第五章
目を覚まし、混沌とした夢から抜け出しても、現実は夢と地続きだった。冷たく、硬く、希望の置き場は見当たらない。
そこは官舎の自室ではなかった。石造りの部屋。粗末な硬い寝台。鉄格子のはまった窓。
腕には、鎖が嵌められている。いつものように。
驚きはない。変身のあと、懲罰房で目を覚ますことは、これまでにも何度となくあった。
ただ一つ、いつもと違うことがあった。
鉄格子の嵌まった高窓の向こうで、暗い空から雨が落ちている。雷鳴すら低く響いていた。イミリーシャの短い夏に、雨が降ることは多くないはずなのに。
廊下から、足音が近づいてくる。聞き慣れた歩調は、アントニウスのものだった。
彼は房の扉を開けると、外へ出るよう、アンドリを促す。
「……無理をさせたな」
房を出てくるアンドリにアントニウスがかけたのは、短くともアンドリがかすかに息をつくに十分な言葉だった。
「毎回、ご迷惑をおかけしてしまい……申し訳ありません、団長閣下」
アントニウスは、ほんの少しだけ笑う。
冷たい空気は、まだ振り払えない。
けれどアントニウスと言葉を交わす時だけは、小さな懐炉を両手で包むような温かさをかすかに、感じ取ることができた。見習いとして放り込まれた騎士団から、 近衛兵団へ移されたのも、団長に就任した際の彼の采配だったと、人伝に聞いて知っていた。
「龍皇陛下がお呼びだ。くれぐれも、粗相のないように」
そう言ってから、少し間を置き、可笑しそうに、冗談めかして肩をすくめる。
「国王陛下は……断頭台にでも上るような有様だ」
アンドリは何も言えず、ただ頷いた。
大聖堂の大扉は、見慣れたもののはずだった。アンドリはこれまでにも、何度となくこの中へ足を踏み入れている。
高く伸びる礼拝堂の天井。見事な彫刻の施された石造りの柱。光を受けて静かに色を落とすステンドグラス。
本来ならば、祈りのために在る静謐な場所だ。だが、その日の大聖堂は、まるで佇まいが違う。
季節外れの雨がざあざあと続いている。頭上で雷鳴がうねるたび、建物が息を詰め身を縮めているような錯覚を覚える。
喉を通る空気が、重い。湿り気を帯びた石の匂いが混じっている。
両開きの大扉をくぐると、外気を遮る前室に入る。その先に、礼拝堂への入り口となる扉。清浄な空間を守るはずの重厚な扉が、なぜだか今日は、頼りなく見える。
アンドリは無意識に歩調が落ちかけているのに気づき、気力を奮い起こして一礼すると礼拝堂への扉をくぐった。鎖が確かに繋がっているのを確かめ、そのまま前へ進んだ。
龍たちの体格に合わせて設えられた椅子に腰を下ろす龍皇は、まるで一段、いや二段も嵩上げされた玉座に坐しているかのようだった。いたって楽な姿勢で足を組んで座っているのに、ただそこに在るだけで、場の重心は自然と彼女のもとへ沈んでいく。
その傍に立つイミリーシャ国王アレクシオス・イミリシウスは、もはや主賓を迎える王というより、許しを待つ侍従のように見えた。
威厳を取り戻そうと胸を張ろうとするたび、 腰が引けているのがはっきりとわかる。その結果、動けぬまま直立し、ただ立ち尽くしているだけの姿になってしまっている。
顔色は青く、視線は定まらず、固く握り合わされた両拳がかすかに震えているようだった。
王家の紋章を縫い込んだ豪奢な外套と王冠だけが場違いに輝き、それがかえって、纏う者の小ささを際立たせていた。
龍皇はといえば、そんな彼が視界に入っているのかすら定かでない。関心は薄く、人ひとりの矮小さなど、 わざわざ意識に留める価値も見出していない様子である。
その至高の存在が、アンドリの有様を見て僅かに眉根を寄せた。
「なぜ鎖をつけておる?」
静かな声だった。問いは短いが、それだけで場のすべてを支配していた。
人間たちは凍りついたように息を詰める。なんとか口を開いたのは、アレクシオス王だった。声は硬く、早口だった。
「自制の利かぬ怪物でございます。あれほど厳しく申し聞かせましたのに式典の場を混乱に陥れ、皆様方のお目汚しを致しました化け物を、自由にしておくわけには——」
突如真上で爆ぜた雷光が、大聖堂を白く塗り替えた。雷鳴が鼓膜を劈き、堂内の空気が建物ごと震える。雨音が、聖堂の外で勢いを増した。まるで鉛の礫が降り注いでいるかのようだ。
