第七章

次に目を開けた瞬間、安道は状況を理解するのに少し時間を要した。防寒外套にすっぽり包まれ、心地よい温もりを全身に感じていた。

視線を上げると、そこには勇輝子がいた。そして、恐るべき状況に置かれていると飲み込んだ瞬間、一気に血の気が引いた。

安道は、騎禽の背で勇輝子の胸にもたれたまま、空を渡っていたのだ。

彼女は片腕で安道をしっかりと抱き、 もう片方の手で、騎禽の手綱を取っている。周囲は見たこともないほど高い空の上だった。雲が足元を抜けていくなど想像すらしたことがなかった。

「あ、おはよ」

「勇輝子様! こ、これは!」

「起きるまで待ってあげられなくてごめんね」

少しだけ申し訳なさそうに笑う。

「あれから一回も起きなかったからそのまま出発しちゃった。今もう、次の日の夕方」

「も、申し訳ありません!」

「全然いいよ。もう少し飛んだら、今夜は野営するから。団長のお兄ちゃんが、荷物まとめてくれたみたいだよ」

出立の挨拶も済ませられなかったのか。申し訳なさと羞恥で身の置き所もない有様だったが、雲よりも高い位置を矢のように飛ぶ騎禽の背で、余計な身動きは危険である。せめて邪魔をしないようにと、まるで石にでも変じたように固まってしまった。

