世を乱す蝶乱

黒木蓮

第一章 理を人倫で諭す

第一話

臨月が近づいている。

大きく膨らんだ自らの腹部に手を這わせると、寝巻きの上から若い娘は、ゆっくりと撫でた。

十五歳で嫁いで二年。夫婦となって、ようやく子宝に恵まれる、その手前まで来ている。

無事に生まれるかという不安よりも、早く孫が見たい、子供を早くと急かす重圧が重くのしかかっていたため、身重ではあるが、心は少し軽くなっていた。

腹の内側を胎児が蹴ると、己の中にある生命の鼓動が感じられる。

自然と口元に笑みが滲んだ。

つわりが酷い。苦しさに、ご飯もろくに食べられず、窶れてきた、と夫に心配されてしまった。

しかし、無理に食べると戻しそうで、謝ることしか出来なかった。

泣きながら謝罪すると、気にしなくてもよい、と気遣う夫は少し頼りないが、優しい。

これから、良い夫婦になり、生まれてくる赤子を一緒に育てられるだろうと、安堵した。

カタ、と物音が聞こえる。

畑仕事を終えて、夫が帰ってきたのだろうか。

無理をして出迎えなくてもよい、と言われていたため、腹部を撫で続け、夫の「只今、帰ったぞ」という声を待つが、一向に聞こえない。

厠にでも行ったのだろうか、と気にしないでいると、白蓮のような爽やかさの中に、甘さを含んだ、親しみのない香りが鼻を擽った。

瞬きを一つすると、目の前に、いるはずのない見知らぬ青年が、女の顔を覗き込むように立っていた。


「こんにちは、お嬢さん」


品のある、優しげな低い声だ。

田舎育ちで「お嬢さん」など、今まで呼ばれたことがない。相手は見ず知らずの得体の知れぬ男だが、思わず頬が赤くなる。

腰まである長い髪を結わず、肩で垂らしている。

絹のように細く、滑らかな黒髪だ。男でありながら、艶やかな色気があった。


「……どなたですか……」


青年の頭に生えている、角のようなものが気になり、娘はようやく問いかけの言葉を、恐る恐る口にした。

「誰でもいいじゃないか。それよりも、お嬢さんにお願いがあるんだ」

青年は答えず、微笑みを浮かべた。

優しい声音で声をかけるが、会話をしようとはしていない。一方的だった。

柔らかな印象を与えるが、眼の奥には笑みがなく、暗い闇が広がっていた。


「人間は弱く、脆い。そして、自覚のない悪だ」


歌うような美しい声が奏でるのは、恐ろしい理想である。

夢見心地だったが、この青年は危険だと本能が悟る。逃げ出そうとするも、腰が砕けて動けない。

這うようにして、家の外へ向かう。だが、青年は逃がすつもりはなかった。

青年の目が赤々と輝くと、娘の動きが止まった。

ぐん、と見えない力が作用し、仰向けになる。

寝巻きがはだけ、胎児の入った腹部が剥き出しになる。


『―――!!』


恐ろしくて目を見開くと、言葉にならない声が、娘から発せられる。

呪いの文字が、浮かび上がる。

何かが入ってくる。

おぞましい何かが、腹の中で渦巻き、胎児を包み込んでいる。

その時、ビクンッと、小さな心音が脈打った。

母が苦しんでいる、と胎児は察したのか、自ら外へ出ようとする。

自分がここにいるから、母親が苦しんでいると、守ろうとした。

内側へ呪力が吸収され、人間の皮を被りつつ、静かに兆しを見せ、母体を守ろうと抵抗を始めた。


「……お前は、とても優しい子だね。どんな鬼になるか、楽しみだ」


青年は楽しげに、余裕の笑みを浮かべると、躊躇いもなく呪いを完成させる。

生まれる前の赤子を黙らせるなど、容易い事だ。

呪いの膜で包み込み、異様な雰囲気が息を潜めると、白蓮の香りは消え、日常の匂いへと戻った。


「……あら、いつの間にか、寝てしまっていたのね」


娘は目を覚ますと、欠伸を一つ洩らした。

そして、何事もなかったかのように、愛おしげに腹部を撫でた。

愛しい我が子が無事に生まれるのを、家族全員で待ちわびた。

玉のように元気な男の子が生まれ、その子が、定められた運命を変える、一つの希望であると、まだ誰も知らない。


―――それから、数年の月日が流れる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る