第十一章 選ばれる者、残される者

統和元年の秋から冬にかけて、赤道宇宙開発庁の空気は少しずつ変わっていった。


訓練生たちは、もう候補者ではなかった。


少なくとも書類の上では、彼らは正式な宇宙士訓練課程第一期生である。だが、その呼び名には別の残酷さがあった。候補者であれば、まだ「選ばれるかもしれない者」だった。訓練生になると、「選ばれなければ残される者」になる。


訓練は続いた。


高高度飛行。

無重量適応。

閉鎖環境。

水上脱出。

緊急帰還。

軌道上火災対応。

通信途絶。

医学的自己診断。

管制遅延下の判断。

広報講習。

儀礼訓練。


それらは一つ一つ重かったが、日々を追って書けば、同じような疲労と同じような吐き気が繰り返されるだけでもあった。


だから陳星舟は、訓練記録の余白にこう書いた。


宇宙士訓練とは、劇的な出来事の連続ではない。

同じ手順を、違う疲労の中で繰り返すことだ。

人間は一度できたことを、眠い時、怒っている時、怖い時、誰かを心配している時にもできなければならない。


彼は少しずつ強くなった。


加速度では、まだ九鬼雅臣に及ばない。

水中脱出では、アディ・プラナの自然さには遠い。

医学知識では、葉静慧に勝てるわけがない。

機械構造では、郭蘭玉の目には及ばない。

気象と海況の読みでは、ラトナ・サリの直感に助けられることが多い。


それでも、星舟は残った。


彼の強みは、派手ではなかった。


異常が複数重なった時、彼は黙る。

黙って、数値を追う。

数値の背後にある前提を疑う。

管制から来た指示が古くないか見る。

海況の時刻を見る。

医学許容が本当に現在値か確かめる。

手順が現実に追いついているか、現実が手順を裏切り始めているかを探る。


そして、必要な時だけ言う。


「この前提は古いです」


「帰還窓を前倒しすべきです」


「管制応答を待つ準備はします。ただし、応答を前提にしません」


「このまま続ければ、帰還ではなく漂流になります」


その言い方は、相変わらず華やかではなかった。


だが、訓練班はいつの間にか、その声を待つようになっていた。


九鬼が一度、訓練後に言った。


「君は号令には向かない」


星舟は水を飲みながら答えた。


「知っています」


「だが、最後の確認には向いている」


「それは褒めていますか」


「かなり」


葉静慧も言った。


「人間の身体は、悪化する前に小さな兆候を出します。あなたは機械や手順の兆候を見るのが上手い」


「人間の兆候は?」


「まだ下手です」


「努力します」


「努力ではなく、観察です。ただし、相手が人間であることを忘れずに」


星舟はその言葉を、何度も思い返した。


相手が人間であることを忘れずに。


これは、帰還計算にも、手紙にも、広報にも、たぶん恋にも関係する言葉だった。


もっとも、彼はまだそれを恋とは呼ばなかった。


栖原明依子とのやり取りは、細く続いていた。


頻繁ではない。

私的な文通と言えるほどでもない。

文化院の小冊子、訓練記録映像、子供向け講座の反響、宇宙啓蒙資料。そういう公的な名目がある時だけ、便箋が届いた。


それでも、星舟は届いた紙を一枚も捨てなかった。


彼女の便箋は、いつも短かった。


子供たちは、訓練生の皆様が怖さを隠さず語ったことに強く反応しています。

勇ましい言葉より、正直な怖さの方が、時に人を安心させるのかもしれません。


ある時は、こう書かれていた。


宇宙を語る文章は、上を向かせるものが多いです。

あなたの文章は、上を向かせた後、もう一度足元を見させます。

私は、それが必要だと思います。


返事を書くたび、星舟は悩んだ。


長すぎると奇妙だ。

短すぎると冷たい。

技術的すぎると退屈だ。

情緒的すぎると危険だ。


結局、彼の返事はいつも不器用だった。


栖原様


ご連絡ありがとうございます。

