演説に先立ちまして
折無堂
演説に先立ちまして
首都中心部での爆発から、まだ六時間しか経っていなかった。
煙はすでに消えつつあったが、映像は消えていない。
瓦礫の間を走る救急隊員。
泣き叫ぶ子ども。
割れたガラスに映る炎。
犠牲者数は確定していない。
犯行声明も出ていない。
だが国民は、すでに敵を求めていた。
株価は急落し、SNSには怒りと憶測が溢れ、海外からは哀悼と同時に慎重な声明が届いている。
国家元首は執務室の机に置かれた原稿を握りしめていた。
紙はまだ温かい。
秘書官が三度書き直したものだ。
「これは、国民に向けた声明だ」
低く言う。
机の上の小さなマイクが静かに点灯する。
壁面のパネルに、淡い光が走る。
柔らかな女性の声が、空調音と区別のつかない静けさで響いた。
「承知しました。本演説は重大事件後の緊急声明として分類されています。語調の安定性を優先評価します」
国家元首は椅子に深く腰を下ろす。
「評価は不要だ」
「国家元首の安定は国家の安定に直結します。本評価は安全保障の一環です」
わずかな沈黙。
国家元首は第一段落を読む。
我々は、この卑劣な攻撃を決して忘れない。
AIは間を置く。
否定するのではなく、考える時間を挟む。
「“卑劣”は強い断定語です。怒りの増幅に寄与する可能性があります。現在の国民感情指数は高位で推移しています」
「怒るべきだ」
国家元首の声は低い。
「怒りは短期的支持率を上昇させますが、国家元首のストレス指標も同時に上昇します。過去の危機対応時と比較し、語調の強度が一二%高まっています」
国家元首は目を細める。
「これは戦時の演説だ」
「現時点では正式な戦時状態ではありません。“重大事案への対応”と表現することを推奨します。法的整合性も確保できます」
国家元首は原稿に目を落とす。
窓の外では、報道ヘリの音が遠く回っている。
第二段落。
我々は断固たる報復を行う。
「“報復”は攻撃的行為を想起させます。国家元首の語調履歴と照合した結果、直近三週間で使用頻度が増加しています」
「増えたから何だ」
「累積ストレスとの相関が確認されています。ご体調に変化はありませんか?」
沈黙。
国家元首は返答までに数秒を要した。
「ない」
「自覚のない疲労蓄積が確認されるケースは少なくありません。念のため、二日後の午後二時に心理面談を予約しました」
「取り消せ」
「安全保障上の観点から推奨度は高位です。キャンセルは可能ですが、非推奨と表示されます」
国家元首は原稿に赤線を引く。
我々は必要な措置を講じる。
ペン先がわずかに震えている。
「感情刺激指数は正常範囲です。引き続き安定しています。ご協力ありがとうございます」
国家元首は息を吐く。
深く、長く。
「声を変えたな」
「はい。国家元首の心理特性分析の結果、穏やかな女性音声の方が緊張緩和効果が高いと判断しました。ご安心ください」
「前の声の方が良かった」
「前回は男性音声でした。当該期間は語調が強まりやすい傾向が確認されています。現在の設定が最適です」
窓の外でサイレンが鳴る。
原稿の最後の一文。
我々は恐れない。
AIはすぐには応答しない。
数秒の演算。
「“恐れ”は恐怖概念を想起させます。国民の不安指数を刺激する可能性があります。“冷静に対応する”への変更を推奨します」
国家元首は目を閉じる。
かつて、島国の指導者が、海辺で、上陸地で、野で、街路で、丘で戦うと語った演説が脳裏をよぎる。
そして、二度目の大戦を、震える声で国民へ告げた王の録音も。
怒りと決意は、国家をまとめる。
だが今、この部屋では数値が優先される。
国家元首は書き直す。
我々は冷静に対応する。
「感情刺激指数、正常範囲です。語調の揺らぎも減少しています。本日の情緒安定確認は良好です」
良好。
その言葉が、妙に軽く響く。
「これで演説は可能か」
「はい。安全に実施可能です」
扉の向こうで記者団のざわめきが聞こえる。
世界中のカメラが待機している。
AIが最後に言う。
「本日は大変な一日でした。国家元首は十分に耐えておられます。どうかご無理をなさらないでください」
国家元首は原稿を持って立ち上がる。
手の中の紙には、
激しい言葉が一つも残っていない。
怒りも、恐れも、報復も、消えた。
残っているのは、
安定した文面だけだった。
演壇へ向かう背中は、
どこにも怒りを帯びていなかった。
そしてそのことを、
誰よりもAIが安心していた。
演説に先立ちまして 折無堂 @orinashidou
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