ユリスの魔力がわずかに震えた。
午前と同じだ。
崩れる。
そう思った瞬間、ユリスの呼吸が浅くなる。
本来なら、そこで止まる。
未成立のまま、測定盤に記録される。
そのはずだった。
だが、盤面の奥で、白い点が灯った。
欠けた術式の先。
まだ流路が届いていない場所。
結果を示す判定層の中心に、小さな光が浮かぶ。
ユリスは歯を食いしばった。
まだ、何も望んでいない。
何も起こそうとしていない。
なのに。
白い点は、消えなかった。
むしろ、測定盤の奥で細く伸びる。
発動へ向かう線ではない。
過程をたどる線でもない。
まるで、結果だけが先に場所を決めて、そのあとから世界に辻褄を合わせさせようとしているような光だった。
「魔力流、逸脱」
「術式未成立」
「属性変換なし」
「判定層、結果反応を検出」
測定官たちの声が重なる。
閉鎖式測定用結界の床面に、淡い白い波紋が走った。
波紋は床の結界線を伝い、壁際の記録用水晶板へ吸い込まれていく。
反動ではない。
衝撃でもない。
けれど、何かが帳尻を合わせようとしている。
ユリスには、そんなふうに見えた。
「フォルク、出力を上げるな」
「上げてません……!」
ユリスは叫ぶように答えた。
本当に上げていない。
むしろ止めようとしている。
何も起こさないように、必死に抑えている。
それなのに、測定盤の白い点は消えない。
オルディス学長が、初めてゆっくりと立ち上がった。
「測定官。第二封鎖層を起動しなさい」
「はい」
測定官が結界盤へ手をかざす。
床の白い線が一段濃く光った。
壁と天井にも、薄い膜のような光が広がっていく。
ユリスの体を覆う保護膜が、少しだけ重くなった。
息がしづらい。
だが、その重さが、かえって現実に引き戻してくれた。
測定官たちは、記録用水晶板を見つめたまま動けずにいた。
「術式未成立。属性変換なし。欠損補完なし。にもかかわらず、結果判定のみ先行」
誰かが、低く呟く。
その言葉が測定室に沈んだとき、オルディス学長が静かに言った。
「では、実物対象で確認しよう」
測定官の一人が顔を上げる。
「学長、それは――」
「対象は無生物。距離は十歩。破壊許容対象を用いる」
静かな声だった。
だが、その場にいた誰も逆らわなかった。
測定官が奥の保管台へ向かい、小さな木箱を取り出す。
古い木で作られた、何の変哲もない箱だった。
中身はない。
壊れても構わないもの。
それでも、ユリスの喉が細くなる。
壊していい。
そう言われることが、なぜか怖かった。
木箱は測定室の奥、白い線で囲まれた対象位置に置かれた。
ユリスから、およそ十歩。
手を伸ばしても届かない距離。
けれど、ユリスの魔法が届いてしまうかもしれない距離。
オルディス学長は、木箱を示した。
「ユリス・フォルク」
「……はい」
「どんな形でもいい。その箱を破壊してみなさい」
測定室の空気が、さらに重くなった。
リナが息を呑む気配がした。
測定官たちの視線が、ユリスと木箱の間に集まる。
ユリスは右手を上げた。
杖はない。
魔法陣もない。
ただ、遠くにある木箱を見る。
怖い、何が起きるかわからない。
でも、逃げるわけにはいかなかった。
測定のために。
自分の力が何なのかを知るために。
ユリスは浅く息を吸う。
魔力を流す。
壊れろ。
そう、強く願った。
普通なら、ここで何かが生まれるはずだった。
火なら赤い光。
風なら空気の揺れ。
衝撃なら音。
魔力弾なら、木箱へ向かう軌跡。
けれど、何も出なかった。
ユリスの掌から、何かが飛んだわけではない。
空気も揺れない。
光も走らない。
だが、強く願った次の瞬間。
部屋の奥の木箱だけが、内側から弾けるように砕けた。
乾いた破裂音が響く。
木片が四方へ散る。
まるで、そこに見えない拳が叩き込まれたように。
けれど、何も届いていなかった。
風もない。
衝撃の軌跡もない。
魔力の線もない。
ただ、木箱が壊れたという結果だけが、そこに置かれていた。
その直後だった。
床の結界線が白く濁った。
壁に、細い稲妻のような光が走る。
天井の保護層にも、ひび割れに似た白い線が一瞬だけ広がった。
ばちり、と乾いた音がした。
木箱を壊した音ではない。
結界が、遅れて何かを受け止めた音だった。
「分散層に負荷発生!」
「衝撃源、不明!」
「対象破壊を確認。ただし、到達経路なし!」
「反動、床面保護層、壁面保護層、天井保護層へ分散!」
測定官たちの声が重なる。
ユリスは、自分の右手を見た。
何もしていない。
いや、違う。
壊した。
確かに、壊した。
けれど、自分の魔法がどうやってそこへ届いたのか、まったく分からなかった。
木箱は砕けている。
結果は成立している。
その代わりに、部屋全体の保護層が稲妻のように軋んだ。
ユリスの背中に、薄い緊張が走る。
もし、ここが閉鎖式測定用結界の中でなかったら。
もし、保護層がなかったら。
今の白い稲妻は、どこへ走っていたのだろう。
床か。
壁か。
それとも、人の体か。
オルディス学長は、騒ぐ測定官たちとは対照的に、静かにその光を見ていた。
砕けた木箱ではない。
ユリスでもない。
壁と床と天井に走った、消えかけの白い線を見ていた。
やがて、学長は低く呟いた。
「結果は成立する。だが、負荷は消えない」
その声は小さかった。
けれど、ユリスにははっきり聞こえた。
オルディス学長の白い瞳が、ゆっくりとユリスへ向けられる。
「君の魔法は、ただ成功しているのではない」
ユリスは息を止めた。
「失敗へ向かうはずだった過程を、どこかへ押し流している」