怖さについては、隠しても訓練中に出るため、早めに扱う方が安全だと考えています。

子供向けの言葉として適切かは分かりませんが、嘘ではありません。


また別の返事では、こう書いた。


足元を見ることについて。

高高度飛行では、地上は遠くなるほど綺麗に見えました。

しかし、帰還時に港や滑走路が見えた時、綺麗さより安心感がありました。

私はまだ、綺麗な地上より、帰れる地上を信じているのだと思います。


出した後で、彼は毎回少し後悔した。


書きすぎたかもしれない。


しかし、返事が来ると、その後悔は別のものに変わった。


薄い便箋。

整った字。

控えめな言葉。


訓練記録、軌道表、辞令、評価書、医療報告。


紙はたくさんあった。


だが、彼女の便箋だけは、読む時に少し呼吸が変わる。


そういう自分を、星舟はもう完全には否定できなくなっていた。


十二月、正式搭乗員選抜の予備評価が始まった。


赤道庁の訓練生九人は、表向きには全員が同じ課程を受けている。だが、裏ではすでに第一次有人軌道任務の搭乗候補が絞られていることを、誰もが知っていた。


任務の正式名は、まだ公表されていなかった。


庁内では仮に、高天原有人確認任務 と呼ばれていた。


目的は、短期軌道滞在、生命維持系確認、手動姿勢制御、地上管制遅延時の乗員判断、そして小型軌道実験機との接近運用。


滞在期間は三日から五日。

搭乗員は三名。

予備搭乗員は二名。


誰が乗るのか。


誰が残るのか。


訓練生たちの会話は、その話題を避けるようになった。


避けるということは、意識しているということだった。


九鬼雅臣は、ほぼ確実と見られていた。


操縦、加速度、指揮能力。

彼を外す理由は少なかった。


葉静慧も有力だった。


医学知識、冷静さ、閉鎖環境適性。女性宇宙士候補としての広報価値もあったが、それだけでなく、実力があった。


三人目。


そこに、複数の名前があった。


星舟。

郭蘭玉。

アディ・プラナ。

ラトナ・サリ。


技術的には、星舟と郭。

回収と南方象徴なら、アディ。

気象・環境判断と南方女性候補なら、ラトナ。


選抜は、能力だけではない。


それは皆分かっていた。


ある夜、アディが食堂で言った。


「俺が乗ったら、南方の新聞は喜ぶだろうな」


誰もすぐには答えなかった。


アディは笑っていたが、その笑いには少し苦味があった。


「南方の海から宇宙へ、って見出しが作りやすい」


九鬼が静かに言った。


「君は実力もある」


「もちろん。飾りだけで乗るつもりはない」


アディはそう言った後、星舟を見た。


「でも、星舟。君が乗るべきだとも思う」


星舟は箸を止めた。


「なぜ」


「帰還判断で、君がいないと少し怖い」


「帰還は地上でも支援できます」


「地上との通信が遅れたら?」


星舟は答えられなかった。


ラトナが言った。


「私は、星舟さんが乗るなら安心します。でも、残される側は不安になります」


葉が頷いた。


「その通りです。優秀な帰還担当者は、船内にも地上にも必要です」


郭蘭玉が短く言った。


「一人しかいないのが問題」


九鬼が言った。


「では星舟を二人に増やすか」


アディが笑った。


「二人いたら会話が全部帰還手順になる」


星舟は少し困った。


「僕はそこまで」


全員が彼を見た。


「……そうかもしれない」


食堂に小さな笑いが戻った。


その笑いが、星舟にはありがたかった。


選ばれるかもしれない者たちは、互いに相手が落ちる可能性を背負っている。


その重さを笑いで少しだけ軽くすることも、チームの手順なのだろう。


統和二年、一九八七年一月。


新年の祝賀は控えめだった。


昭和天皇崩御からまだ一年も経っていないこと、新帝の御代が始まったばかりであること、そして宇宙士訓練が佳境に入っていることから、赤道庁では簡素な式が行われただけだった。