空が、右からゆっくりと茜に染まっていく。

沈みゆく夕日が、雲の縁を淡く照らし、その下に連なる山々を黄金色に縁取っていた。

足元には、どこまでも続く針葉樹林。

背の高い木々は、傾いた光を受けて長い影を引いている。谷から尾根へ、尾根からさらに遠くへと、流れるように景色は後方へ消えていく。

速度は、地を駆ける馬とは比べものにならない。

一枚の連なった絵のように押し寄せた風景は、瞬く間に流れ、通り過ぎていく。

風は冷たかったが、防寒外套がそれを遮る。内側に仕込まれた懐炉が温もりを保ち、寒さが刺さることはない。ただ空気の流れだけが、速さを伝えてくる。

勇輝子の胸の安定した鼓動が、自分の所在を示す確かな基点になっていた。

安道は、思わず息を吐いた。

——龍の眼には、世界は、こんなふうに見えているのか。

地上からは見えなかった色。高さを得て、初めて繋がる輪郭。恐ろしいほどの速さの中にある、清浄な空気。

勇輝子は、力強く騎禽の翼を操る。まるで千里の彼方を見通すように、迷いなく空を切り裂いていく。

自分も休眠期が明けたら、この美しい世界を、自分の目で見ることができるだろうか。

安道は、勇輝子の揺るぎない大きな身体に身を任せ、沈む夕日と流れる森を、二度と忘れまいとするように、目に焼きつけていた。

夕陽が最後の残り火を吹き消すころ、騎禽は山間へと降りていった。

滔々と流れる川。岩肌の隙間から、白い蒸気が漂っている。

先に降り立っていた牙野と亜爪が、すでに天幕を張り始めていた。

「ここ、来る途中で見つけたんだ」

勇輝子が、楽しげに言う。

「地熱が高くて、温泉が湧いてる。険しすぎて誰も辿り着けてないみたいみたいだね」

お得な買い物ができた主婦のようなほくほくした顔でにかっと笑う。

「騎禽あげちゃったから、いずれ気付かれちゃうかもだけど、それまではあたし達のものってことで」

安道は頭の中で、国内地図を広げた。西に沈む夕日を右に見ていたということは、進路は南——龍乃国の方角で間違いない。

そしてこの熱、この鼻を突く匂いには覚えがある。

——アグニア山である。

早馬でも三日はかかる距離のはずなのに、半日でたどり着いてしまったのか。

イミリーシャ国内で唯一確認されている火山で、周囲一帯のアグニア高原は王家所有の直轄地だ。地熱と肥沃な火山性土壌に恵まれ、冬でも農耕が成り立つ希少な土地である。

麦、豆、根菜、耐寒果樹。温泉水を用いた皮革加工と染色。硫黄、耐熱鉱石など様々な鉱物資源も豊富に取れる。国の屋台骨を支える要衝である。

故に王家はここを重要視し、信頼のおける近隣領主を代官に、騎士団も置いている。

ここの常駐の騎士団所属ではなかったが近衛兵団に移される前、安道は合同軍事演習で訪れたことがある。

軍を常駐させれば反発を招くこともあろうが、放置すれば争いの火種になる。

まさか直轄地に手を出そうという身の程知らずがいるとも思えないが、常に隙を伺う魑魅魍魎が静かに蠢いているはずである——

こんな場所で、野営して大丈夫なのだろうかと、近衛兵として反射的にそう考えてしまう。

だがその思考は、すぐに常識の埒外にある龍達に打ち消された。

勇輝子が、湯気の立つ湯溜まりの温度を確かめながら笑っている。

「ここまで登って来れる人間はいないよ。獣道も見当たらないし。そもそも龍を襲ってくる獣はこの世に存在しない」

亜爪が茶々を入れる。

「怖いのは、スカンクくらいじゃね?」

「確かに」

勇輝子が真顔で頷き、鰐尾が吹き出した。

「……すかんく、とは?」

安道が尋ねると、亜爪がなんとも嫌そうな顔をする。

「小さい獣なんだけど、危険を感じると尻からとんでもない臭いの屁を噴射するんだ。身体にかかると、どんなに風呂で擦っても数日間は臭いが消えない。目に入ると酷い痛みで何も見えなくなるし、鼻に入ると――」

亜爪は遠い目になった。

「……三日間、何を食べても全部屁の味になった」

なるほど。どうやら、イミリーシャでも見かけるイタチのような生き物らしい。

それにしても亜爪が語ったその体験には、同情を覚えずにいられない。

「ご災難でしたね……」

安道が思わず真顔で相槌を打つと、天角がくすっと笑った。

「多分イミリーシャにはいないと思うわよ。ここはスカンクにとってもちょっと寒すぎるからね。貂とかはいるんじゃないかしら?」

イタチはおります、と答えて安道は少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。

「……では、この地で我々に危害を加えられる存在は」

勇輝子がおもむろに頷く。

「いないね。イタチ以外」

龍たちはテキパキと手分けして野営の準備を整えた。

牙野と亜爪は天幕を立て終わると手際よく火を熾した。鰐尾は荷を解き、中から食材を取り出す。慣れた手つきで食材を刻む音が聞こえ始めたところへ、騎禽の世話を終えた勇輝子と天角が戻ってきた。

