第四十七章

想像した通りの雷雲を従え、想像した以上の速さで勇輝子はイミリーシャへと飛来した。

黒々とした雲が王都の空を覆い、頭上で空気を震わせるような雷鳴が炸裂する。城壁の上の兵たちは誰もが顔色を変え、ただその影を見上げることしかできなかった。

怒り狂う勇輝子のその胸に去来していたのは――百年前の記憶だった。ドレイクにとっても、決して忘れられない痛みだった。

あの日、力尽きて落ちた場所は龍乃国の都に程近い浜辺であった。なお翼を広げようとして——もがく、竜。

だが、その姿はあまりにも無惨だった。

翼は焼けて骨がむき出しになるほどに裂け、鱗は剥がれ牙は折れ、全身を血と泥に汚した巨体は死臭すら放ち始めていた。

迎え撃つ構えを取っていたのは即位したばかりの二代目龍皇勇輝子、そしてその左右で天角と蓮空が息を詰め、後方の剣江と牙野もまた、動きを止めていた。戦意の持って行き場を失い、困惑が宿る。

竜は、もう、戦いどころか息をする力すら失いかけていた。

剣江が迷いなく駆け寄った。

誰も異を唱えなかった。この竜が敵かどうか、もはや意味を持たない。龍たちはただ——死にかけている命を繋ぐために奔走したのだった。

そしてどれほどの時が流れたのか。

ドレイクの耳に届いたのは、波の音だった。規則正しく、優しく、絶え間なく寄せては返す。その音に引き寄せられるように、意識が浮かび上がる。

瞼を開いて見えたものは、暖かい陽光の差し込む美しい部屋の天井。

風に揺れる庭の緑。どこまでも穏やかな色彩。

こんな場所を、ドレイクは知らない。

「起きた!剣爺!目を開けたよ!」

「病室で騒ぐな馬鹿もん」

弾む声が、空気を震わせる。

視線を向けると、そこにいたのは、見知らぬ龍たちだった。

どの顔にも、溢れんばかりの笑顔が弾けていた。

「あたし、勇輝子。ゆっこかゆっきーって呼んでね。君は?」

「......ドレイク。ここは、龍の国なのか」

「そだよー。よろしくね」

蓮空と剣江が体中に薬を塗って清潔な包帯を巻いてくれる。また牙野が湯気を閉じ込めた蒸し風呂を準備してくれ、体を温めてくれた。勇輝子は毎日食事時に病室を訪れては、食事の邪魔をするなと天角に蹴り出されていた。

やがてドレイクがある程度回復したのを見計らったころに、皇宮で宴が開かれた。

「新しい家族が増えたんだもん。お祝いしなきゃ」

困惑するドレイクに勇輝子は、あたりまえのことのように言った。

だがドレイクは、ゆっくりと首を振る。

「……家族じゃない」

声が、掠れる。

「おれは、竜だ」

その言葉には、線が引かれていた。越えることのできない、境界線だ。

「封印、破って出てきたの?」

「……ああ」

「みんなで?」

「いや。おれだけだ」

「世界を滅ぼすために?」

ほんのわずか、間があった。

「……そうだ」

沈黙が落ちる。だがそれは長くは続かなかった。

「んー……ま、いっか」

あまりにも軽く、それは破られた。

「その話はあとでしよ。今日はさ、みんな君に会いに来るから。仲良くしてね」

勇輝子は楽しみで待ちきれないといった風に、笑った。ドレイクはその無邪気さが、理解できず眩暈がした。

困惑を無視されたまま庭に連れ出されると、そこには屋台が並び、あちこちから食欲をくすぐる匂いが立ち上っていた。灯りがともり、笑い声が溢れる。

龍たちが、次々と近づいてくる。

小柄な二足歩行形態を、誰も彼もが心配してくれた。生まれて百年足らずで封印の中に閉じ込められたドレイクは、なんとか休眠期明けを迎えたものの、成獣化は不完全な状態だった。しかし身体が育ち切らなかったことで仲間たちが何とか開けた一瞬の小さな裂け目を無理やり通り抜けることができたのだという。

