第二話 第四章 接触
川口は、最初から声が上ずっていた。
「御手洗、俺だ。川口だ。わかるよな」
わかる、と僕は思った。でも何も言わなかった。街灯の光の中で、川口の顔が白く見えた。三年前より大人びていたが、その分、今の狼狽えが際立った。
「なんで俺なんだ」川口が言った。「心当たりが全然ない。本当にないんだ。何かの間違いじゃないのか」
僕は黙っていた。
「中学の時、何かあったか?俺、お前に何かしたか?思い出せないんだけど、もしそうなら謝る。だから教えてくれ」
冬の夜の空気が、静かだった。どこかで車が走る音がした。川口の白い息が、街灯の光の中に溶けた。
「頼む」川口の声が、一段低くなった。「取り消してくれ。お願いだ」
その言葉を聞いて、僕は口を開いた。
「覚えていないんだな」
川口が一瞬、固まった。
「え?」
「覚えていないんだろうな、とは思ってた」
川口の表情が動いた。戸惑いと、何か別のものが混じった顔だった。
「何の話だ。だから教えてくれって言ってるだろ。俺、本当に心当たりが——」
「転入してきた最初の日」と僕は言った。「覚えてないのか」
川口が黙った。
「中学の時のことも」
川口の口が、少し開いた。何かを言おうとして、言えなかった。
「覚えていないんだろう」と僕は言った。「そうだと思ってた」
しばらく、沈黙があった。
「……悪かった」川口がようやく言った。声が掠れていた。「本当に悪かった。謝る。だから——」
「取り消さない」
川口の顔が歪んだ。
「なんでだよ」
「取り消さない」
「謝っただろ。悪かったって言っただろ」川口の声が上がり始めた。「それじゃ足りないのか。じゃあどうすればいいんだ。何をすれば——」
「何をしても」と僕は言った。「あの日々はなかったことにならない」
「俺だけじゃないだろ。みんなやってただろ」
川口の目が変わった。
「ふざけんな」
低い声だった。懇願していた声とは別の声だった。
「ふざけんなよ。子どもの頃のことだろ。そんな昔のことで、俺を——お前、頭おかしいんじゃないか。そんなことで人を指定するのか。お前の方がどうかしてる」
川口が上着の内側に手を入れた。
光が走った。街灯の光を反射して、刃が一瞬だけ白く光った。
僕の体が、一歩後ずさった。自分でも気づかないうちに。頭より先に、体が動いていた。
その瞬間、暗がりから二人の人間が動いた。ガードマンだった。一人が川口の腕を掴んでねじり上げた。乾いた音がして、ナイフが地面に落ちた。もう一人が川口の体を後ろから羽交い締めにした。素早く、無駄がなかった。慣れているのだと思った。こういう場面に。
そのとき初めて、自分が守られる側にいるのだと、ぼんやり理解した。
川口が暴れた。振りほどこうとした。でもガードマンは動じなかった。
「離せ、離せよ、まだ話が——御手洗、聞けよ、俺の話を——」
僕は川口を見ていた。
さっき、体が動いた。頭より先に。あの一瞬だけ、僕の中で何かが揺れた。怖かったのだと思う。怖いと感じる自分が、まだいた。
川口が死ぬことには何も感じていなかったのに。
——僕は夜空を見上げた。
「御手洗——」
川口の声が遠ざかっていった。
僕は玄関のドアを開けた。家の中は暖かかった。リビングからテレビの音がしていた。母親がまだ起きていた。
ドアを閉めた。
外の声が、聞こえなくなった。
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