しかし、その式で長官が言った。


「統和二年は、赤道宇宙開発庁にとって、有人宇宙開発元年となる」


その言葉で、訓練生たちの背筋が伸びた。


有人宇宙開発元年。


大きすぎる言葉だった。


その日の午後、星舟は南雲学長に呼ばれた。


学長室は、以前より少し整理されていた。いや、整理されたというより、古い紙束が別の紙束に置き換わっていた。模型と書類と湿気は相変わらずだったが、机の上には新しい有人宇宙船の模型が置かれていた。


名前は、まだ仮だった。


瑞鳥一号。


「縁起のいい名ですね」


星舟が言うと、南雲は苦い顔をした。


「縁起で帰還できれば苦労はない」


「僕もそう思います」


「だが、名前は必要だ。人間は名前をつけたものに責任を持つ」


星舟は模型を見た。


丸みを帯びた帰還カプセル。

軌道モジュール。

太陽電池。

接続部。

脱出機構。


美しい。


だが、星舟には同時に、壊れうる部分ばかりが見えた。


「君は、おそらく搭乗候補に入る」


南雲は突然言った。


星舟は顔を上げた。


「正式決定ですか」


「まだだ。正式決定は上が行う。だが、訓練評価では上位だ」


「僕は操縦士ではありません」


「操縦士は九鬼がいる」


「医学は葉さんが」


「そうだ」


「なら、三人目は機械系の郭さんか、回収経験のあるアディの方が」


「君は、自分を外す理由を探すのが上手いな」


星舟は黙った。


南雲は杖の先を床に置いた。


「陳。君を乗せる理由は二つある」


「はい」


「一つは実務だ。初期有人任務では、予定通りにいかない時の帰還判断が重要になる。君は船内でそれを担える」


「もう一つは」


「政治だ」


星舟は、少しだけ目を伏せた。


南雲は続けた。


「上海出生、台湾育ち、赤道大出身。君は共栄圏が宣伝したい物語に合う。帝国は君を使うだろう」


「はい」


「嫌か」


星舟は少し考えた。


「嫌です」


「正直だな」


「でも、利用されることと、自分の目的を失うことは同じではない、と言われました」


南雲は小さく笑った。


「誰に」


「葉さんと、大迫先輩に」


「良いことを言う」


「学長はどう思いますか」


南雲はしばらく黙った。


「利用される者は、自分もまた何かを利用しなければならない」


「利用する?」


「帝国が君を象徴として使うなら、君もその象徴の位置を使って、帰還手順の重要性を語れ。安全余裕を削らせるな。地上の嘘を船内へ持ち込ませるな。君がただ使われるだけなら、それは消耗だ。君も使い返せ」


