『海が支配する世界にオッサン転生〜元水族館飼育員、サメの力で海を旅する〜』
愛のチカラ
第1話 『ジン』
雨が降っていた。
地方都市の外れにある小さな水族館。
閉館時間を過ぎた館内は静かで、水槽のライトだけが青く揺れている。
「……ったく」
男はバケツを床に置き、肩を回した。
四十五歳。
独身。
地方水族館勤務。
肩書だけ聞けば聞こえはいいが、現実はかなり地味だ。
給料は安い。
人手も少ない。
客も減る一方。
最近では「閉館するらしい」なんて噂まで流れている。
「お前んとこ、潰れるんじゃね?」
昔の同級生に笑われた事もあった。
……まぁ、否定はできなかった。
男――
「今日も1日 お疲れさん」
目の前の巨大水槽を見上げる。
薄暗い青の中を、巨大な影がゆっくり泳いでいた。
ジンベイザメ。
この水族館の目玉。
十年以上世話をしてきた相棒みたいな存在だ。
「今日は客少なかったなぁ、ジン」
巨大な身体がゆっくりこちらを向く。
口を開けながら、のんびり泳ぐ姿は昔から変わらない。
だが最近、気になる事があった。
餌の食いが悪い。
泳ぐ速度も落ちている。
年齢を考えれば当然だ。
飼育員として分かっている。
分かっているが――。
「……長生きしろよ」
ぽつりと呟いた。
その時。
水槽の向こうで、ジンの動きが止まった。
「……?」
洋平の顔から笑みが消える。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
巨大な身体が沈んでいく。
「おい……?」
嫌な汗が背中を伝う。
「ジン?」
洋平は駆け出していた。
バックヤードを抜け、スタッフ用通路を走る。
水槽脇。
青い光。
底に横たわる巨大な影。
動かない。
「…………」
仁はしばらく立ち尽くしていた。
何も言えなかった。
言葉にすると、本当に終わってしまいそうで。
館内放送だけが虚しく響いている。
『本日の営業は終了いたしました――』
その声が、やけに遠かった。
◆
外に出ると、雨はさらに強くなっていた。
傘を差す気にもなれない。
濡れたアスファルト。
赤信号。
車のライトが滲んで見える。
洋平はぼんやり空を見上げた。
「……海、帰りたかったのかな」
自分でも、何を言ってるのか分からなかった。
水族館育ちのジンベイザメだ。
海なんて知らない。
それでも。
巨大水槽を泳ぐあいつを見ていると、時々思ったのだ。
もっと広い海を、泳ぎたかったんじゃないかと。
信号が赤から青に変わる。
だが洋平は動かなかった。
頭の中に浮かぶのは、青い水槽と、最後に見た巨大な影。
――ブオオオオオッ!!
突然、クラクションが響いた。
「……え?」
視界いっぱいに、眩しいライト。
大型トラック。
雨でスリップした車体が、真っ直ぐこちらへ突っ込んでくる。
避けられない。
そう理解した瞬間。
何故か、
「……なんだよ」
脳裏に浮かぶのは、巨大なジンベイザメ。
のんびり泳ぐ姿。
「最後まで、手のかかる奴だなぁ……」
衝撃。
視界が白く弾けた。
◆
波の音が聞こえた。
遠くで揺れているような、静かな音だった。
身体が重い。
いや、違う。
上手く動かせない。
意識だけが妙にハッキリしているのに、視界はぼやけていて、白い光と揺れる影しか見えなかった。
(……なんだこれ)
声を出そうとしてみる。
だが口から漏れたのは、
「あー」
という間抜けな音だけだった。
(は?)
思わず混乱する。
喉の感覚がおかしい。
手足も妙に短く、力が入らない。
まるで、自分の身体じゃないみたいだった。
(……いや、待て)
嫌な予感が胸をよぎる。
小さい。
身体が、異常に小さい。
抱き上げられた瞬間、視界がぐらりと揺れた。
ふわりと潮の匂いが鼻をくすぐる。
女の人だ。
若い声。
「よーし、ジンちゃん。ご飯ですよー」
(……ジン?)
その名前に、ぼやけた意識がわずかに反応する。
小さい身体。
喋れない声。
ぼやける視界。
現実感のない感覚。
(……え?)
頭の奥がじわりと熱くなる。
(まさかオレ……転生したのか?)
だが、はっきり考えようとしても意識がまとまらない。
赤ん坊の身体に引っ張られるように、思考がぼやけていく。
「ほらほら、ちゃんと飲みなー、ジンちゃん」
その名前を聞いた瞬間。
青い水槽が脳裏に浮かんだ。
ゆっくり泳ぐ巨大な影。
白い斑点を背負った、大きなジンベイザメ。
(……アイツと同じ名前か)
不思議と、少しだけ安心した。
温かい腕の中は心地よく、強烈な眠気がゆっくり意識を沈めていく。
(ダメだ……眠……)
波の音だけを残して、意識は静かに落ちていった。
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