八雲の旅 別府・国東
八雲は八幡浜港にいた。
チケットを買って、ターミナルの外に出た。
港に、大きなフェリーが停まっている。白い船体に、煙突が二本。
あれに乗るのだ、と思うと、妙な気持ちになった。ウキウキというより、もっと落ち着かない感じだ。次の港がどんな場所か、乗ってみるまでわからない。でもあの船が連れて行ってくれる。
ターミナルのベンチに座って、船を眺めた。
宮島から始まって、周防大島、松山、興居島と来た。海の上を何度渡っただろう。でも飽きていなかった。むしろ、乗るたびに甲板に出たくなる。
別府へ
乗船が始まった。
タラップを渡るとき、足の下に海が見えた。エンジンの低い音が体に伝わってくる。甲板へ直行した。
船が後進で岸壁を離れ沖合でゆっくりと向きを変えた。別府へ向けて動き始める。
潮の匂いと、ディーゼルの油の匂いが混ざっている。舟に乗るたびに同じ匂いだと思う。でも飽きない。
八幡浜の街が遠くなっていく。山が海に迫る、急な地形の街だ。山と海の間に薄く街があって、それが小さくなっていく。
煙突から煙が流れていった。
風に押されて後ろへ、斜めに、薄くなりながら消えていく。
白い航跡が伸びていた。
宇和海に入ると、島が増えた。
右舷に、左舷に、島が点在している。瀬戸内の多島美とは違う。島と島の間が広く、潮の色も少し違う。瀬戸内より深い青だ。佐田岬半島が右手に続いていた。長く、細く、海に突き出た半島が、ずっとついてくる。
宇和海は穏やかだった。でも、外洋に通じている海だとわかる開け方がある。
伊保田から松山へ渡った瀬戸内の静けさとは、少し違う。潮風の質が違う。肌に当たる力が少し強い気がした。
佐田岬の先端を過ぎると、空が広くなった。
豊予海峡に入った。
船が揺れた。
さっきまでの穏やかさが消えて、うねりが来た。手すりを握った。海面は静かに見えるのに、船の底から何かが押してくる感じがする。見えない流れが、この海峡を走っている。
宮島の老漁師が言っていた言葉を思い出した。「今日は潮が緩い」と言いながら手を水に入れていた。では潮が緩くない日は、どうなるのか。
今がそれかもしれない、と思った。
豊予海峡を抜けると、別府湾に入った。
また穏やかになった。でも宇和海の穏やかさとも違う。湾に囲まれた、守られた静けさだ。
九州が近づいてきた。山並みが正面から迫ってきた。陸は横から来るのではなく、正面から来る。
別府の街が見えてきた。背後に、山が高くそびえている。あの山の麓に温泉がある。
そして、海岸のあちこちから湯気が上がっているのが船の上から見えた。
甲板を離れがたかった。でも船はもう港に近づいていた。
遙にメッセージを送った。
『別府に着きます。宇和海、豊予海峡、別府湾と、三つの海を渡りました。海峡だけ、船ごと揺れました。見えない流れがあると、体でわかりました。』
返信はすぐ来た。
『源次さんが言っていました。豊予海峡は昔から難所だと。村上水軍もあそこを避けたと』
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別府港に着いた。
下船すると、潮の匂いが変わった。温泉の匂いが混じっていて、街全体が、ゆっくりと息をしているようだった。
別府
別府港からバスで別府駅へ向かった。
バスの窓から、湯けむりが見えた。街のあちこちから、白い煙が細く立ちのぼっている。工場の煙突でも、火事でもない。ただ、地面から湯が湧いている。当たり前のように、街のそこかしこから。
別府駅に着いた。
駅の中に観光案内所があった。「WANDER COMPASS BEPPU」という名前の案内所で、スタッフが何人かいた。
八雲は入って、スタッフに声をかけた。
「今夜泊まれる宿を探しています。できれば地元の人が使うような、素朴な宿で」
スタッフは少し考えてから、一軒の名前を出した。温泉付きの小さな旅館で、駅から歩いて十分ほどだという。
「夕食はどこかいいところがありますか。観光客向けではなく、地元の人が通うような」
「それなら」とスタッフは言って、駅近くの居酒屋の名前を書いてくれた。「常連さんが多い店です。カウンターに座ると、いろんな人と話せますよ」
別府、夜
旅館にチェックインして、温泉に入った。
湯の中で、この旅のことを考えた。宮島から始まって、周防大島、松山、興居島、石崎、八幡浜。地図を見て動くより、人の言葉で動く方が、見えないものが見えてくる気がしていた。
