第12話 祈りをこの手に


 雨の中を、三人で駆を担いで帰った。


 潤が右肩を支え、梓が左腕を抱え、歩が後ろから背中を押した。血と泥と雨水が混ざって、三人の服はとうに乾く場所がなかった。街灯の下を通るたびに駆の顔色が見えた。灰色のままだった。唇の端の紫は、雨に滲んで、しかし消えなかった。


 日向家に着いた頃には、もう深夜を回っていた。


 玄関の引き戸を開けると、誠一郎が廊下に立っていた。何も言わなかった。三人の顔と、その間で意識のない駆の顔を一度だけ見て、無言でリビングのソファへの道を開けた。


 駆を横たえる。誠一郎が押し入れから毛布を出してくる。台所でやかんが鳴り始める。それだけのことが、今夜はひどく遠かった。


 潤が床にへたり込んだ。梓が壁にもたれた。歩は駆の脇に膝をついたまま、しばらく動かなかった。三人とも、口を開かなかった。


 リビングがいつもより広く感じた。


 穂乃果の席が、空っぽだった。



 翌朝、駆は目を覚まさなかった。


 脈はある。呼吸もある。ただ眠っている。しかし胸の皮膚の下を走る黒い筋は、昨夜より少しだけ広がっていた。瘴気が、まだ内側で動いている。


 潤がアーマーの修復を始めようとして、手が止まった。工具を持ったまま、うつむいた。


「私たちは……何のために戦ってきたのだろうか」


 誰に問いかけているのか、分からなかった。自分自身かもしれなかった。


「天界の規律が『地上の消去』だというなら、私たちの信じた正義とは、いったい何だったのか」


 梓がソファの端に座って、駆の顔を見ていた。


「もう、戦えないわよ」


 声が、かすれていた。


「あんな圧倒的な力の前に、私たちがやってきたことなんて……ただの、子供の真似事だったのよ。日向家の日常を守るって言いながら、結局全部壊れた。穂乃果ちゃんも連れ去られた。駆も倒れた。私たちに、何が残ってるの」


 誰も答えなかった。


 歩は窓際に立って、外を見ていた。昨夜の雨はもう上がっている。街が濡れたアスファルトを乾かしながら、何事もなかったように朝を始めていた。それが、どこか腹立たしかった。世界はこんなに普通に動いているのに、この家の中だけ、時間が止まっている。


 誠一郎が台所から声をかけた。


「飯、できたぞ」


 三人は動かなかった。


「食え」と誠一郎は繰り返した。「話はそれからだ」



 味噌汁の湯気が、テーブルの上に立っていた。


 三人は椅子に座った。食べる気はなかった。それでも、誠一郎が黙って茶碗を置いていくから、なんとなく箸を持った。一口食べた。温かかった。それだけのことで、梓の目に、じわりと熱いものが滲んだ。


 誠一郎は自分の向かいに座って、静かに飯を食っていた。詮索しなかった。説教もしなかった。ただ食っていた。


 しばらくして、誠一郎が席を立った。


 戻ってきたとき、その手に一冊のノートがあった。古びた表紙。色が褪せて、角が丸くなっている。しかし丁寧に、変色を防ぐように保管されてきたことは分かった。


「駆が目を覚ましたら、本人に渡すつもりだったものだ。」

 誠一郎はノートをテーブルに置いた。

「だが、お前たちにも読む資格がある。今のお前たちには、特に」


 三人は顔を見合わせた。

「駆の母親、先代のルシファーが遺したものだ」



 潤が最初のページを開いた。


 文字は小さく、丁寧で、しかし所々にじんでいた。急いで書いたのか、あるいは泣きながら書いたのか、どちらか分からなかった。


 潤が最初のページを開いた。

 文字は小さく、丁寧で、しかし所々にじんでいた。急いで書いたのか、あるいは泣きながら書いたのか、どちらか分からなかった。

 読み始めて、しばらくして、潤の手が止まった。


 そこに書かれていたのは、一族の話だった。

 天界で何千年もの間、「生まれながらの裏切り者」と呼ばれ続けた血族の話だった。どれだけ天界に尽くしても、正しくあろうとしても、血筋を理由に冷遇され、追われ、暗殺され続けてきた人々の話。それでも誰一人、生まれた世界を呪わなかった。ルシファーの系譜。その誰一人として、恨みを次の世代に渡さなかった。