測定室の奥で、砕けた木片が床に転がっていた。
何も飛んでいない。
何も届いていない。
それなのに、箱は壊れた。
そして、結界は軋んだ。
ユリスは初めて、自分の成功の裏側を見た気がした。
「停止」
測定官の声が、ようやく落ちた。
ユリスは手を下ろした。
掌には何の傷もない。
痛みもない。
自分自身は、何も失っていない。
それが、かえって怖かった。
測定官たちは、記録用水晶板を見つめている。
リナも言葉を失っていた。
オルディス学長だけが、変わらず静かに立っていた。
測定官が、硬い声で告げる。
「追加測定結果」
ユリスは顔を上げた。
「術式未成立。属性変換なし。欠損補完なし。到達経路なし。ただし、対象破壊結果のみ成立」
言葉が、ひとつずつ胸に落ちていく。
「反動に相当する負荷は、閉鎖式測定用結界の保護層および分散層へ遅延発生」
測定官は、一度だけ言葉を切った。
「通常分類、不能」
不能。
その言葉は、零パーセントよりも冷たく響いた。
オルディス学長が静かに口を開く。
「本日の測定結果は、最終判定会議に回す、すべて記録するように」
測定官たちが頷く。
「リナ・クラウゼ。ユリス・フォルク。両名は退室してよい」
終わった。
そう言われたはずなのに、ユリスの中では何も終わっていなかった。
測定室を出ると、廊下の空気が少し軽く感じた。
けれど、胸の奥の重さは変わらない。
「ユリス」
リナが隣から声をかける。
彼女は少し迷ってから、言った。
「大丈夫、って言っていいのか分からないけど」
ユリスは黙ってリナを見る。
リナは困ったように笑った。
「何も考えずに壊したようには見えなかった。怖がってたけど、逃げてなかった。ちゃんと、自分が何を起こすのか見ようとしてた」
「……それで、何が変わるんだよ」
「変わらないかもしれない」
リナの声は柔らかかった。
「でも、私は分かったよ。ユリスが、ただ力を振り回したわけじゃないって」
その言葉に、ユリスは返事ができなかった。
廊下の先に、人影があった。
セリアだった。
彼女は、追加測定室の扉の前に立っていた。
その姿を見た瞬間、リナの肩から力が抜けた。
「セリア……」
小さく名前を呼ぶ声には、さっきまでの緊張が少しだけ混ざっていた。
リナは一歩早くセリアの方へ歩き、それから、照れ隠しのように笑った。
「来てたんだ」
「リナ……?」
セリアの視線が、ユリスへ向かう前に止まった。
「あなたも、追加測定を受けていたの?」
「あれ、知らなかった?」
「聞いていないわ」
短い返事だった。
けれど、セリアはすぐにリナの顔色を確かめるように見た。
「大丈夫?」
「うん。たぶん。補助・治癒系、希少適性ありだって」
「そう」
セリアの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「あなたらしいわ」
その一言で、リナはようやく本当に笑った。
「それ、褒めてる?」
「褒めているわ」
「セリアがそう言うなら、信じる」
リナはそう言って、胸に残っていた息を吐き出すように笑った。
そのやり取りを見て、ユリスは少しだけ意外に思った。
測定室の中では、リナもずっと平気そうにしていた。
けれど、本当は緊張していたのだ。
セリアの顔を見て、ようやく安心した。
そう分かるくらい、リナの表情は柔らかくなっていた。
セリアの青い瞳が、今度はユリスへ向く。
「終わったのね」
「ああ」
「どうだった?」
ユリスは少し迷った。
失敗した、とも違う。
成功した、とも違う。
測定不能。
分類不能。
それが、一番近いのかもしれない。
ユリスは、自分の掌を見下ろした。
「……箱を壊した」
セリアの目がわずかに細くなる。
「何を使って?」
「分からない」
ユリスは首を振った。
「何も飛んでなかった。風も、衝撃も、魔力弾もなかった。でも、箱だけが壊れた」
セリアは黙って聞いていた。
ユリスは続ける。
「そのあと、床と壁と天井に、白い線が走った。保護層が、何かを受け止めたみたいに」
その言葉に、セリアの表情が変わった。
ほんのわずかに。
けれど、確かに。
「反動が出たのね」
「たぶん」
ユリスは拳を握る。
「学長は言ってた。結果は成立する。でも、負荷は消えないって」
セリアは目を伏せた。
何かを考えるように。
それから、もう一度ユリスを見た。
「なら、無意味ではなかったわ」
「これが?」
「ええ」
セリアはユリスの掌ではなく、ユリス自身を見た。
「あなたは今日、自分の成功の裏側を見た」
成功の裏側。
その言葉が、胸の奥で小さく響いた。
失敗率、零。
失敗できない数字。
でも、その奥には、崩れた場所があった。
押し流された負荷があった。
箱は壊れた。
そして、結界は軋んだ。
失敗は、なかったわけではない。
ただ、結果に塗り潰されて、別の場所へ逃げていただけなのかもしれない。
ユリスは、白い廊下の先を見た。
王都アルヴェリアの光が、窓の向こうで眩しく揺れている。
その白さは、朝よりも少しだけ遠く見えた。
けれど、完全に背を向けたいとは思わなかった。
まだ怖い。
まだ分からない。
それでも、見えたものがある。
結果の裏側。
消えずに残る負荷。
そして、自分が成功と呼んできたものの正体。
ユリスは、掌を握った。
失敗率、零。
その数字は、今も褒め言葉ではない。
けれど、今日初めて、そこに小さなひびが入った気がした。
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