第5話 消し残し

 朝が来た。

 国立コンサートホールの、剥がれかけた天井から、光が入ってきた。封印された建物に光が入る理由は、壁の一部が崩れていたからだ。マリアンヌの歌が崩したのか、もともと崩れていたのか、おれには分からない。

 分からないことが、また増えた。

 単純にそういうことだ。

 マリアンヌはステージの端に座っていた。

 ピアノから離れて、足をぶらぶらさせていた。二十三歳の、足。三年間ケーブルに繋がれていた足が、今、重力に従って、ただぶらぶらしていた。

 おれはそれを見た。

 見ながら、何も思わなかった。

 何も思わなかったのは、初めてだった。マリアンヌを見るとき、おれはいつも何かを思っていた。髪の色。首の角度。走り方。そのたびに「知っている」と「知らない」のあいだで、おれの思考は往復していた。

 今朝は、往復しなかった。

 マリアンヌがぶらぶらさせている足が、ただそこにあった。

 ジャコメッティは外に出ていた。

 静黙官が撤退したかどうかを確認しに行った。「三十分で戻る」と言った。おれとマリアンヌが、ホールの中に残った。

 静寂。

 静黙官が作る静寂ではない静寂。昨夜おれが感じた、音の残骸が冷えていく静寂。それがまだ残っていた。

 あれだけのことが起きた翌朝に、おれたちは静かにそこにいた。静かにいられることの異様さを、おれは一度考えかけた。考えかけて、やめた。異様かどうかを判断するための基準を、おれはもう持っていない。

 マリアンヌが言った。

「おじさん」

「何だ」

「昨日、わたしに何かを渡そうとしてたでしょ」

「渡した」とおれは言った。「ジャコメッティに言われた通りに」

「燃料としてじゃなくて」

「ああ」

 沈黙。

 マリアンヌの足が、ぶらぶらしている。

「渡せた?」とマリアンヌは言った。

 おれは考えた。渡せたか。数億の記憶の温度を、おれの探索針を通じて。返せたか。おれが十年間預かってきたものを。

「分からない」とおれは言った。「お前が歌えたなら、渡せたんじゃないか」

「歌えた」とマリアンヌは言った。「でもそれがおじさんのおかげかどうかは分からない。わたし、弾けば歌えた。三年間、弾けなかっただけで」

 おれは何も言わなかった。

 それは正しいのかもしれなかった。おれは必要なかったかもしれなかった。おれがいなくても、ジャコメッティが別の誰かを連れてきていれば、マリアンヌは歌えたかもしれなかった。

 その可能性を、おれは消去しなかった。

 初めて、消去しなかった。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 ホールの光が、少しずつ動いた。朝の光は動く。おれは毎朝第120階層の窓から「青」を見ていたが、光が動くのを見たのは、いつ以来か分からない。

 マリアンヌが言った。

「おじさんって、誰かを探してるの?」

 おれは答えようとした。

 いや、もう探していない。探す必要がなくなった。マリアンヌを見つけたから。マリアンヌを助けたから。おれの消し残しは——

 おれはその思考を途中で止めた。

 自分で止めた。

 止めて、もう一度考えた。

「マリアという人を」とおれは言った。「探していた。かもしれない」

「かもしれない?」

「確信がない。十年間、確信があると思っていたが、今はない」

 マリアンヌは足をぶらぶらさせたまま、おれを見た。その目が、違う形をしていた。今は透過していない。おれを見ているわけでもない。おれの少し手前を、見ていた。

「マリアって、どんな人だったの?」

 おれは答えようとした。

 窓際に立っていた。髪の色が、黒に近い濃い茶色で——

 おれはそこで止まった。

 髪の色。

 おれはマリアンヌの髪の色を、初めて第150階層で見たとき、「知らない色だ」と言い聞かせた。今、マリアの髪の色を思い出そうとしたとき、おれの中から出てきた色は——

 忘れた、というのとは違う。忘れていない、というのとも違う。ただ、形が変わった。

「どんな人だったか」とおれは繰り返した。「分からなくなってきた」

「分からなくなった?」

「覚えているはずのことが、いくつか、形を変えた」

 マリアンヌはしばらく何も言わなかった。

 足が、ぶらぶらしている。

 それから言った。

「わたしも、覚えてないことがある。三年前に消された記憶。何の記憶かは分からない。消されたから。でも、消される前に何かがあったのは分かる。消されたという事実だけが残ってるから。消した人のことは恨んでない。その人も、言われたからやったんだと思う。でも」

