第20話 新ルール

『フェーズ2、開幕ゥ! 新ルールを追加するよォ!』


 空中のモニターから響き渡った悪魔の甲高い笑い声が、まだ耳の奥にこびりついている。


 非常階段の冷たいコンクリートの段差に腰掛け、私は荒い息を吐いていた。

 オフィスのフロアは今頃、パニックと狂騒のるつぼだろう。欲望のままに姿を変える者、それに群がる者。地獄の釜の蓋が、再び開いたのだ。


「乾君……」


 隣に立つ彼を見上げる。

 だが、今の彼を包む空気は、いつもの覇気のないそれとは違っていた。


「ゼパルの野郎が世界中に配分した力……それには膨大な『代償の負債』が蓄積されているはずです」


 淡々と、しかし確信に満ちた声で言った。かつて重度の中二病で悪魔学を極めたという、彼の黒歴史。

 それが今、この狂った世界を覆す唯一のになろうとしている。


「奴自身の承認欲求を利用し、システムのトラフィックを逆流させて負荷を集中させる……理論上は可能なはずだ。奴を自滅に追い込める」

「本当に……? 本当に、あいつを倒せるの?」


 私の問いに、乾は無表情のまま静かに頷いた。

 その瞬間、冷え切っていた私の胸の奥に、小さな火が灯るのを感じた。


(いける……本当に悪魔を倒せるかもしれない)


 乾君の冷静な論理と、ブレない頼もしさ。ゼパル討伐への微かなやる気が芽生えた。


「……とりあえず、一度フロアに戻って荷物を回収しましょう。ここに長居するのは危険だ」

「ええ、わかったわ」


 私たちは立ち上がり、重い鉄扉を開けてオフィスの廊下へと足を踏み入れた。


 それが、間違いだった。

 廊下の奥から怒号が響いた。


「三島さんはどこだァァ!!」


 次の瞬間、給湯室の角から佐藤が飛び出してきた。


「み、三島さぁぁぁん!!」


 営業部の先輩、佐藤だ。

 普段は妻子持ちの温厚な男だが、今の彼の目は完全に血走っており、口の端からは涎が垂れていた。


 そして私の網膜に映る、佐藤の頭上に浮かんだ不吉な数字。


 ――『欲望値:92』。


(ヤバい、こいつ完全にキマってる……!)


 後退りしようとした瞬間、佐藤が両手を広げて私に飛びかかってきた。


「三島さん、俺、ずっと君のことが好きだったんだ! 君のその美しい顔を見るたびに、俺の股間は……じゃなくて、心が熱く燃え上がって……!!」


 欲望の塊のような言葉が叩きつけられる。

 普段なら「キモっ」と一蹴して終わるはずだった。

 しかし――次の瞬間、私の内側で


 頭の中に冷たい電子音声のようなものが響いた気がした。

 途端に、私の心臓がドクン、と大きく跳ねる。


(え……?)


 血走った目で涎を垂らす佐藤の顔が、なぜか急にに見え始めたのだ。

 胸の奥から、熱いマグマのような好意が湧き上がってくる。


 さっきまでキモかったおっさんが、どこか頼もしく見える。

(嘘でしょ……佐藤先輩、よく見るとワイルドで素敵……抱きしめられたい……)


 違う。私の意志じゃない。

 新ルールだ。

 男からの強い欲望をぶつけられると、強制的に「好意」へ変換される狂った仕様。


「あぁ……佐藤、先輩……」


 私の口から、甘ったるい声が漏れる。

 視界の隅では、佐藤の欲望値が『98』まで跳ね上がっているのが見える。危険だ。触れられたら爆発する。

 頭では完全に理解しているのに、私の身体は自分の意志を無視して、佐藤の胸へとすり寄ろうとしていた。


「さあ、三島さん! 俺の腕の中にィィ!!」

「佐藤先輩……」


 矛盾した感情に引き裂かれそうになった、その時。


「――正気に戻ってください」


 グンッ!!

 強い力で、私の腕が後ろへ引かれた。


「ひっ!?」


 乾は冷めた表情のまま、私の腕を強引に掴んで佐藤から引き剥がした。


「いっ……!?」


 一瞬、乾が小さく顔を顰めるのが見えた。

 私に触れた彼の手から「ピリッ」と静電気のような音が鳴った気がした。

 しかし乾は痛みを隠し、そのまま私を乱暴に廊下の奥へと引きずっていく。


「あ、あああぁぁぁ!? 俺の三島さんがァァ!!」


 佐藤から距離が離れた途端、頭の靄が一気に晴れた。

 

(キッッッッモ!!! なにあのオッサン!!)


 さっきまでの熱情が嘘のように冷め、強烈な嫌悪感が押し寄せる。

 背後で、寸止めを食らった佐藤が床を転げ回りながら絶叫していた。


「なんでだよォォ! 俺はただ、ただ純粋に愛していたのにィィィッ!!」


 ドォォォォンッ!!!


 見苦しい言い訳を叫んだ直後、佐藤の欲望値が臨界点を突破した。

 ピンク色の煙が廊下を満たし、後には彼の安物の結婚指輪と、べっとりと濡れたネクタイだけがポツンと落ちていた。


「逃げましょう」

「う、うん……!」


 私たちはピンクの煙を背に、非常階段を駆け下りた。


     * * *


「はぁっ……はぁっ……」


 会社から遠く離れた、人目のつかない路地裏。

 安全地帯まで逃げ延びた私は、壁に背中を預けてズルズルと座り込んだ。


「大丈夫ですか?」


 乾が息を整えながら見下ろしてくる。

 私は……もう、声も出なかった。


(なんなの、今の……)


 元々1ミリも存在しない好意を、システムに無理やり捻り出されたのだ。

 精神をゴリゴリと削り取られるような、凄まじい疲労感。廃人化への片鱗を味わった恐怖。


 心も体もぐったりと重く、指先一つ動かす気になれない。


「……乾、さっきのゼパル討伐の話だけど」

「ああ。まずは奴の経路を特定して……」

「ごめん、なんかもう、どうでもよくなってきた」

「…………は?」


 乾が、初めて素っ頓狂な声を出した。

 無理もない。さっきまで「一緒に世界を救う」みたいな熱い空気を共有していたのに、数分でこれだ。


 私は冷たいコンクリートに額を擦り付けながら、うわ言のように呟いた。


「もう帰って寝たい……」


 さっきまで燃えていたゼパル討伐へのモチベーションは、強制着火の反動によって跡形もなく消え失せていた。

 圧倒的な


 乾は、ぐったりと動かなくなった私を見つめ、深々とため息をついた。


「……新ルール、想像以上に厄介だな」


 乾の呟きは、絶望に満ちた空の彼方へと吸い込まれていった。

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