「手伝うよー」

鰐尾の手がぴたりと止まり、おもむろに鍋の蓋を閉めたのだった。すっと牙野が前に出る。なぜか、勇輝子の行く手を断固として阻んでいる。

「勇輝子。先に湯を浴びて来てください。手伝うなら後片付けをお願いします」

鰐尾の口調は柔らかいが、その笑顔にまるで交渉の余地のない気配が漂っている。勇輝子は口を尖らせ言い募ろうとするが、牙野が反論を許さなかった。

「お前のつまみ食いは、配膳に甚大な影響を及ぼす。天角、さっさと連れて行ってくれ」

「はーい。おいでゆっきー。一緒にお風呂入ろ」

結局ぶつぶつ言いながら湯溜まりのある岩陰へ去っていく勇輝子であった。

あの大聖堂で雷を従えた存在が、 今は鍋にも近づけない。安道は火に薪をくべながら、呆然とそのやり取りを見守るほかなかった。

そして二人が上がる頃、食事の準備も整った。

手伝いながら安道はふと近くの薮の中の気配に気づいた。そして牙野に、調理用ナイフを一振借りる。

ほどなく、草の揺れを見極め、一投。兎が倒れた。

「おお」

「速い」

龍達は安道に拍手をくれる。勇輝子が目を輝かせた。

「やるじゃん」

「恐れ入ります」

「これも食べよーぜ。今夜はご馳走だ」

亜爪が手慣れた様子で皮を剥ぎ、内臓を出した。骨から肉をはずし、軽く塩を振って油を引いた平鍋を火にくべる。やがて香ばしい匂いが漂い始めた。

その夜の食事は、焚き火の熱と温泉の香りで体の芯まで温まるものだった。

寒さも緊張も、いつの間にか脇へ追いやられ笑い声に紛れて遠のいていく。

そして食事の後は勇輝子と天角が後片付けをしている間に牙野、鰐尾、亜爪が湯を使った。

安道も後片付けを手伝っていたが 、湯から上がってきた牙野達が声をかけてくれた。

「安道。痴女が忙しくしてるうちに湯を浴びておいで」

「ねーしつこいんですけど。もうわかったっつってんじゃんかさー」

どうにも反応に困るやりとりにどう返したものか、途方に暮れながらもぎくしゃくと礼を言って、安道はひとり岩陰へ身を沈めた。

衝立代わりの黒い岩に守られ、誰の視線も届かない。

湯に肩まで浸かった時、昨日大聖堂で初めて味わったあの感覚が、再び全身を包み込んだ。

この温泉の湯は礼拝堂でもらった湯よりさらに熱く、冷え切っていた芯の奥まで、じわじわと解かしていく。

昼間の寒さも、空を渡った疲れも、何もかもが溶け落ちていくようだった。

顔を上げると、空には細く鋭い三日月がかかり、星々が瞬いている。

湯気越しに見る光は、どこか現実離れしていて、胸の奥が静かに満たされていく。

――この場所を、誰にも教えたくない。

イミリーシャの臣民としてあるまじき考えが、ふとよぎる。

だがそれを咎める声は、今は聞こえなかった。

すぐそばでは、焚き火の爆ぜる音がしている。

その向こうから、勇輝子たちの笑い声が、夜気に溶けるように届いてくる。

そのすべてが、あまりにも穏やかで、美しくて。

胸の奥がきゅっと縮み、また涙が滲みそうになる。

安道は慌てて顔を湯に沈めた。熱と水音にまぎれさせながら、しばらくのあいだ、何も考えずに身を委ねるのだった。

勇輝子は天角と、鰐尾は亜爪と、そして安道は牙野と同じ天幕を使うことになった。

天幕内部には大きな温石が据えられており、布一枚の幕の内側は驚くほど暖かくなっていた。

「寒かったら遠慮なく言えよ。あと寝坊も気にしないでいいからな」

「眠気には逆らわないことですよ。休眠期はそれが一番大事ですから」

口々に念を押される。

「明日の出発時に目覚めていなかったら、今朝のようにこちらで運ばせてもらうことになる。それだけ承知しておいてくれ」

安道は小さく頷き、頭を垂れて就寝の挨拶をした。

「……心得ました。お休みなさいませ」

ほどなくして、鰐尾の天幕からは早くも規則正しい寝息が聞こえてくる。

一方こちらでは、勇輝子、天角、亜爪が小声ながらも何やら楽しげに話し込み、くすくすと笑い声が漏れていた。

「……おい」

牙野の低い一喝が飛ぶ。

「もう寝ろ。夜明けと共に出発だぞ」

はーい、と名残惜しそうな気配が遠ざかっていく。

「騒がしい連中ですまないな」

そう言って牙野は肩をすくめた。

安道は静かに首を振る。

「いいえ……こんなに楽しい野営は、初めてです」

自分でも意外な言葉が自然に出た。

本当に、かつて何度も駆り出された軍事演習の野営とは、大違いだ。

牙野は目を細め、わずかに口元を緩めて、そうか、とまた頭を撫でてくれた。そして灯りを落とす。

温石の穏やかな熱が天幕に満ち、布越しに聞こえる夜の気配も、どこか遠い。

安道はその暖かさに身を委ねながら、オオカミの遠吠えもクマの爪痕も気にせずに安心して目を閉じた。

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