 足が止まった。ぶらぶらが、止まった。

「消される前に、わたしが何を思ってたか。それだけは、知りたかった。ずっと」

 おれは、何も言えなかった。

 喉の奥が、少し詰まった。

 おれは長い時間をかけて、それを聞いていた。

 マリアンヌの消された記憶。三年前。第89階層。

 おれはその事実の周辺を、今朝、意図的に触れないでいた。触れれば何かが崩れる。崩れた先に何があるかを、おれはまだ知らない。知る準備が、できているかどうかも分からない。

 マリアンヌが「知りたかった」と言った。

 その言葉の温度を、おれは測らなかった。測れなかった、のではない。測らなかった。

 マリアンヌが言った。

「おじさんは誰かを探してるって言ったけど」

「ああ」

「探しに行くの?」

 おれは考えた。

 探しに行く。マリアを。十年間探していたはずの。実際には一度も探していなかった。デスクに#4491のファイルを置き、窓の外の「青」を見ていただけだった。

「分からない」とおれは言った。

「分からない、か」

「お前は」とおれは言った。「消された記憶を、探しに行くのか」

 マリアンヌはしばらく何も言わなかった。

 それから、ゆっくりと言った。

「分からない。でも、弾けば分かるかもしれない。弾き続ければ」

 ピアノを見た。埃を被ったままのグランドピアノを。

「音の中に、残ってるかもしれないから」

 ジャコメッティが戻ってきた。

「静黙官は撤退した」と彼は言った。「でも長くはない。移動しなければならない」

「分かった」とおれは言った。

「お前はどうする」とジャコメッティはおれに言った。「局に戻るか」

 おれは考えた。

 局に戻れば、おれは消去者デリーターだ。デリーターを手に、施術室に入り、他人の記憶を引き抜く。業務日誌に時刻を記入する。ノルマ達成証明書を受け取る。デスクに戻り、リストを作り、#4491のファイルを見る。窓の外の「青」を見る。

 それがおれの一日だ。

 それがおれの十年間だった。

「分からない」とおれは言った。

「分からないか」

「おれは、そうだな、今日初めて、分からないんだ」

 ジャコメッティはおれを見た。長い時間、見た。それからマリアンヌを見た。マリアンヌは窓の方を向いていた。崩れた壁から光が入ってくる方を。

 ジャコメッティはポケットに手を入れた。

「行くぞ」とジャコメッティはマリアンヌに言った。

「うん」とマリアンヌは言った。

 二人が歩き出した。

 おれは、その後ろに続いた。

 国立コンサートホールの出口で、マリアンヌが立ち止まった。

 振り返った。

 おれを見た。

「おじさん」

「何だ」

 マリアンヌは何かを言おうとして、やめた。

 やめて、また何かを言おうとした。

 それもやめた。

 最終的に、彼女が言ったのは——

「ちゃんと、自分で探しに行きなよ」

 続きの言葉はなかった。

 都市は、まだそこにあった。

 三人で、ホールを出た。

 外の空気は、第150階層とも第120階層とも違った。おれが知っているどの空気とも違った。

 空が見えた。

「青」だった。

 虚無のスープの色ではなかった。後悔を均質化した色ではなかった。ただの、朝の空の色だった。おれが、いつから見ていなかったのか分からない、ただの空の色。

 おれはその空を、しばらく見た。

 マリアンヌとジャコメッティが、先を歩いていた。

 おれは歩き出した。

 マリアンヌとジャコメッティの背中が、前にある。

 おれは歩きながら、自分が何をしているのかを考えた。局に戻るわけでもない。マリアを探しに行くわけでもない。ただ、この二人の後ろを歩いている。理由は分からない。理由を探したが、見つからなかった。

 それでも歩いている。

 背骨の第四椎と第五椎のあいだが、「キュ」と鳴った。

 おれは止まらなかった。

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