3話③

​ 翌朝。

 食堂に集まった私たちの間には、昨日までの息が詰まるような重苦しさとは違う、どこか安堵の入り混じった空気が漂っていた。

「明日の朝になれば、警察と救助隊がやって来る」――その事実が、この異常な空間に閉じ込められた私たちにとって、どれほど大きな希望だったか。まだ不安は拭いきれないものの、朝食の席の雰囲気はいくぶん明るさを取り戻しているように感じられた。

​ だが、その微かな希望は、一ノ瀬くんの一言によって無残に打ち砕かれることになった。

​「……大和田さんが、まだいらっしゃいませんね」

​ 朝食の配膳が終わり、皆が席に着こうとしていたその時だった。

 一ノ瀬くんのその言葉に、全員の動きがピタリと止まる。昨日、大和田さんは誰よりも苛立っていたとはいえ、食事の時間に遅れるようなことはなかった。

​ 再び、一同の顔に怪訝な表情と、じわりと這い上がるような恐怖の色が浮かび上がっていく。

​「……行きましょう」

​ 葛城さんの短く鋭い声に背中を押されるようにして、私たちは連れ立って二階にある大和田さんの部屋――二〇四号室へと向かった。

​ 重厚な木の扉の前に立ち、葛城さんが何度かノックをする。

「大和田さん。朝食の時間ですが、起きていらっしゃいますか」

 だが、中からは何の返事もない。静まり返った廊下に、ノックの音だけが空しく響く。

​ 葛城さんがゆっくりとドアノブに手をかけ、回す。カチャリと音が鳴り、扉がゆっくりと押し開かれた。

 隙間から部屋の中の光景が目に入った瞬間、私の全身からサァッと血の気が引いた。

​「ヒィッ……!」

​ 千恵さんが短く息を呑み、直後に「いやぁぁぁぁっ!」と耳をつんざくような悲鳴を上げた。

​ ベッドの上。昨日こぼしたというワインの赤い染みがついたシーツの上で、大和田さんが仰向けに倒れていた。その目は虚空を見開いたまま固定されており、首元には生々しい索条痕がくっきりと残っている。

 駆け寄った葛城さんが首筋に指を当てたが、すぐにゆっくりと首を横に振った。すでに完全に事切れており、体は冷たくなっているようだった。

​「大和田さん……っ! なぜ、こんな……!」

 一ノ瀬くんが扉の枠を強く殴りつけ、痛切な悔しさを顔に滲ませる。その傍らで、臼井さんは幽鬼のように青ざめ、ガタガタと震えていた。

​ 圧倒的な絶望が、再び私たちを呑み込んだ。

​   * * *

​ 大和田さんの遺体をそのままにして、私たちは逃げるように一階の食堂へと戻ってきた。

​「どういうことよ……明日の朝まで待てば助かるんじゃなかったの!? このままじゃ、助けが来る前に私たち全員殺されちゃうわ!」

 千恵さんが頭を抱え、半狂乱になって叫ぶ。その恐怖は、食堂にいる全員の心境を代弁していた。

​ そんな中、小刻みに震えながらも、和真さんが吐き捨てるように声を荒らげた。

​「……ざまーみろだ。自業自得だよ、こんなの」

「和真さん、何を言い出すんですか……! 大和田さんが亡くなったんですよ!?」

「うるさい! 隠し資産だか何だか知らないが、そんな胡散臭いものに手を出そうとするからそうなるんだ!」

​ 和真さんの言葉に、一ノ瀬くんがハッとして息を呑む。

​「知ってるんだぞ! お前と大和田が、あの機械を使ってこの建物を陰でコソコソ探り回っていたことをな! 宗隆の親父もそうだ。あんな得体の知れない契約なんかに執着するから……そんなものを信じていた二人だから殺されたんだ! 最初から手を出さなければ、死なずに済んだんだよ!」

