第6話 ガラス越しの距離

週末、二人は海沿いにある水族館の前で待ち合わせをすることになっていた。

約束の時間の15分前、現地に到着した誠一は、入り口付近でいつものようにキョロキョロと周囲を見回している杏の姿を見つけた。

誠一は慌てて足早に駆け寄り、少し息を切らせながら声をかけた。

「ま、待った?」

誠一の顔を見た瞬間、杏はパッと表情を明るくしてニコッと笑った。

「ううん、今来たところ」


少し猫背気味に佇む杏を見て、誠一は彼女の背中を後ろからグッと手のひらで押し、ケロッとした調子で言った。

「ほら、背筋伸ばした方が良いよ」

「う、うん……」

杏は少し慌てた様子で身を固くしながらも、言われた通りにピシッと背筋を伸ばした。


その瞬間、ピンと張ったTシャツの上から強調された彼女の胸元が嫌でも目に入り、誠一の心臓がドクリと跳ねた。急に猛烈な気恥ずかしさが襲ってきて、それを誤魔化すように慌てて言い訳を付け足す。

「……その、背筋伸ばした方が健康に良いし」


二人はチケットを買い、館内へと入った。薄暗い空間の中、順番に展示されている色とりどりの魚たちを見て回る。

少し緊張した空気をほぐそうと、誠一は大水槽を泳ぐ群れを指差して、おどけた調子で言った。

「なんかさ、アジとかサバとかタイとか、美味そうな魚ばっかだな」

「ふふ、そうだね」

杏は嬉しそうにニコニコと笑いながら、誠一の隣をトコトコとついて歩いた。

広い館内を歩き回って少し疲れた二人は、水族館に併設されたカフェに寄ることにした。


名物の「アジバーガー」を買い、トレイに乗せて席へと運ぶ途中、誠一はふと思いついたことを口にした。

「さっきまで生きて泳いでるアジを見た後にこれ食べるのって、ちょっと悪趣味かな?」

「そうだね」

杏はクスリと笑い、席につくと嬉しそうにハンバーガーを頬張った。

ふと見ると、バーガーに食らいつく杏の口元に、ちょこんと白いマヨネーズがついているのが目に入った。

(あ、ついてる……)


反射的に、拭ってあげようと手を伸ばしかけた誠一だったが、脳裏にあの日、この公園のベンチで無理やりキスをして彼女を泣かせてしまった時の記憶がフラッシュバックした。

誠一はハッと我に返り、伸ばしかけた手を不自然に引っ込めると、今度は言葉だけで教えるに留めた。

「あ、あのさ……ほっぺにマヨネーズ、ついてるよ」

「えっ?」

杏は少し赤くなって、慌てて手元のナプキンで口元を拭った。

なんだか急にバツが悪くなった誠一は、沈黙を埋めるように、テーブルの上に置いてあった水族館のパンフレットに目を落とした。


「……『世界のカブトムシ展』だって」

特に意味もなく、視界に入った催し物の文字を声に出して読み上げる。すると杏が、不思議そうに聞いてきた。

「カブトムシ、好きなの?」

「そりゃあね。男の子でカブトムシ嫌いな奴なんていないよ」

誠一はまたいつもの調子を取り戻そうと、少年っぽくおどけてみせた。


杏は、カフェの窓から見える、高い展望台を指差した。

「あの展望台で朝日を見たカップルは、ずっと一緒にいられるんだって」

そう言うので、誠一は「どこの情報?」と聞いた。

「少女漫画に出てきたの」

杏が教えてくれる。

「でも、あの展望台のある島へ渡る橋って、夜12時から朝6時までは封鎖されてるだろ。この時期に朝日を見るのは無理かな」

誠一が言うと、杏も「あ、確かにそうだね、無理だね」と答えた。

誠一は少し考えてから、こう続けた。

「……封鎖される前に島に渡って、朝まで時間潰せば見られるかも。朝日」

「えっ? そんなことしたら警察に捕まっちゃうよ」

杏は笑っているが、誠一は少し真剣なトーンになって答えた。

「いつか見られたら良いね」



翌日。誠はノートパソコンを開き、すぐにダイレクトメールの欄を確認した。

だが、あの@kabutomushiからのメールも、昨日自分が送った言い訳がましい返信へのリアクションも、何も届いてはいなかった。

「……まったく。自分の都合だけぶつけてきてさ、こういうやつはいやになるよな」

誠は画面に向かってそう吐き捨てた。勝手に気をもんで、作者自ら必死に作品の解説まで送ってしまった自分のマヌケさが、余計に惨めに思えてくる。


溜息をつきながら、ダイレクトメールではなく、通常の作品への返信欄(コメント欄)に目を移した。そこには、新着を示す通知と共に、一件の短いコメントが残されていた。


『自分の中学時代を思い出し切なくなりました、執筆応援しています』


その一文を目にした瞬間、誠の視界が急に滲んだ。

慌てて瞬きをすると、大粒の涙がポロポロとキーボードの上に落ちた。誠は自分の頬が濡れていることに気づき、ハッとしてそれを手の甲で拭った。

ネットの海の中では、消えてしまいそうなほど小さな、たった一人の声。

だけど、確かに自分を見てくれている人がいる。自分の描いた物語が、誰かの心にちゃんと届いている。

そう思えただけで、冷え切っていた誠の胸の奥に、言葉にならない熱いものが一気に湧き上がってくるのを感じていた。

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