水平線の向こうがわ
光羽 魁 Kai Mitsuhane
【第一話】唐突なモーニング
溶かしたい。
最初に覚えているのは、その感覚だった。
ホテルの部屋を淡く照らす、ベッドサイドランプの柔らかな光。 のりの効いた、なめらかなシーツ。 鼻の奥へ残るアルコールの匂い。窓の外はまだ冬の夜で、ガラスの向こうだけが静かに冷えていた。
それから、私の腕の中で小さく息を呑む身体。
「……っ」
逃げようとするみたいに肩が震える。でも、本気ではなかった。私は後ろからその身体を抱き締めたまま、細い手首を優しく押さえる。
「大丈夫、嫌なことはしないよ」
掠れた声で囁くと、彼女が小さく息を止めた。長い黒髪が汗でしっとりと首筋へ張り付いている。私はその髪を指でそっと掬い上げ、白い首筋へ唇を寄せた。柔らかな肌へ軽く歯を立てる。
その瞬間、張り詰めていたものが切れるみたいに、腕の中の身体がびくりと震えた。
「ぁ……」
漏れた声が、妙に熱い。怖がらせないように、その場所へゆっくり舌を這わせる。すると今度は、逃げる代わりにぎゅっと枕の端を掴んだ。
私は、自分よりひと回り小さいその身体を強く抱き寄せる。
細い。熱い。柔らかい。なのに、どこか頑なだった。だから余計に、崩したくなる。とことん甘やかしたいような、哭なかせたいような、自分でもよく分からない感情へ深く沈んでいく。
私の指先へ、震えながら健気に応えてくれる。私は思わず、後ろからその柔らかな頬へ口づけた。そこで初めて、肌が少し濡れていることに気づく。
「……泣いてる?」
問いかけると、小さく首を振る。
その仕草が、どうしようもなく可愛らしい。
触れるたび少しずつ力が抜けていく。拒むみたいな仕草でも、優しく捕まえると大人しくなる。それどころか、もっと欲しがるみたいに身体を寄せてくる。上擦る声も、絡みつく指先も、何もかも私へ向けられている。
その変化へ、私は完全に溺れていた。
最後の方にはもう、腕の中でぐずぐずになっていた彼女へ、慰めるみたいに何度もキスをした。すると彼女は苦しそうに息をしながら、必死にこちらへ縋りついてくる。
熱を孕んだ吐息。掠れる声。
触れるたび震える身体。
その全部が、たまらなく愛しくなった。
目を覚ました瞬間。
自分がどこにいるのか分からなかった。
白い天井。暖房で乾いた喉。それから、後頭部に鈍く残る重さ。酒自体は強い方だ。だから二日酔いと言っても、頭が割れるように痛むわけじゃない。ただ、かなり飲み過ぎた。
昨夜は、業界の情報交換会だった。何社もの人間が集まり、名刺交換をして、案件の話をして、ワインを片手に笑う。海外案件が増えてから、そういう場へ顔を出すことも多くなっていた。
表向きは柔らかな交流会でも、実際は情報戦に近い。誰がどこへ噛んでいるか。どの会社が新規案件へ入ろうとしているか。誰と誰が繋がっているか。みんな笑いながら、腹の中では別の計算をしている。私も、そういう空気には慣れていた。
しかも昨日は、やけにワインの口当たりが良かった。赤も白も妙に軽くて、気づけば何度もグラスを空けていた。そこへ、あちこちから声を掛けられる。
「黒瀬さん、次ぜひ一緒に」
「この前のプレゼン、見ましたよ」
「ちょっと一杯だけ」
そんなふうに酒を継がれていくうち、最近溜まっていた疲れまで一気に回ってしまったのだと思う。
「……あー……」
喉はひどく枯れていたが、なんとか声は出せた。
まだ意識が現実へ追いついていない。
飲み会の途中までは覚えている。でも、その先が曖昧だった。どうやってこの部屋へ来たのか。どうしてベッドへ入ったのか。その流れだけが綺麗に抜け落ちている。
ただ、身体だけは昨夜を覚えていた。触れ合った感覚だけが妙に生々しい。そして何より、ひどく心地よかった。
――いや、待って。
そこで初めて、自分の右側に人の気配があることへ気づく。
隣にいるのは、誰だ?