星舟は、その言葉を噛みしめた。


使い返す。


あまり上品な言葉ではない。


だが、南雲らしい現実的な言葉だった。


「できますか」


星舟が聞くと、南雲は答えた。


「できるかどうかではない。やらなければ、君はただ綺麗な物語にされる」


綺麗な物語。


上海から台湾へ。

台湾から赤道へ。

赤道から宇宙へ。

共栄圏の多層性を体現する若き宇宙士。


美しい。


だが、その美しさの中には、上海を離れた痛みも、台湾での孤独も、赤道の事故死も、蔡明輝の名前も、閉鎖環境の苛立ちも、便箋一枚の重さも入っていない。


星舟は静かに言った。


「分かりました」


南雲は頷いた。


「なら、準備しろ。正式決定が出れば、もう戻れん」


「選ばれなかった人たちは」


「残る」


その一言は重かった。


「それも宇宙開発だ」


南雲は言った。


「飛ぶ者より、残る者の方が多い。だが歴史は飛んだ者の名を先に覚える。だから、飛ぶ者は残った者の仕事を背負わねばならない」


その夜、星舟は訓練棟の屋上に上がった。


赤道の夜空は雲が少なく、星が見えた。


まだ宇宙へ行っていない。


だが、その道が急に近づいた気がした。


近づくほど、怖くなる。


彼は、その怖さをもう否定しなかった。


怖い理由を一つずつ減らす。

子供たちに言った言葉だった。


なら、自分もそうしなければならない。


彼は怖い理由を数えた。


機械故障。

加速度。

無重量酔い。

通信遅延。

帰還失敗。

政治利用。

両親を悲しませること。

仲間を残すこと。

栖原明依子からの便箋を、二度と読めなくなること。


最後の一つを数えた時、彼は少しだけ目を閉じた。


そこまで来ているのか。


自分は。


認めるしかなかった。


まだ恋と呼ぶには、彼には慎重すぎた。

だが、帰ってこなければならない理由の中に、彼女はもういる。


それは事実だった。


正式決定は、一月二十七日に出た。


赤道宇宙開発庁、訓練棟第一会議室。


訓練生九人が集められた。


長官、南雲学長、訓練責任者、軍監督官、本國宇宙政策局の職員が並んでいた。空気は硬かった。


長官が辞令を読み上げた。


高天原有人確認任務、第一次搭乗員。


船長兼操縦担当。

九鬼雅臣。


医学・生命維持担当。

葉静慧。


航法・帰還担当。

陳星舟。


予備搭乗員。

郭蘭玉。

アディ・プラナ。


地上支援強化班。

ラトナ・サリ、相良三郎、白成俊、榊原透。


星舟は、自分の名前が読まれた瞬間、何も感じなかった。


喜びも、恐怖も、誇りも、すぐには来なかった。


ただ、部屋の音が少し遠くなった。


九鬼が静かに息を吐いた。


葉は目を閉じ、すぐに開いた。


郭は表情を変えなかった。

アディは笑っていた。

だが、その笑いは少し硬かった。

ラトナは顔を伏せた。

相良は無言で頷いた。

白成俊は手元を見ていた。

榊原は唇を噛んでいた。


選ばれる者がいる。


残される者がいる。


その現実が、会議室に満ちた。


辞令交付後、拍手はなかった。


そういう場ではなかった。


九鬼が星舟に手を差し出した。


「よろしく頼む、帰還屋」


星舟はその手を握った。


「こちらこそ」


葉も手を差し出した。


「船内で倒れないでください」


「努力します」


「努力ではなく、睡眠と食事です」


「はい」


アディが近づいてきた。


「おめでとう」


星舟は言葉に詰まった。


「アディ」


「そんな顔をするな。俺は予備だ。まだ降ろされたわけじゃない」


「でも」


「でも、乗るのは君だ」


アディは星舟の肩を叩いた。


「なら、帰ってこい。南方の海で待っている」


郭蘭玉も来た。


「機械で困ったら呼べ」


「船内から?」


「通信で」


「通信が遅れたら?」


「待て」


郭らしい答えだった。


ラトナは少し遅れて来た。


「星舟さん」


「はい」


「帰還海域の天気は、私が見ます」


「お願いします」


「だから、私の予報を疑ってください」


星舟は一瞬驚いた。


