規格の墓碑銘 ―BTRONが葬られた日―

八雲 海

第一章 起動音

※本作はフィクションです。歴史的事実および実在の法律・機関・企業名が登場しますが、登場人物・会話・内部描写・心理描写はすべて著者の創作であり、実在の人物・団体の見解や行動を示すものではありません。


モニターの青白い光だけが、深夜の研究室を照らしていた。


 倉田修二は画面を見つめたまま、冷めたコーヒーに口をつけた。苦みすら感じなかった。


 カーソルが点滅している。その小さな明滅が、まるで心臓の鼓動のように見えた。三年間、この画面と向き合ってきた。バグを潰し、仕様を書き直し、上司に怒鳴られ、予算を削られ、それでも——これは動く。日本語が、本当の意味で「生きる」OSが、ここにある。


 BTRONと名付けられたそのOSは、日本語処理を根本から設計し直したものだった。漢字かな交じり文を扱うために、文字コードの構造から見直す。文書の概念を再定義する。既存のパソコンのOSが「英語圏の思想で作られた道具」だとすれば、BTRONは「日本語で考える人間のための道具」だった。


 倉田はそう信じていた。信じ続けていた。


 来年度から、全国の小学校に導入される。文部省がそう決めた。子供たちが最初に触れるコンピューターが、BTRONになる。十年後、二十年後——この国のエンジニアたちは、BTRONの上で育つ。


 それだけのことが、ここにある。


 廊下の向こうで、電話が鳴った。


 深夜二時に鳴る電話の意味を、倉田はまだ知らなかった。


 受話器を取ったのは、同じフロアに残っていた後輩の林だった。


 「倉田さん」


 呼ばれた瞬間、声のトーンで分かった。良い話ではない。


 「通産省から、だそうです」


 倉田は立ち上がり、受話器を受け取った。林が目を逸らした。それも分かった。


 「倉田です」


 「夜分に失礼します。通産省産業政策局の有村です」


 落ち着いた声だった。怒っているわけでも、慌てているわけでもない。ただ、どこか——遠い。電話口の向こうに、分厚いガラスが一枚あるような感触だった。


 「来週、省にお越しいただけますか。TRON関連の件で、少しお話ししたいことがあります」


 「どのような件でしょうか」


 一瞬の間があった。その一瞬が、全てだった。


 「直接お会いしてから、ということで」


 電話が切れた。


 倉田は受話器を置いて、モニターを見た。カーソルがまだ点滅していた。さっきと同じ速度で、さっきと同じリズムで。何も変わっていないように見えた。


 でも何かが変わった。


 その夜、倉田は一行もコードを書かなかった。





 有村誠一は受話器を置いて、窓の外を見た。


 霞が関の夜景は、いつ見ても同じだった。光の粒が整然と並んで、何かを主張するわけでもなく、ただそこにある。


 机の上に、一枚のレポートが置いてあった。ワシントンからのファクスだ。USTR(アメリカ通商代表部)のレターヘッドが入っている。


 スーパー301条。


 その文字を、有村は三度読んだ。読むたびに、胃の奥が重くなった。


 日本が「不公正貿易国」に指定されれば、制裁関税が発動される。自動車、半導体、そしてコンピューター。交渉のテーブルに乗せられる品目の中に、TRONという名前があった。


 政府が特定規格を教育市場で標準化することは、外国製品の参入を阻む貿易障壁である。


 アメリカ側の論理は、一見すると筋が通っていた。筋が通っているように、意図的に書かれていた。


 有村は煙草に火をつけた。


 倉田という技術者のことは、レポートで読んで知っていた。東大工学部を出て、民間企業を経てTRONプロジェクトに加わった。三十四歳。独身。BTRONの中核開発者のひとりだ。


 優秀な人間だろう、と有村は思った。


 だからこそ、説明しなければならない。何が起きているのかではなく——何が起きようとしているのかを。


 灰皿に煙草を押しつけた。


 窓の外の光は、やはり何も言わなかった。

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