「私は、破壊のための技術ではなく、天使と対話するため、このライザーシステムを作ってきた。エンジェリックアーマーは「天使の意思の表れ」であり、アーマー型となったのは完全に偶然の産物でした。

でもこのシステムは天界で兵器利用されようとしている。それは平和への道を閉ざすことになりかねない、だから唯一完成していたこの試作型エンジェライザーとルシファーのアクセスカードを持って地上へ下りました。」


 潤の喉が、わずかに動いた。


「私はそこで誠一郎さんと出会い、恋をした。地上での日々は穏やかで、優しくて、楽しかった。」

 梓がページを繰った。


「やがて私たちは結ばれ、駆が生まれた。でもこの日々も、もう長くは続かないでしょう。」

歩が横から覗き込んだ。


「私を排除しようとする天界、ルシファーの力を狙う魔界、その両方の追手と人知れず戦い続けた。

 天界人は瘴気への耐性を持たない、もう私の体のほとんどは蝕まれてしまった。でも私のやったことはきっと間違っていない、誠一郎さんを、駆を、守り通して逝けるのだから。」


三人とも、黙ったまま読んだ。


 手記の中盤に、一段落だけ、他より少し文字が乱れているところがあった。


「私たちはいつも居場所を追われてきた。けれど、決して世界を呪ってはいけない。私たちは、いつか両者が剣を収め、笑顔で対話できる日のために、平和への祈りを紡いできたのだから。

いつか、この祈りを繋いでくれる誰かへ──」


 誰かへ、という言葉の後が、空白だった。

 続きを書くつもりだったのか、書けなかったのか、それとも空白のままで十分だと思ったのか。誠一郎だけが知っていることだった。


 梓がノートを閉じた。

 静かに、テーブルの上に置いた。

 潤は俯いたまま、しばらく動かなかった。歩は窓の外を見た。何かを堪えているような顔だった。



「……駆さんは」と歩が言った。動揺を抑えようとする声だった。「地上人と天界人の、ハーフだったのですね」

 真実を受け入れられるものから整理しようとする、歩らしいやり方だった。しかし声は、かすかに震えていた。


「……何千年も、か」

潤はその重みを嚙みしめるようにぼやいた。


 梓が呟いた。声が、朝のリビングに低く広がった。

「私たちが天界で生まれて十六年間、正義だと思って従ってきたものを、何千年もかけて、ずっと──」


 言葉が続かなかった。


 そのとき、廊下から音がした。



 リビングの引き戸が、ゆっくり開いた。


 駆が立っていた。壁に手をついて、まだ足元が定まっていない。顔色はまだ悪かった。胸の辺りを右手で押さえていた。


「駆、もう大丈夫なのか?」

「ああ、ひとまず体に溜まってた瘴気は大方吐き出せたみてえだ」

 それから駆の目が、テーブルの上のノートを見た。


「……それは」

「誠一郎さんが」と歩が言った。「渡してくれました」


 駆は一歩、足を踏み出した。潤が咄嗟に立ち上がって支えようとしたが、駆は手で制した。自分の足で歩いてきて、テーブルの前に立った。ノートに手を置いた。


 ゆっくりと、表紙を撫でた。


 しばらく、誰も言わなかった。


「そうか……そうだったのか」


 駆の声が、かすれた。


 肩が、揺れた。


「くぅ……っ」


 嗚咽が、漏れた。堪えきれなかった。ずっと知らなかった。母さんの血族の話も、平和への祈りも、瘴気に蝕まれながら自分と誠一郎を守り通した最期も、何も知らなかった。知らないまま大きくなった。


 優しい母さんが辛い思いをしていたこと、自分たちを守るため戦い続け、そのせいで瘴気に侵され寿命を大きく削られたこと、それでも自分に思いを託して逝くことに後悔していないこと。自分が託された思いを真に知ったのだ。


「母さん……母さん!!うわあああん!!」


 駆は子供のように泣きじゃくった。


 格好も、強がりも、何もなかった。ただ十七年分が、一気に溢れた。潤が何も言わずに駆の背中に手を当てた。梓が唇を噛んで、目を押さえた。歩はノートの表紙を見つめたまま、こぼれそうになるものを必死に堪えていた。