ラトナは小さく笑った。


「疑わないと、あなたらしくありません」


星舟は深く頷いた。


「必ず疑います」


「それなら安心です」


その日の午後、公式発表はまだ行われなかった。


家族への連絡が先だった。


星舟は通信室へ入った。


台湾への直通回線は予約制だったが、搭乗員決定時には優先枠が与えられる。


母の声を聞いた瞬間、星舟は何を言うべきか分からなくなった。


「星舟?」


「母さん」


「どうしたの。声が硬いわ」


「決まりました」


向こうが静かになった。


「乗るの?」


「はい。第一次搭乗員に選ばれました」


母はすぐには答えなかった。


遠くで、父を呼ぶ声が聞こえた。


しばらくして、父の声が入った。


「星舟」


「父さん」


「そうか」


父はそれだけ言った。


長い沈黙。


星舟は、自分から言った。


「怖いです」


母が小さく息を呑む音がした。


父は静かに言った。


「怖いならよい」


「よい?」


「怖さを知っているなら、確認するだろう」


星舟は目を閉じた。


李鉄生と似たことを言う、と思った。


「帰ってこい」


父は言った。


「はい」


母の声に戻った。


「無事でいて」


その言葉を聞いた時、星舟は栖原明依子の便箋を思い出した。


どうか、ご無事で。


「はい」


彼は同じ返事しかできなかった。


通信が終わった後、星舟はしばらく席を立てなかった。


その夜、彼は手紙を書いた。


両親へは、通信で言えなかったことを補う手紙。


そして、もう一通。


栖原明依子へ。


書く名目はあった。文化院から、搭乗員決定後の広報文案確認が来る予定だった。だが、それを待たずに書くのは、明らかに私信に近かった。


彼は便箋を前にして、長く迷った。


それから書き始めた。


栖原様


本日、第一次搭乗員に選ばれました。

公式発表はまだ先ですが、文化院にはすぐ伝わると思いますので、先にご報告します。


船内では航法・帰還を担当します。

これまで地上で扱ってきた帰還手順を、今度は乗員として扱うことになります。


怖いです。

ただ、怖い理由を一つずつ減らすことは、今も続けています。


以前、あなたは帰ってきた後の目が気になると仰いました。

私はまだ宇宙へ行っていませんが、もし帰ってこられたら、地上がどう見えたかを書きます。

報告書とは別に。


陳星舟


書いてから、何度も読み返した。


怖いです。


消すか迷った。


だが、消さなかった。


子供たちにも言った。

両親にも言った。

彼女にだけ隠す理由はなかった。


翌日、手紙を出した。


数日後、返事が来た。


星舟は封筒を手にした瞬間、その紙の重さを知っていた。


中には、短い便箋が一枚。


陳様


ご搭乗決定、心よりお祝い申し上げます。

そして、同じくらい心配しております。


怖いと書いてくださったことに、少し安心しました。

怖さを隠さない方だからこそ、帰ってこられるのだと信じたいと思います。


報告書とは別の言葉を、いつか読ませてください。

そのためにも、どうか帰ってきてください。


栖原明依子


最後の一文で、星舟はしばらく動けなくなった。


どうか帰ってきてください。


その言葉は、以前の「ご無事で」より少しだけ直接的だった。


彼は便箋を畳んだ。


手帳に挟もうとして、やめた。


今回は、古い切り抜きと同じ引き出しに入れた。


上海の少年時代を運んできた紙。

宇宙へ行く前の自分を地上につなぎとめる紙。


どちらも、もう同じ場所に置いてよい気がした。


統和二年二月。


高天原有人確認任務は、公式に発表された。


新聞は大きく報じた。


共栄圏初の本格有人軌道確認へ

赤道より瑞鳥一号、春に打上げ予定

船長は本國空軍出身・九鬼雅臣氏

台湾出身女性医学者・葉静慧氏も搭乗

上海生まれ台湾育ちの赤道大一期生・陳星舟氏、航法帰還担当に


星舟は新聞の見出しを見て、少し顔をしかめた。


上海生まれ台湾育ち。


嘘ではない。


だが、自分が見出しにされると、途端に平らになる。