夜、教えてもらった居酒屋に入った。
引き戸を開けると、煮物の匂いと、かつおだしの匂いがした。
カウンターが中心の小さな店で、奥にテーブルが二つ。常連らしい客が数人、それぞれ静かに飲んでいた。
カウンターの奥に、スーツ姿の男が一人座っていた。三十代後半くらいだろうか。疲れた顔で、黙々とビールを飲んでいた。
八雲は一席あけて、その隣に座った。
瓶ビールを頼んだ。
しばらくして、八雲は声をかけた。
「出張ですか」
「そうです」と男は言った。「明日また早いんで、もう一杯だけ飲んで帰ろうと思って」
「別府に詳しいですか。古い石とか、巨石とか、何かご存知じゃないですか」
「別府は初めてで」と男は申し訳なさそうに言った。「温泉くらいしか知らないです」
カウンターの向こうで、店主が聞いていた。
五十代くらいの男で、黙って拭いていたグラスを置いて、店の中を見回した。
「巨石に詳しい方、いらっしゃいますか」
店内がちょっとざわついた。
奥のテーブルから、若いカップルが顔を上げた。二十代後半くらい。女の方が手を挙げた。
「こないだ行ってきましたよ。大山積神社と国東半島の神代文字」
「どうぞ」と店主が言って、八雲の隣の空いている席へ手招きした。
カップルが移ってきた。二人分の皿とグラスを、店主がさっさと運んだ。こういうことに慣れているらしかった。
「YouTubeで見て行ったんです」と女は言った。「伝承とか、古い遺跡とか、そういうの好きで」
「大山積神社は日出町にあります」と男は言った。「別府から車で三十分くらい。石権現っていう巨石があって、石垣がきれいで。上から別府湾が見えるんです」
「国東半島の神代文字はそこから車で一時間くらいですね」と女は言った。「山の中を登った先に岩があって、線が刻まれていて、神代文字だという説があるんですが——」
男が続けた。
「トンデモ系なんですよね、あれ。学術的な根拠はないし、神代文字自体が存在したかどうかも怪しくて」
「行ってみてどうでしたか」と八雲は聞いた。
「場所は良かったです」と女は言った。少し笑って。「山の中に岩があって、静かで。トンデモかどうかは別として、何かある気はしました」
「気はする、ですけどね」と男は言った。
店主が追加の小皿を出しながら言った。
「宇佐神宮の近くにも、御許山っていう山があって、巨石があるんですよ。宇佐神宮の奥宮なんで、普段は立ち入り禁止なんですが」
「国東から宇佐神宮まで、車で一時間かかりませんよ」と女が言った。「流れで行けます」
「そうですね」と男も頷いた。「一日で回れます」
八雲はノートに書いた。
大山積神社、国東半島の神代文字、御許山・宇佐神宮。全部、地図を見ずに人から聞いた場所だ。
「YouTubeはどんなチャンネルで見たんですか」と八雲は聞いた。
「いろいろ見てます」と女は言った。「でも、ちゃんと現地に行ってみると、動画より静かで、地味で、でもそっちの方がいいですね」
八雲は何も言わなかった。
そうだ、と思った。それだけだった。
居酒屋を出ると、夜の街に湯けむりが漂っていた。
ネットで調べなかった。人に聞いた。それだけで、明日の行き先が決まった。
翌朝
別府の朝は、湯けむりから始まった。
窓を開けると冷たい空気の中に硫黄の匂いが混じり、遠くに別府湾が光っている。山の上から海を見下ろす街だ、とあらためて思う。
レンタカーを借りて、日出町へ向かった。
日出町へ
別府から海沿いを北へ走ると、窓から風が入ってきた。
潮の匂いがして、右手に別府湾が広がり、光を受けてきらきらしている。フェリーの上で感じた風とは違う。あちらは体ごと押してくる風だったが、車の窓から入ってくる風はもっと穏やかで、でも同じ海の匂いがした。
左手に山が迫り、右手に海が続く。山と海の間の細い道を走っている。八幡浜に似た景色だと思いながら、でも別府湾の方が海が広く、光の量が違う。
大山積神社
日出町に入ると参道の看板が見えて、山側へ折れると道が細くなり、木が増え、窓から入ってくる空気が変わっていく。
海の風とは全然違う、と思った。海の風は塩と湿気を含んで肌に貼りつくような感じがあるが、山の空気は乾いていて木の匂いがして、肺の奥まで届く感じがした。
石垣が見えてきた。城壁のように積み上げられた石垣が神社を囲み、一つひとつの石が丁寧に組み合わさっている。江戸時代に三年がかりで築いたという。
見上げながら思った。刻線の石も、積み上げられた石垣も、石を使って何かを残そうとした衝動は同じかもしれない。