「辛い思いをしたな」

そう言ってくれたのは牙野だった。

体の大きさが近いからか、幼獣の亜爪と鰐尾は、新しい友達にまとわりついた。

龍乃国での日々は穏やかだった。胸が締め付けられるほどに、優しい。潮の香に包まれ、陽光を浴び、尽きることのない湯に浸かり、食べきれぬほどの料理が並ぶ。

ドレイクは心の底から満たされ、そして、その充足感を自覚することが、苦しかった。

「竜たちが破滅を望む理由をお尋ねしてもよろしいですか」

学問所で書物を開きながら問う剣江に、ドレイクは首を振るしかなかった。

知らない。竜は古い超長命種だ。だが自分はたった千年――それだけの時しか生きていない。

仲間たちの思惑など、理解できるはずもなかった。

「ドレイクが出てこれたんなら、いずれ他の竜も復活するわよね」

「対抗するには戦力が足りんな」

「あたしの次の世代、二人だけだもんね」

天角や勇輝子の会話を聞いてふと、ドレイクは口を開く。

「……龍の子供は二頭だけか」

「左様です。竜も同じでは?」

「そうか……言われてみれば、仔竜は、おれだけだった」

 少し考え、続ける。

「でも……昔、人間の集落で異種交配が起きたと話を聞いた気がする」

その場の空気がわずかに変わる。

「長が興味を持っていた。若い竜に会うことができたら、仲良くしてやれと」

剣江の瞳が、深く沈んだ。龍が初めて、“人間”という存在に、明確な意味を見出した瞬間であった。

ドレイクは毎日檻舎の飛翔台から北の方角を眺めて過ごすことが多くなった。その日もドレイクは飛翔台の上で何をするでもなく座っていた。すると風を切る音とともに、騎禽が舞い降りる。背から降り立ったのは天角だった。

「仲間に、会いたいの?」

ドレイクは情けない顔で首を振った。

「会いたくない。会ってしまえば、仲間と共にみんなを殺さなければならない。世界を破滅の炎に沈めなくてはならない」

これほどまでによくしてくれる龍達を、この美しい世界を、滅ぼさなければならない。そんなことを、ドレイクはしたくなかった。

「あたし達が、あなたを板挟みにしちゃってるのね。苦しいわよね」

天角が親愛の情を込めて額の角をドレイクの額に触れさせる。

「でもあたし達みんな、あなたを好きよ。これからあなたがどんな道を歩いて行くことになっても、それは覚えていてね」

そして頭を抱いてくれた。されるがままになりながら、ドレイクの心は急速に冷えていく。親愛の情を向けられれば向けられただけ、封印の壁の中で待つ仲間に対する罪悪感が募っていった。

その日、勇輝子は仕事の合間の息抜きに、蓮空と浜辺の修練場で手合わせをしていた。蓮空は北鱗の村長に就任することになり、まもなく都を離れるのだ。

二頭は浜に降りてきたドレイクに屈託なく笑いかけ、勇輝子は軽い気持ちで手合わせを頼んだ。不完全な成獣であっても、竜の強さは龍の比ではない。

何度も砂に転がされながらまったく歯が立たないドレイクに、勇輝子は夢中になって挑み続ける。いよいよ興奮して勇輝子は龍化した。ドレイクも竜に変化し、闘争本能の高揚を感じた。

——そこからは、あまりよく覚えていない。

気づけば沖で海底火山が噴火し、皇宮は半壊し、足元には何頭もの龍が倒れ伏していた。これで終わりだと、巨大な後ろ肢で天角の頭を踏みつけた。

咄嗟に勇輝子が叫ぶ。

「あたし達を殺したら、誰がお前にお帰りって言ってやれるんだよ!」

心臓をわしづかみにされたかと思った。脈打つ音が大きくなる。息が苦しい。

お帰り。

そんな言葉を、この千年の中で思いついたことすらなかった。

もうここにはいられない、いたくない。これ以上ここにいたら、本当に殺してしまう。

だが勇輝子はあきらめずに叫んだ。

「行くなドレイク。ここにいろよ、あたし達と一緒に!」

ドレイクは溢れる感情をこらえきれなくなった。

「止めて見せろ、おれを。お前に、それができるのなら」

翼を開いて、充分に距離を取ってから上げたドレイクの慟哭は、誰にも聞かれることはなかった。

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