龍皇は、ゆっくりと立ち上がった。
「……我が同胞を、そのような言葉で呼ぶとはの」
穏やかで、 ほとんど感情が読み取れない声であったにも拘わらず、アレクシオスの顔から血の気が引いた。
龍皇は、また悪戯心を起こし、にこやかに首を傾げた。
「それほどまでに化け物の力みたくば、この場で披露致そうか」
冗談めいた口調だった。 だが、誰一人として、笑えない。
「お、お許しください……失言でございました」
震えながら絞り出された声に、王の威厳は形を保っていない。
アレクシオス王は、力なく膝を折り、へなへなと床に手をついた。
その瞬間になって、ようやく理解する。自分は、何を踏み越え、誰を怒らせたのか。言葉として理解する前に、 身体が先に答えを知ってしまった。
この場で裁かれているのは、式典を壊したアンドリの行為ではない。
至高の存在たる龍皇の同族であると知りながら、彼を都合のよい道具として扱い、蔑み、鎖につないできた——そうできるだけの正当な理由と力があると、信じて疑わなかった自分自身の身の程だった。
その事実が恐怖として、思考よりも速く、理解よりも深く、 記憶よりも確かに、王の身体に身体に刻まれてしまった。
だが龍皇はほどなくアレクシオス王への関心を失った。
ゆるやかに顔を上げ、直接アンドリへ語りかける。
「先の問いは、そちにじゃ。童よ」
声音は柔らかく変じていたが選択肢を与えない圧力は、未だ堂内を支配している。
「なぜ、その貧弱な戒めを受け入れておる。 そのような脆い鎖で、そちを縛れるはずもなし。己で外してみせよ」
アンドリは一瞬、躊躇った。恐怖したのではない。 周囲の視線が、あまりにも重かっただけだ。
跪いたまま、静かに腕を開く。たったそれだけで、鎖は抵抗もなく引きちぎれた。
手首に絡んでいた鉄輪も、指で摘まれた途端、 紙屑のように歪み、乾いた音を立てて床に落ちる。
アントニウスも、床に崩れたままのアレクシオス王も、周囲でこの様子を目の当たりにした人間は誰一人として、言葉を発せない。
彼らが知っていたのは、剣の腕が立つ、少し身体の大きな若者という認識だけだった。
変身の力を持つことは、 政府と近衛兵団、そして一部の幹部閣僚が把握していた。
それでも——これほどまでに人の枠を踏み越えているとは、誰も想像していなかった。
再び向けられる視線は、先ほどまでとは質が違う。触れてはならないものをこれまでその身に抱えていたことを知った嫌悪にも近い感情がアンドリを突き刺す。
アンドリは、それに耐えきれず、そっと視線を落とした。
「見上げた忠義心よ」
龍皇は、楽しげに呵々と笑った。
「無用な混乱を招かぬため、一兵卒に甘んじておったか」
呆れとも感心ともつかぬ、あるいその両方を含んだ笑みが浮かぶ。だが、それも束の間、何かを思い出したように、再び問いを重ねた。
「……尾を失うておるな。どうしたことじゃ」
アレクシオス王は答えられなかった。
震えるばかりで、 もはや言葉を紡ぐ力は残っていない。それが自らの命によるものだと、どうしても自分の口で告げることができなかった。
王の様子を見て取り、意を決して沈黙を切ったのは、アントニウスだった。
「出生時に、切除致しました」
声は落ち着いている。 余計な感情も、言い訳もない。
龍皇は顔をしかめ問い続ける。
「……むごいことを。 親は、どうしておる」
「父親は判明しておりません。 母親は、この者が生まれた年に死亡しております」
間を置かず、問答が続く。
「死因は」
「姦通罪に問われ、処刑されました」
その瞬間、 龍皇の眼光が、わずかに揺らいだ。
人間の国において、不義密通が罪であることは知っている。だが、一般市民であれば、処分は離縁に留まるのが常だ。
処刑に至るとなれば、それなりの身分でなければ辻褄が合わない。
黄金色の眼が、ゆっくりとアレクシオス王へ向けられる。
「……前王妃か」
それは問いというより、確認だった。
「その方の、一人目の妃なのじゃな。その女は、人間か」
アレクシオスは、喉を鳴らし、かろうじて答える。
「と、当然でございます」
「であるならば」