 しばらく、リビングに駆の泣き声だけがあった。


 誠一郎は台所に立ったまま、こちらを見なかった。見ないことが、今できる一番の気遣いだと知っている人の背中だった。


 やがて、駆の嗚咽が少しずつ静まった。


 目を赤くしたまま、深く息を吸った。ノートに置いた手に、力を込めた。


「……俺の母さんは」と駆は言った。「何千年分の理不尽を背負いながら、一度も世界を呪わなかった。いつか分かり合える日のために祈って、この力を遺してくれた」


 声は掠れていたが、揺れていなかった。


「あいつらのシステムが間違ってるなら、俺たちの手で書き換える。母さんたちのバトンは、俺が繋ぐ。天界も魔界も関係ねえ、俺がこの戦争を終わらせる」


 リビングに、朝の光が差し込んでいた。


 潤が顔を上げた。ずっと俯いていた顔が、上を向いた。目が赤かった。泣いていたのか、昨夜から泣き続けていたのか、それでも今は、その目の中に別の何かが宿っていた。


「お前たちには関係のない話だが、一緒に…


「……そうですね」


 潤の声は、いつもの整った口調に戻っていた。しかしその奥に、天界のエリートとしてではない、もっと別の芯が通っていた。


「データの上書きは、私たちの得意分野です」


 梓が鼻を啜った。らしくない、と自分でも思ったのか、すぐに唇を引き結んで、立ち上がった。

「行って、穂乃果ちゃんを取り戻しましょう」


 歩は何も言わなかった。ただ立ち上がって、エンジェライザーを手に取った。それで十分だった。



 街に、また足音が来た。


 今度は同時にだった。路地の向こうから天界の無人残党兵器が来て、反対側の空から魔界の斥候が降ってきた。二つの勢力が互いを認識しながら衝突しつつ、その勢いのまま日向家へ向かってくる。昨夜の続きだった。世界が、まだ終わっていないと言っている。


 駆が玄関の引き戸を開けた。


 肋骨の下に、まだ瘴気の痛みがある。身体の芯が、燃えるように熱い。それでも、足は動いた。外に出た。路地の風が顔を打った。


 振り返ると、三人がいた。


「行くぞ」


 四人が同時にデバイスを構えた。


 バチバチと赤黒い火花を散らしていたルシファーのアクセスカードが、その瞬間、別の光を帯びた。赤黒ではなく、黄金と漆黒が混ざり合った、眩い光だった。完全な破損から、完全な復活へ。一族の何千年が、今ここに共鳴した。


「ライズ──アップッ!!!!」


 四人の声が、路地に重なった。


 爆炎の中、ルシファー、ウリエル、ケルビム、アテナが並んだ。


 どこからでも来い。俺たちはもう、迷わない。システムの命令でも、天界の規律でも、魔界の論理でもない。自分たちの意志で、大切な人の日常を取り戻すために、この拳を振る。


 押し寄せる両軍の先頭が、四人の前で砕けた。

 戦いが、始まった。



 朝の街に、橙色の爆発が咲いた。


 誠一郎は台所の窓から、それを遠く見ていた。洗い物をしながら、特に慌てるでもなく、ただ見ていた。

 四人の子供が帰ってくれば、飯を用意する。それだけのことだった。それだけでいい。


 テーブルの上に、駆の母親のノートが残っていた。

妻との思い出が駆け巡る。初めて出会った日、初めてデートした日、プロポーズした日。駆が生まれた日、駆の入園を二人で見届けた日ーそして、妻が天へ還っていった日。沢山一緒に笑った、一緒に泣いた、時には喧嘩もした。10年という期間は短かったが、かけがえのない満ち足りた日々だった。

「母さん。思いは、伝わったみたいだよ。」

 誠一郎はそれを手に取って、そっと引き出しにしまった。あの日々に思いを馳せながら。



 夜明けの光が、煙の立ち込めた路地を照らした。

 敵はいなくなっていた。


 駆はルシファーのマスクを開き、空を見上げた。穂乃果が囚われているであろう方角に、禍々しい渦がある。まだ、向こうに繋がっている。


 拳を握った。

「待ってろよ、穂乃果。今すぐ、お前を助けに行く。」

 三人が隣に並んだ。


 四人が一歩を踏み出した。



(第12話・完)

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