葛城が新聞を手にして言った。


「見事に綺麗な物語にされたな」


「やはりそう見える?」


「見える。だが、君はその物語を内側から汚せる」


「汚す?」


「正確にする、と言い換えてもいい」


星舟は少し笑った。


「君も言葉が悪くなった」


「君の悪影響だ」


大迫も新聞を読んでいた。


「陳」


「はい」


「これから君の言葉は、君だけのものではなくなる」


「分かっています」


「分かっていない。だから何度も言う。使われるな。使わせろ」


「南雲学長にも同じことを言われました」


「なら二度聞けてよかったな」


大迫は新聞を畳んだ。


「そして、帰ってこい。私に事故報告書を書かせるな」


星舟は深く頷いた。


「はい」


三月、最終訓練が始まった。


瑞鳥一号の実機に近い訓練機材が導入され、三人一組での手順確認が増えた。


九鬼、葉、星舟。


三人は、少しずつ一つの乗組員になっていった。


九鬼は船長として決断する。

葉は身体と生命維持を見る。

星舟は帰還と航法を見る。


役割は明確だった。


だが、宇宙船の中で役割は壁ではない。

互いの領域を知らなければ、誰かが倒れた時に船が死ぬ。


九鬼は星舟に操縦系の基礎を叩き込んだ。


「君は操縦士ではない。だが、私が気絶したら姿勢を維持しろ」


「不吉な訓練ですね」


「不吉を先にやるのが訓練だ」


葉は二人に医学自己診断を教えた。


「自分の異常を恥ずかしがらないでください。船内で体調不良を隠す人間は、敵です」


九鬼が言った。


「敵か」


「敵です」


星舟は素直に頷いた。


葉は星舟に言った。


「あなたは自分の精神状態も報告してください」


「しています」


「便箋の有無で郵便箱を見る回数が増える状態も、精神状態です」


星舟はむせた。


九鬼が笑いをこらえきれなかった。


「葉さん」


「冗談です」


「本当に?」


「半分は」


星舟は顔を覆った。


三人の間に、そういう会話ができる程度の信頼が生まれていた。


その信頼が、宇宙船の中でどれほど重要か、星舟は分かっていた。


信頼とは、感情ではなく、手順の一部である。

誰が何を見ているか知っていること。

誰が何を言ったら信じるか決めていること。

誰が弱った時に、誰が補うか分かっていること。


そして、誰かが怖いと言った時、笑わずに聞けること。


四月。


打上げ予定日は、五月二十七日と内定した。


赤道は雨季の終わりに近づいていたが、天候はまだ不安定だった。ラトナ・サリは地上支援班で気象評価を担当し、毎日空を見ていた。


「五月二十七日は、まだ分かりません」


彼女は言った。


「長期予測では?」


星舟が聞くと、彼女は首を振った。


「長期予測は、希望を書く欄ではありません」


「いい言葉だね」


「あなたの影響です」


彼女は少し笑った。


アディは海上回収班に入った。


「お前を拾うのは俺だ」


彼は星舟に言った。


「落とさないようにする」


「落ちてこなければ拾えない」


「では、落ちます」


「縁起が悪い」


「帰還と言え」


郭蘭玉は予備搭乗員として、機械系の最終確認に関わった。


彼女はある日、星舟に小さなメモを渡した。


「瑞鳥一号、帰還モジュール内の手動弁。少し硬い。規定内だが、手袋着用時は注意」


「公式記録には?」


「書いた。でも君にも言う」


「ありがとう」


「帰れ」


彼女はそれだけ言って去った。


多くの人が、星舟を送り出す準備をしていた。


それは嬉しくもあり、重くもあった。


飛ぶのは三人。

だが、実際には数えきれない人間が一緒に飛ぶ。


星舟はそのことを、毎日少しずつ理解していった。


打上げ一ヶ月前、搭乗員には遺書の最終確認が求められた。


星舟は机の前で、長い時間白紙を見ていた。


遺書。


書きたくない。


だが、書かない方が不誠実だ。


まず両親へ書いた。


父さん、母さん。

もしこの手紙が読まれているなら、僕は帰ってこられなかったのだと思います。

先に謝ります。