境内の奥に巨石があった。石権現だ。大化四年、村主の夢に神火が現れて、その火を辿るとこの石があったという。
石の前に立つと、木と岩に囲まれて空が狭くなっていた。でも振り返ると、木の間から別府湾が光っていた。
この石も、海を向いていた。
大山祇神——大三島の大山祇神社、興居島の磐神神社、そしてここ。同じ神の名前が、瀬戸内から豊後まで続いている。海を渡って、山を越えて、繋がっていた。
国東半島へ
大山積神社を出て内陸へ入っていくと、海が消えた。
山が増え、道が細くなり、窓から入る風が変わっていく。潮の匂いが消えて、土の匂い、草の匂い、木の匂いが重なってくる。
半島の中心部へ向かうにつれ石仏が増えた。道の脇に、山の斜面に、田んぼの畔に。誰が置いたのか、いつからあるのかわからないものが多いが、どれも誰かが手を合わせた跡がある。花が供えられていた。
残すために作ったものと、信仰のために作ったものと、記録のために刻んだものと——形は違っても、全部が同じ衝動から来ているのかもしれない、と思いながら走っていた。
旧上国崎小学校の前で車を停めエンジンを切ると、風の音がして、草の音がして、遠くで鳥が鳴いているだけになった。
山へ向かう道を歩き始めた。イノシシ避けの柵を越え、六地蔵の脇を抜け、道が細くなるにつれ木が高くなり光が届きにくくなっていく。足元の土が柔らかく、踏むたびに少し沈む感じがした。
岩が見えてきた。
近づいて、八雲は少し立ち止まった。
この岩を、知っていた。
九条から送られてきた素材の中に、この岩の写真が入っていたことがある。「謎の神代文字か」というテロップをつけて、動画に使った。ここに来たことはなかった。写真だけで、断言していた。
あのとき、自分は何を見ていたのか。
画面の中の石だ。実際の山ではなく、石仏が並ぶ道でもなく、足元の柔らかい土でもなく、木の間から聞こえる鳥の声でもなく。ただ画面の中の石だけを見て、それに意味をつけて、流した。
越智誠一が怒っていたとしたら、そのことに対してだろう、と八雲は思った。来もせずに断言することに対して。
でも誠一はもういない。
だから自分が来た。
岩の表面に線が走っていた。直線、曲線、繰り返しのある記号のような形。弥山で見た線とも、大三島の海底の石で見た線とも違うが、見ていると同じ衝動から来ているような気がしてくる。
宮島から始まって、周防大島、松山、興居島、石崎、八幡浜、別府、日出町、そしてここ。全部を自分の足で辿ってきた。
動画の中では「謎」として消費していたものが、こうして繋がって見えてくる。石から石へ、神社から神社へ、海を渡って山を越えて、確かに何かが続いている。それがトンデモかどうか、学術的に証明されているかどうかは、わからない。でも、続いている。残っている。
人が残そうとしたものが、ここにある。
それだけは、ここに立って、体でわかった。
カメラを構えた。
わからないものを、わからないまま撮る。でも今度は、ここに来てから撮っている。来もせずに断言していたあの頃とは、それだけが違う。
木に囲まれていて、音が遠く、風がなかった。
しばらく、岩の前にいた。
謝るという言葉が、頭に浮かんだ。でも誰に言えばいいのかわからなかった。越智誠一には言えない。越智遙には言った。でも石には言えない。
だから、来た。
来て、見る。わからないまま、撮る。残す。
それだけが、今の自分にできる贖罪だと思った。
下山しながら、遙にメッセージを送った。
『国東半島の神代文字、見てきました。以前、九条の依頼でここの写真を動画に使いました。来たことはなかった。今日、初めて来ました。弥山の線とも大三島の線とも違う。でも同じ衝動から来ている気がしました。来て、見て、初めてわかることがある。遅すぎましたが、来ました。』
しばらくして、返信が来た。
『来たことが大事だと思います。父も、行けなかった場所がたくさんあった。でもノートに座標を書き続けていた。行くつもりだったから』
八雲は画面を見た。
越智誠一のノートに、この場所の座標があったのだろうか。
来るつもりだったから、書いていた。
八雲は山を下りた。車に戻り、窓を開けると山の空気が流れ込んできた。土の匂い、木の匂い、草の匂いが重なっている。
このまま宇佐神宮へ向かう。エンジンをかけた。
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