​ 和真さんは自分に言い聞かせるように、恐怖を怒りにすり替えて喚き散らした。一ノ瀬くんは言い返す言葉を見失ったように、ギリッと唇を噛み締めて俯く。

​「……もう、そんなことはどうでもいいわ!」

​ ヒステリックな声を上げたのは千恵さんだった。彼女は充血した目で周囲を睨みつけると、臼井さんに向かって命令した。

​「私は警察が来るまで、自分の部屋に引きこもらせてもらうわ! 絶対に外には出ない! 臼井、明日の朝までの食料と水を私の部屋の前に置いておきなさい。いいわね!?」

「あ、私もだ! 俺もこれ以上、こんな狂った事件に巻き込まれたくない!」

​ 和真さんも妻に同調し、二人は青ざめた顔のまま、逃げるように食堂を飛び出して二階の自室へと向かっていった。

​ 残された食堂には、重く淀んだ沈黙が降りた。

 奈美さんは両手で顔を覆い、微かに肩を震わせている。一ノ瀬くんも、上司を失ったショックと和真さんに暴言を吐かれた疲労からか、もはや言葉を発する気力もないようだった。やがて二人は、ふらつくような足取りでそれぞれの部屋へと戻っていった。

​ 静まり返った食堂に残されたのは、私と影斗くん、そして葛城さんの三人だけ。

​ 私は不安な気持ちで葛城さんを見つめた。

 彼は冷めきった珈琲のカップを手に持ち、ゆっくりと一口啜る。その横顔は、目の前で起きた凄惨な殺人や、親族たちのパニックなどまるで意に介していないかのように静まり返っており――底知れないほど深い思考の海へと、静かに潜り込んでいるようだった。

 静まり返った食堂で、いつまでも動こうとしない葛城さんを見つめていると、不意に影斗くんが小声で話しかけてきた。

​「玲奈ちゃん。……もう一度、大和田さんの部屋を調べに行こう」

​ その提案に、私は小さく頷いた。事件の真相に近づくためには、現場の状況を詳細に確認する必要がある。私はカップを見つめたまま微動だにしない葛城さんに声をかけた。

​「葛城さん。私たち、大和田さんの部屋を調べてきます」

「……気をつけて」

​ 葛城さんは顔を上げることもなく、ただ一言、短くそう返した。相変わらず彼が何を考えているのかは分からなかったが、私たちは食堂を後にし、再び二階の二〇四号室へと向かった。

​   * * *

​ 薄暗い部屋の中には、先ほどと変わらず生々しい死の匂いが充満していた。

 ベッドの上には、大和田さんの遺体がうつ伏せに倒れている。先ほどはパニックになっていて冷静に見られなかったが、改めて近づいて観察すると、いくつか異様な点に気がついた。

​「首を絞められた跡があるね……。それに、見てよ」

​ 影斗くんが遺体の首元と、その傍らのシーツの上に無造作に転がっている『凶器』を指差した。

​「この紐……。宗隆さんの手足を縛っていたのと同じ種類のやつだ」

「本当だ……。じゃあ、宗隆さんを殺した犯人と、大和田さんを殺した犯人は同一人物ってことね」

​ 遺体を冷静に観察していた影斗くんは、顎に手を当てて「不思議だね……」と首を傾げた。私もそれに同意して頷き、ふと抱いた最大の疑問を口にした。

​「ええ、本当におかしいわ。だって、昨日の夜、大和田さんは自分の部屋に戻ってから絶対に誰も入れないように施錠していたはずよ。それに、今朝私たちがこの部屋に来た時も、扉にはしっかりと鍵がかかっていた」

​ 犯人がどうやってこの部屋に侵入し、そしてどうやって外へ出たのか。

 考えを巡らせた私は、ハッとして影斗くんを見た。

​「……ねえ、マスターキーを持っていた臼井さんなら、鍵を開けて中に入れたんじゃないかしら?」

​ だが、私のその推測に対し、影斗くんは静かに、しかしはっきりと首を横に振った。

​「ううん、臼井さんには犯行は不可能だよ」

「え? どうして?」

「実は昨日、神崎さんの部屋を開けてもらった後、僕が臼井さんからマスターキーを預かったままだったんだ。今日の朝、食堂で臼井さんに会って直接返すまで、ずっと僕が持っていたからね」

​「……!」

​ 影斗くんの言葉に、私は息を呑んだ。

 殺人が行われたのは昨日の夜から今朝にかけての間。その時間帯、すべての部屋を開けられる唯一のマスターキーは、影斗くんが持っていたことになる。つまり、マスターキーを使った犯行は絶対に不可能だということだ。