ぼやけた視界のまま、私はゆっくり顔を横へ向けた。
白いシーツ。
長い黒髪。
露わな肩。
そこでようやく、昨夜の断片が頭の奥で繋がる。すると、隣で眠っていた彼女がゆっくり目を開けた。薄い睫毛が揺れる。その綺麗な顔を見た瞬間、私は完全に目を覚ました。
――久世くぜ 環たまき。
コンペで何度も顔を合わせていた、ライバル会社の人間だった。彼女は、ほんの数秒だけ私を見つめ、それから静かに視線を逸らした。昨夜、私たちは確かに互いを求め合っていた。急に現実感が押し寄せてくる。
沈黙の中、私は上半身を起こし、乱れた髪をかき上げた。
「……いや、その」
何か言わなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。
すると彼女が、小さく息を吐く。
「別に、気にすることないわ」
あまりにも淡々とした声だった。私は逆に面食らう。
彼女は、いつも隙のないビジネス用の顔をしていた。丁寧な言葉遣いで、一定以上は踏み込ませない距離感を保っている。でも、こうして同じベッドで朝を迎えてしまったのだ。敬語の外れた、その気軽な口調が妙に新鮮だった。
だから私も、自然と調子を合わせる。
「いや、そんなわけにもいかなくない?」
彼女は少しだけこちらを見る。その顔は昨夜よりずっと静かで、理性的で、いつもの“久世環”に近かった。だから余計に、昨夜、私の腕の中で崩れていた姿との落差に頭が追いつかない。
私は誤魔化すみたいにベッド脇の時計へ目を向けた。
「……お腹、空いてない?」
「え?」
彼女がきょとんとした顔をする。
私はなんとなく視線を逸らしたまま言った。
「下で、モーニングでも食べようよ」
すっと口から出た言葉に、自分でも驚く。今までなら、こんなふうに朝を迎えた相手と、そのあと普通に食事をしようなんて思わなかった。けれど昨夜の彼女を、“それきり”で終わらせることに妙な抵抗があった。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。
「……わかった」
それから静かに起き上がる。
シーツがするりと滑り落ちた。
白い肌。細い背中。そこへ、昨夜私がつけた赤い痕が生々しく残っている。
首筋。肩。鎖骨の下。
それを見た瞬間、胸の奥が熱を持った。
――ああ、相当夢中だったんだな。
ぼんやりそんなことを思う。同時に、もう一度抱き寄せたい衝動が込み上げた。気づけば、立ち上がろうとした彼女の手首を掴んでいた。
彼女が振り返る。
「……なに?」
その声で我に返る。私はすぐに手を離した。
「いや……まだ時間あるし。チェックアウトまで余裕あるから、ゆっくり入ってきなよ」
彼女は少しだけ不思議そうな顔をしたあと、小さく頷いて浴室へ消えた。
ほどなくして、シャワーの音が聞こえ始める。
私は深く息を吐き、ベッドへ倒れ込んだ。頭の奥がまだ少し重い。けれど、不思議と後悔はなかった。むしろ問題なのは、昨夜のことを思い出すたび、もっと彼女を知りたいと思ってしまうことだった。
とりあえず、順番を間違えた。
本来なら、もっとちゃんと知り合って、食事して、話して、それから踏み込むべき相手だったはずなのに。よりによって、一番飛ばした形で始まってしまった。
私はベッドから起き上がると、ソファの上に無造作に置かれていた服を拾い始める。彼女のシャツ。自分のジャケット。ストッキング。昨夜の熱がまだ残っているみたいで、触れるたび妙に落ち着かなかった。だからせめて、と浮ついた感情を押し戻すみたいに丁寧に畳んでいく。
まずは、親しくなるところからだ。
たぶん、ちゃんと。
そこから始めたかった。
ホテルのモーニングは、妙に静かだった。
大きな窓から、冬の薄い朝の光が差し込んでいる。昨夜の熱とは、まるで別世界みたいだった。
焼きたてのパンの香り。コーヒーの苦い匂い。薄く溶けたバター。そんな朝の空気の中で、久世は落ち着いた様子で食事をしていた。
サラダの上の艶めいたプチトマトを、細いフォークで丁寧に刺す。クロワッサンを小さくちぎって口へ運ぶ。時折、長い睫毛が伏せられる。その仕草の一つ一つが妙に綺麗で。
昨夜、私の腕の中であんなふうに乱れていた人間と同じとは思えなかった。整いすぎていて、少し冷たく見えるくらいなのに。そのギャップに、完全にやられている自覚があった。しかも不思議なことに、この朝の時間が嫌じゃない。普通ならもっと気まずくなるはずだった。適当に別れて、曖昧に終わる。なのに。向かいで静かに食事をしている彼女を、もっと見ていたいと思ってしまう。