龍皇はアンドリに、黄金の視線を当てる。
「この者は、史上初の混血種ということになるな」
そして、アントニウスを見る。確か式典で王は隣に王妃を置いていたはずだ。だが、王太子だと名乗ったアントニウスの面立ちと、あの時見た王妃の年齢差を考慮するに、実母ではなかろう。
「そなたも、同じ女を母に持つのじゃな」
アントニウスは肯定する。想定済みであった答えに、さらなる確認を加える。
「なれば、そなたはこの童の兄にあたるか」
「血のつながりがあるという意味においては、おっしゃる通りです」
事務的な表現を選んだアントニウスだがその答えに、迷いはなかった。アンドリには、イミリシウスの姓は与えられておらず、二人の血縁関係を証明する書類は前王妃の処刑と共に破棄された。
それでもアントニウスはこの問いに対する答えを、誤魔化さないと決めていた。
堂内に張り詰めていた重圧が静かに、形を変え始める。 天井を打つ雨音が次第に引いていく。
圧倒的な力の差を前にしながら、 目を逸らさず、言葉を濁さず、 必要なことだけを差し出してくるアントニウスを龍皇は、僅かな間、無言で見つめた。
やがてにやりと口角をあげる。
「イミリーシャ王よ。この者の身柄、しばらく龍乃国で預かる」
アレクシオス王は、龍皇がそう言い出すことを、ある程度は予期していたようだった。
切り札として抱えてきた生物兵器を奪われる悔しさ。そして同時に、制御不能の怪物を手放せる安堵。
その二つが混じり合った、複雑な表情が一瞬、顔に浮かぶ。
龍皇は、それを見逃さない。
「我が同胞を化け物呼ばわりは業腹じゃが、この童が力の使い方を学ぶ必要があるという点においては、その方と妾の考えは一致しておろう」
黄金の瞳が、アレクシオス王を射抜く。
「その方らの昨日の振る舞いを見るに、この童が自制を失ったのは初めてではあるまい」
誰も答えられない。その沈黙こそが答えだった。矢を射、鎖をかけ、鎮静化するまで懲罰房に放り込む。誰もそれを説明する勇気を持てなかったが 、それがいつもの対処であった。
アンドリは、居心地の悪さを隠しきれず、それでも何も言えないまま、視線を床に縫い付ける。
この場にいる誰よりも、話題の中心にいながら、彼の意思だけが、完全に蚊帳の外だった。
龍皇は、若干圧力を緩めた視線をアンドリに向ける。
「この者が学びを望むなら、我らが必要なだけ与えよう」
そして、あっさりと付け加える。
「それをイミリーシャに持ち帰りたくば、許そう。その方らにとっても、悪い話ではあるまい」
礼拝堂の空気が、わずかにざわめく。
それは龍乃国が諜報の自由を差し出したも同然の提案だった。
強大な存在を相手取る以上、情報は多ければ多いほどよい。
弱点のひとつでも握れれば、戦略は根本から書き換えられる。
それだけではない。
アンドリに訓練を施すということは、イミリーシャの戦力拡大に、龍乃国が直接手を貸すという意味でもある。昨日手に入れた騎禽と合わせれば、軍事力の天秤は、大きく傾く。
アレクシオス王は、頭の中で完成しつつある皮算用をその顔に浮かべ隠しきれない様子である。
アントニウスはなんの感情も表さずに、成り行きを見守っている。王に従う者として、流れに水を差さないことは当然だが、その沈黙がただの盲従ではないことを、龍皇はすでに察していた。
「明日の朝に発つ」
決定は一瞬だった。
「段取りを整えよ。鰐尾は、それまでに騎禽の扱いを、よくよく教えておやり」
龍皇は手を軽く振った。話は、終わりだ。
「下がりゃ」
命じられたのは、イミリーシャ王と王宮の一団のみであった。
一行が一礼し、アンドリを残して礼拝堂を出ていく。
アントニウスも歩みを止めずに出口へ向かったが、ただ一度だけアンドリに視線を向けた。小さな頷きを送る。
それだけだったがアンドリは、アントニウスから送られた言葉なき言葉を確かに受け取った。
大丈夫だ。
そのやり取りを、龍皇は確かに見ていた。
黄金の瞳を細めたが、僅かに口角を上げたのみで、こちらもやはり言葉を発さず人間たちを見送った。
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