​ だとすれば、犯人はどうやって内側から鍵のかかったこの二〇四号室に侵入し、大和田さんを絞殺した後、再び密室を作り上げて姿を消したというのだろうか。

 不可解な密室殺人の謎を前に、私たちはただ遺体を見下ろしたまま立ち尽くすことしかできなかった。

​ 遺体の周辺を見渡してみる。この館の他の部屋と同じように、ベッド以外には目立った家具は何もない。一見すると特に違和感はないように思えたが、ふと、あることに気がついた。

​ ベッドが、やけに綺麗なのだ。

​「……おかしいわ」

​ 私は大和田さんの遺体を避けながら、シーツをめくってみた。しかし、どこを探しても赤い染みは見当たらない。

​「どうしたの、玲奈ちゃん?」

「昨日、大和田さんは自分の部屋のベッドにワインをこぼしたって言っていたでしょ? だから臼井さんにシーツの替えを頼んでいたのに……その跡がどこにもないのよ」

​ 朝、部屋に入った瞬間に血の気とパニックで錯覚してしまっていたけれど、冷静に観察してみれば、シーツにはワインのシミなど一切残っていなかったのだ。

​ どういうことだろうと二人で考えを巡らせていると、背後から不意に声がした。

​「……お二人とも、こんなところで何を?」

​ 驚いて振り返ると、いつの間にか開けっ放しになっていた扉の前に、一ノ瀬くんが立っていた。

 彼も上司の死にショックを受けているはずだが、私たちはこの不可解な事件のヒントを得るため、思い切って彼に話を聞いてみることにした。

​「一ノ瀬くん。大和田さんは、誰かに恨まれるような心当たりはなかったかしら?」

​ 私の問いに、一ノ瀬くんは自嘲気味に口角を歪めた。

​「……恨まれる心当たりですか。大和田さんは、殺される理由ならいくらでも思い当たるような人でしたよ」

​ 一ノ瀬くんは重い口を開き、大和田さんがこの空籠邸にやって来た本当の目的を語り始めた。

​「大和田さんがここへ来たのは、単なる欲からじゃありません。脅されていたんです」

「脅されていた……?」

「ええ。一年前、『過去にやってきた悪事の証拠を世間にばらまかれたくなければ、この館へ来て隠し資産を見つけ出せ』という脅迫を受けていたんです。その隠し資産の情報と引き換えに、証拠を揉み消してやる、と……」

​ 一ノ瀬くんはそう言うと、やり場のない怒りと悔しさを顔に滲ませ、深くうつむいてしまった。

​ 一ノ瀬くんの話に私たちが押し黙っていると、開け放たれた扉の向こうから、そっと人影が近づいてきた。奈美さんだった。

​「あの……話し声が聞こえたので、気になってしまって」

​ 彼女は不安げな表情で、おずおずと部屋の中を覗き込んでいた。

​ 私は頭の中で、これまでに起きた出来事をぐるぐると巡らせていた。

(睡眠薬、天窓からの転落、そしてこの密室での絞殺……。おそらく、この二つの不可解な殺人は、この館に隠された特異な仕掛けを利用したものなんだ)