「……こういうの、慣れてるの?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
久世が視線を上げる。
「こういうの?」
「いや、その……ワンナイト的なの」
言った瞬間、失敗したと思った。
さすがに言い方が悪い。すると久世は少しだけ目を細める。
「そんなことないわ」
淡々とした返事。
でも、そのあとほんのり頬が赤くなる。それを見た瞬間、私の胸がまた変に騒いだ。
……ああ、だめだ。
こういう反応をされると弱い。私は誤魔化すみたいにコーヒーへ口をつけた。すると彼女が、カップを置きながら静かに言う。
「そもそも昨日、最初から部屋を取っていたの」
「え?」
「交流会の日って、終わる時間読めないから。今日も休みだし、終電気にして帰るの面倒だったのよ。タクシーだと自宅まで微妙に遠いし」
「へえ」
「あと、狭いベッド嫌いだから、ダブルでね」
彼女はそう言って、小さくナイフでスクランブルエッグを切り分ける。
そこでようやく、昨夜の断片が少し繋がる。
たしか、ぼんやりした意識の中でフロント前に立っていた気がした。彼女がホテルスタッフと何か話していた。
「あー……もしかして、私」
「かなり酔ってた」
彼女が淡々と言う。
「だから部屋まで連れて行った。追加料金払えば二人でも問題ないって言われたから、そのまま変更しただけ」
言い方が驚くほど事務的だった。まるで仕事の手続きみたいに説明する。でも逆に、その落ち着き方が久世らしいと思った。
「……ごめん。なんか色々」
「気にしなくていいって、言ったでしょ」
彼女は少しだけ肩を竦めて、本当に大したことじゃないみたいに言う。私は少し迷ってから、テーブルの端へ視線を落とした。
「じゃあせめて、このモーニングは私が払わせて」
すると彼女が少しだけ眉を上げて、小さく笑った。昨夜とは全然違う、静かな笑い方だった。
「そういうところ、真面目なのね」
「大人として当然でしょ」
「じゃあ昨日の宿代、私からちゃんと請求しないとだめ?」
「……それももちろん、お返します」
「"返す"ってことは、今度はあなたが部屋を取ってくれる?」
彼女はどこか楽しそうに、私の顔を見ながらやんわりと突っ込んできた。私はようやく、自分の言葉が墓穴を掘ったことに気づく。
「まいったな。どうりでこの前のプレゼン、勝てなかったはずだわ」
私は大袈裟に参りましたと言わんばかりに、手を広げると、その仕草がよほどおかしかったのか、久世はまた少し笑った。
この空気が、妙に心地いい。
柔らかな朝の光。静かな食器の音。漂うコーヒーの香り。本当なら、もっと気まずくなるはずだった。でも不思議と、この時間はしっくりきてしまう。
向かい側で淡々と食事を続ける彼女を、私は何度も目で追ってしまっていた。
食事を終えたあと、ホテルのロビーへ向かう。
自動ドアが開くたび、外から冷たい空気が細く流れ込んできた。
そこで別れる空気になって、私は少し迷ってから口を開いた。
「……連絡先、交換しない?」
久世が足を止める。それから少しだけこちらを見て、静かに言った。
「……交換しなくても、また会えるわよ」
「え?」
思わず聞き返す。でも彼女は、それ以上説明する気はないみたいに小さく笑った。
「じゃあ、私は行くね。ご馳走様」
黒髪が揺れて、背中が遠ざかっていく。
私は、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
“また会える”。
その言葉だけが、不思議と胸へ残った。
――そして、一ヶ月後。
戦略開発部へ、新しい人間が移籍してくるという話が社内へ流れた朝。
窓の外には、まだ冬の硬い光が残っている。部長に案内され、一緒に室内へ入ってきた人物を見た瞬間、私は思わず息を止める。
黒いスーツ。静かな目。無駄のない所作。
艶のある長い黒髪を一つにまとめた彼女は、淡々と挨拶をした。
「本日付で戦略開発部へ配属になりました。久世環です」
何事もなかったみたいな顔で、彼女はそこに立っていた。
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