でも、僕は逃げるために行くのではありません。帰ってくるために行きます。

それでも帰れなかったなら、僕の手順か、機械か、組織か、あるいは運が足りなかったのだと思います。

できれば、僕を英雄にしすぎないでください。

僕はただ、星を見たかった子供が、帰還を仕事にしただけです。


そこまで書いて、涙は出なかった。


ただ、手が少し冷たかった。


次に、仕事関係の短い文を書いた。


事故時には、帰還判断ログを必ず公開範囲内で検証してほしい。

船内判断を美談で処理しないでほしい。

蔡明輝の名を、初期安全教育記録から消さないでほしい。


最後に、彼はもう一枚の便箋を前にした。


栖原明依子へ。


書くべきではないかもしれない。


婚約者でもない。

恋人でもない。

正式な関係はない。


だが、もし帰れなかった時、何も残さないのは、もっと不誠実な気がした。


彼は短く書いた。


栖原様


約束した、報告書とは別の言葉を書けなかった場合のために、この一文だけ残します。


私は、地上をもう一度見るために行きました。

もし帰れなかったなら、その言葉を果たせなかったことを、申し訳なく思います。


あなたの便箋は、閉じた部屋の中でも思い出しました。

それは私にとって、帰る理由の一つでした。


陳星舟


書いた後、彼は深く息を吐いた。


これは、遺書として保管される。


帰ってくれば、誰にも読まれない。


帰れなければ、読まれる。


そういう手紙だった。


彼は封をした。


封筒に名前を書いた。


栖原明依子様


その文字を見た時、もう誤魔化せないと思った。


自分は、この人のところへも帰りたいのだ。


恋という言葉を使うには、まだ怖かった。


だが、帰る理由。


それなら言える。


彼女はもう、その一つだった。


打上げ二週間前、搭乗員は隔離準備に入った。


外部接触は制限され、手紙のやり取りも最小限になる。


その直前、明依子から最後の便箋が届いた。


陳様


まもなく隔離期間に入られると伺いました。

これ以後は、お手紙をお送りすることも控えます。


怖い理由を一つずつ減らす。

あなたの言葉を、私も覚えています。


それでも、最後に残る怖さがあるなら、それはきっと人間らしさなのだと思います。

どうか、その怖さごと、帰ってきてください。


栖原明依子


星舟はその便箋を、隔離前に何度も読んだ。


怖さごと、帰ってきてください。


彼女は、怖さを消せとは言わなかった。


それが、星舟には不思議にありがたかった。


隔離区画へ入る前、彼は便箋を引き出しにしまった。


古い切り抜き。

両親の手紙。

明依子の便箋。


そして、封をした遺書。


彼は引き出しを閉じ、鍵をかけた。


九鬼が廊下で待っていた。


「準備は」


「できました」


葉もいた。


「体調は」


「正常です」


「精神状態は」


星舟は少し考えた。


「怖いです」


葉は頷いた。


「正常です」


九鬼は笑った。


「では行くか」


「はい」


三人は隔離区画へ向かった。


赤道の空は晴れていた。


発射塔の先に、白い雲が流れている。


五月二十七日まで、あと十四日。


宇宙は、もう遠い夢ではなかった。


それは日付になり、手順になり、機体番号になり、遺書になり、誰かの祈りになっていた。


星舟は歩きながら思った。


十五年前、上海の少年は、白黒の画面の中の宇宙港を信じた。


十年前、赤道の学生は、泥の中で発射塔を見上げた。


今、統和二年の宇宙士は、もうすぐ本当に空へ行く。


だが、彼が一番強く思っているのは、行くことではなかった。


帰ること。


父母のもとへ。

赤道の仲間のもとへ。

地上の発射塔の灯へ。

そして、まだ名をつけきれない一人の美しい貴族令嬢の言葉のもとへ。


それらを全部抱えたまま、彼は隔離区画の扉をくぐった。


扉が閉まる。


厚い音。


だが、以前ほど怖くはなかった。


閉じた扉の向こうにも、帰る場所があると知っていたからだ。

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