三白眼

小林馨

三白眼

 私の心を酷く掻き乱す少年のあった事を、部屋の整理中目の前に現れた日記帖に挿まれていた古い写真に、思い起こさせられた。

 幼い頃、愛読していた雑誌の挿絵で見た華宵の少年少女の様な、酔った様な三白眼をした少年だった。彼が何処を見、何を思っているのか、推し量る事が出来なかった。自意識過剰で多感な時期にある少年の私の目には、彼のその表情はある種異常に映った。

 しかし、煙草の臭いと退廃に塗れた学寮での生活で、未だ骨の発達を十分に遂げておらぬ彼は、取り分け上級の男達に気に入られていた。私はそれを知った時、彼に強い嫌悪と、同時に劇しい憧憬を懐いた。この古い写真を手に取り眺めた時、そのアンビヴァレントな感情をまざまざと喚想したのだ。

 同年の私と彼は、互いに顔は知っていたが、言葉を交わす事は殆どなかった。否、私と彼の間だけではない、彼と他の生徒達とは、言葉という交情の手段を使わない間柄であった。だが、彼は嫌われていたのではない。多くの少年達が、私が彼に対して憧憬の念を懐いたと同様に、或いは賛美し、或いは畏怖して近寄れなかったというだけの事であった。

 彼は部屋に籠もって常に読書をしている様な少年だったが、その白い肌を太陽の下に曝しておく事は、嫌いではないらしかった。少し大きめの服から惜し気も無く大腿筋の浮いた足を出だして、一人徒競争の練習をしている姿を、私は幾度か見かけた。朝露の様に玉の形をした細かい汗を浮かせて彼が部屋へ戻ってくるのを、私は細心の注意を払いながら盗み見たものだった。周りに女の匂いの全くしない生活の中で、唯一慰みとなるものと言えば、こっそりと持ち込んだ如何わしい雑誌だったり、彼の様に成長の過渡期にある少年を眺める事だったり、それくらいしかなかったのだ。

 ある日、彼が酷く魘された夜があった。

 私達が寝る部屋は六人部屋で、しかしその夜、私以外の四人は彼の呻きに気付く事無く、鼾をかいて眠り込んでいた。仕方なく、彼の様子を見に私は起きた。


「大丈夫か。」


 覗き込むと、彼は例の三白眼を大きく見開き、そして私の顔を暫くの間凝視していた。暗闇に浮かんだ彼の白目が、私を見ている。その何かに憑かれた様な表情は、私を怯えさせた。


「魘されていたから。……」


 恐る恐る私が囁くと、彼は突然身体を起こして、私の腕に縋り付いた。


「水。」


 掠れた咽喉でそう言ったのが、辛うじて聞こえた。私は彼を廊下に連れ出した。

 月の幽かな光が廊下の窓から零れていた。それに晒された彼の頬が、奇妙な程蒼白に見えた。地下から忍び出てきた、幽鬼の類かと思われる程、彼の顔は生気を感じさせなかった。

 彼が水を頭に浴びるのを、私はずっと眺めていた。短く切られた黒い髪が濡れて、彼の頭蓋骨の形をはっきりと私に見せ付けた。綺麗な曲線を描いていた。


「有難う。」


 三白眼で私を見詰め、滴る水はその儘に、彼がそう言った。夜着にぼたぼたと落ちる滴が、私は気になって仕方が無かった。羽織っていた薄手の上着を脱いで彼の冷たい頭に乱暴に被せ、まるで洗った犬を拭く様に、私は水を拭った。その上着の下に覗く彼の三白眼が、その時程秋波を送っている様に艶かしく見えた事は、なかった。彼は、薄い唇に突然笑みを浮かべ、私を射殺すような目つきをした。「御節介。」小さな声で、そう囁かれた。


 その夜交わした言葉以外、私は彼と話した事はない。しかし、彼はことある毎に私に酷く妖しい笑みを送るようになった。あの、殺気をも含んだ様な、三白眼によって。彼の心の内を覗いて見たいと願った事は幾度もあったが、終ぞ叶わなかった。彼を目にする度、私は華宵の描く少年少女を思い浮かべた。屹度、彼は何も考えていないに違いない。丁度、絵画の人物が、どんなに表情豊かに描かれたとしても、紙と絵具で作り上げられた虚像でしかないのと、同じ様に。それだのに、彼の三白眼は、私の心を大いに乱した。……

 彼の三白眼に晒される日々は、私達が卒業する日まで続いた。


 彼がその後どの様な生活を送ったのか、私は詳しい事は知らない。時折街で彼の姿を見かける事はあったが、その時彼の三白眼は、私を見ようとはしなかった。ある日、突然彼が自殺したという事を知らされた。一種の悔恨を心に思い浮かべた。彼の心を絵画に見立てた私は、彼の内面を理解しようとしなかった。あの瞳に籠められていた彼の心情を私が理解する前に、彼はその三白眼を永遠に閉じてしまった。しかし私に何が出来たと言うのだろう。彼の、あの瞳を恐れていた私に。


 私は斯うして歳をとった。しかし、私の記憶にある彼は今でも骨が未発達の青白い少年の姿の儘、心をざわめかせる様なあの三白眼で、私を見詰めている。それはこの古い写真も、同様であった。

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三白眼 小林馨 @kobayashi_kaoru

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