​ だが、肝心のその仕掛けが何なのか、私には一向に見当もつかない。重苦しい沈黙の中、私はふと無意識のうちに呟いてしまっていた。

​「……葛城さんは、一体何に気づいているんだろう」

​ その小さな独り言に、影斗くんがピクリと反応した。

「えっ? 葛城さん、もう何かに気づいてるの?」

​ その言葉に、一ノ瀬くんと奈美さんもハッとして目を丸くした。

「本当ですか? 葛城さんは、もう犯人に気づいていると……?」

 一ノ瀬くんがすがるような、切羽詰まった声で尋ねてくる。

​ 私は慌てて首を横に振った。

「い、いえ、まだ犯人が誰かまでは分かっていないと思います。それに……確信が持てない推測に過ぎないことは口にできないって、私にも何も話してくれないんです」

​ 少し自嘲気味にそうこぼすと、影斗くんは感心したように目を細めた。

​「へえ……葛城さんって本当にすごいね。玲奈ちゃんがそこまで入れ込む気持ち、なんとなくわかるよ」

「い、入れ込むって……変な言い方しないでよ! 別にそういうんじゃないってば!」

​ からかうような影斗くんの言葉に、私は顔が一気に熱くなるのを感じて、思わずムキになって言い返してしまった。

​ 一ノ瀬くんと奈美さんがきょとんとしている前で、これ以上動揺を見せるわけにはいかない。

「と、とりあえず、シーツが綺麗だった件も含めて今の状況を葛城さんに報告してくるね」

 私は誤魔化すように早口でそう告げると、逃げるように三人に背を向け、急ぎ足で大和田さんの部屋を後にした。

​   * * *

​ 急ぎ足で一階へ降り、食堂に戻ると、葛城さんは先ほどと全く同じ姿勢で、じっと冷めた珈琲を見つめていた。

​「葛城さん」

​ 私が呼びかけると、彼は静かにこちらへ顔を向けた。私は、大和田さんの部屋が内側から鍵のかかった完全な密室状態だったこと、そしてマスターキーは影斗くんがずっと持っていたため外部からの侵入が不可能だったことを伝えた。さらに、遺体が乗っていたベッドのシーツが不自然なほど綺麗で、昨日こぼしたはずのワインの染みがどこにも見当たらなかったことも手短に報告した。

​ 黙って私の話を聞いていた葛城さんは、ふと何かを閃いたように顔を上げた。

​「……玲奈君。この館の平面図と、部屋割りのメモはあるかな?」

「え? あ、はい。影斗くんと一緒に調べた時のものがここに」

​ 私がポケットから折りたたんだ紙を取り出して渡すと、葛城さんはそれをテーブルの上に広げた。そして、平面図と各部屋の名前が書かれたメモをじっと睨みつけ、顎に手を当てて深い思考の底へと沈んでいった。

​ どれくらいの時間が経っただろうか。

 不意に、葛城さんがポツリと呟いた。

​「……そうか」

​ 顔を上げた葛城さんを見て、私は思わず息を呑んだ。

 彼が、まるでパズルを解き終えた子どものような、無邪気で楽しそうな笑顔を浮かべていたからだ。頭を動かすたびに、後頭部のトレードマークの寝癖がぴょこぴょこと揺れている。

​「わかったって……何にですか?」

「犯人の正体と、この建物の『仕掛け』だよ」

​ あっさりと告げられたその言葉に、私は目を見開いた。

​「本当ですか!? 急いで影斗くんたちにも伝えて――」

「待ちなさい」

​ 弾かれたように駆け出そうとした私を、葛城さんの低く鋭い声が引き止めた。

​「外部への逃げ道が絶たれているこの状況下で、不用意に犯人を名指しするのは危険だ。相手が凶器を持っている可能性が高い以上、僕らだけで取り押さえることができるとは限らないからね。迂闊な行動は致命傷になる」

「そ、それは……確かにそうですけど。じゃあ、せめて私にだけ教えてもらえませんか?」

​ すがるように尋ねたが、葛城さんは静かに首を横に振った。

​「それもできない。万が一、君が真相を知っていることを犯人に悟られれば、君自身に危害が及ぶ可能性がある」

「でも! 警察が来るのは明日の朝なんですよ!? このままじゃ、その間にまた新たな犠牲者が出るかもしれないじゃないですか!」

​ 焦りと恐怖から思わず声を荒らげてしまった私に対し、葛城さんは相変わらず落ち着き払った声で答えた。

​「その心配はないよ。今日のところは、しっかりと部屋に鍵をかけておくんだ。それで大丈夫だから」

「大丈夫って……」

​ 私は困惑し、絶句した。

(たった今、大和田さんは内側からしっかりと鍵をかけた密室で殺されていたと報告したばかりじゃない! なのに、鍵をかけるだけでいいだなんて……葛城さんは一体何を言っているの?)

​ 結局、また肝心なところではぐらかされてしまった。私では助手すら務まらないと言われているようで、俯いて露骨に肩を落とす。

​ そんな私の様子を見て、葛城さんは困ったように小さくため息をついた。

​「……仕方ないな。ヒントを出すよ」

「えっ?」

​ 顔を上げた私の耳元に、葛城さんがそっと顔を近づけ、囁くように言った。

​「犯人は――――」

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