前編

「千羽鶴来さん。あなたは上昇性解離症候群、という病気です。」


目の前の医者が、淡々と告げる。

すぐにこれが夢と気がついたのは、次のセリフが予想できたからだ。

だって俺は、これを経験している。


「世間で言う、浮遊病というやつですね。ご存知ですか?」


返答はできない。夢だからだろうか。

まるで、再生するビデオテープを眺めるような感覚だ。

確か俺は、この時「知らない」と答えた。


「そうですね、簡単に言ってしまえば、空に浮かんでしまう病です。感染などではなく、遺伝子…先天的なものが大きく関係していると考えられています。」


カルテを見ながら話す医者は、男性だっただろうか、女性だっただろうか。

顔すら見えず、声もわからない。

ただ、決められた記憶をなぞる。


「はい、そうですね。死期が近づいたり、未練が薄くなる事で進行していきます。」


俺はこの時、一体何を思ったんだっけ。

悲壮でも絶望でもなく、もっと穏やかな感情。

ただ、それはもう思い出せなかった。


「ですから、緩和治療が主な回復手段です。」


視界がぐらつく…いや、意識が揺らぐ。

夢からまるで引き剥がされるように浮上する。

ふっと、意識が暗転した。



――妙な浮遊感。

感じないはずの風が痛い。

俺は、はるか上空の彼方から落下していた。

無意識に体に力が入る。


……

…………

……………………


ガタンッ


ベッドを蹴り付けた音で目を覚ます。

落下感覚の後味が悪い。


…違う。

ずっとずっと落ち続けているような。

それなのに、どこにも辿り着かない。


体重がかかる感覚も、

シーツに沈み込む感覚も、ない。


視線を下げる。

背中とシーツの隙間に、薄い空気があった。


「うわ、まじか。」


心臓の高鳴りは、きっとワクワクしたからだろう。白い部屋に朝焼けの淡い色が浮かぶ。


シーツを掴もうとする。

無意識に伸ばした手が空振る。

遅れて、体が傾いた。


ボスンッ


ベッドに落ちる。

シーツに皺が寄り、布団の重みが増す。


空気が重く纏わりつく感覚を、窓の隙間から風が攫っていく。カーテンが揺れる。

小鳥の鳴き声が静かな病室に響いた。

気づけば、口角が上がっていた。


「…ははっ、おもしろ。」


先ほどの浮遊感が脳裏にこびりつく。

軽い感覚が心地良い。

部屋を眩しく照らす朝日は、俺の後ろに影を伸ばした。


………………………………………………………


いつの間にか、電子時計は15:00を指していた。

傾き始めた日差しの中、カラカラカラ、と軽い音を立てて扉が開く。


「今日も来たぞ。」


いつもの顔だ。

片手に何か袋を携えた彼は、慣れたように昨日と同じ場所に座る。

俺は少し、体を起こした。


「すげー、時間通りすぎじゃね?」


「お前がルーズなんだろ。」


「んな事ねぇよ、斗鴉(とあ)がキッチリしすぎ。偉すぎ。」


「褒めても菓子とゲームしか出ねぇぞ。」


「出るじゃん、やりぃ。」


斗鴉が、袋から取り出されたポッキーを俺に投げ渡す。

少し身を乗り出すと届いた。

何となく、今日は気分も軽い。


「…鶴来。」


「ん、なに?今更菓子返せって言っても時効だぜー?」


「……なんか今日機嫌よくね?」


「そう?」


「何かあったか?」


「いや、特に……あっ、あったわ。」


ふと思い出し、言葉にする。

斗鴉は、じっと俺を見ていた。

そんなに俺の機嫌が良いのが珍しいか…?と思う。


「今日、夢見たんだ。」


「夢?どんな?」


「んー、いろいろあった夢なんだけど、そうだな……」


どこを切り取るか悩んだのち、決める。

一番印象深かったのは、


「空飛ぶ夢。」


「…………、」


「どっちかっつーと落ちてる夢なんだけど、まあ、悪くなかったかな。」


「…そう、か。」


どこか歯切れの悪い返事が返ってくる。

カーテンが静かに揺れる。

数秒が経った。


「…斗鴉?」


呼びかけると、目が合う。

茜色の瞳が妙に静かだった。

間に耐えきれず、もう一度問いかける。


「どうかした?」


「別に。なんつーか、ガキだな。」


「は?ガキって…」


「空飛んで喜ぶとか、5歳児までだろ。」


「んなことねーし。」


「はいはい、ガキは黙って菓子でも食っとけ。」


むぐっ、と口に詰め込まれたのはチョコ菓子だった。

サクサクしていて甘くて、好きな味。

体を揺らしながら食べる。

自分の表情が柔らかくなるのを感じた。


「流石、俺の好み分かってるじゃん。」


「あたりめーだろ。」


「あ、俺、斗鴉の好きな菓子知らない。」


「俺のが上手ってことだな、どんまい。」


…語尾が笑っている。

煽るような言葉に、少し火がついた。


「いーや、今日中に当ててやる。」


「やってみろよ。」


挑発的な態度。

口角が少し上がった。


「甘いの好きそう。」


「偏見。」


「あ、わかった激辛!」


「お前の中の俺はどうなってんだよ。激辛とか食ったことねぇわ。」


「え〜、まじか。食ってそうなのに。」


「ど偏見だな。」


部屋にチョコの甘い匂いが漂う。

このくらいの空気感が俺は好きだ。

窓は閉めたままで、菓子袋が風で飛ばされることもない。


「わっかんね〜」


「残念だったな、お疲れさん。」


「えっ、ちょっ正解は!?」


「俺、菓子あんま好きじゃない。」


「は、ずるっ。」


「だから今日買ってきたの全部食えよ。」


「おっ、願ったり叶ったり〜」


菓子を取るために立ち上がる。

最近ベッドから出ないからだろうか、それとも身体が軽くなったからだろうか。


足元がふっとぐらついた。


重心を間違えたまま、重力に従って身体が傾いていく。

転ぶ、とも似つかない感覚。

不思議と思考がゆっくりになるのは、走馬灯と似た現象らしいとどこかで聞いた。

すこし、面白い。


抗えず身を委ねていると、腕がグッと掴まれた。

思わず視線を移す。

目線の先には、焦った顔をした斗鴉がいた。

間一髪、転ばずに済む。


「あぶねー、斗鴉ナイスキャッチ!」


「…………っ」


掴まれた腕に熱がこもる。

少し痛い。


「えっと、斗鴉さん?もう離してくんね?」


「………軽っ、」


「え、なんか言った?」


「…別に。急に、転ぶなよ。驚くだろ。」


「はぁー?不可抗力だって、んな理不尽な…」


「………。」


「……………。」


無言の間。

部屋の白さが痛い。

こもった空気がのしかかる。


「…あー、ちょっと疲れたわ。なぁ斗鴉、飲み物買ってきてくんね?」


「…俺はパシリか。」


「でも頼まれてくれるだろ?」


「貸し1な。」


「うっわ、都合良すぎ。」


「断らないだけありがたいと思え。」


「サンキュー。」


コトン、とドアが閉まる音が鳴った。

一人分広くなった部屋にぽつんと漂う。

ベッドに腰掛ける、軋む音はしない。

揺れないカーテンがもどかしく感じた。


カチャ、カラカラカラ

軽い音と共に布が揺れ、膨らむ。

遠い青空の先に、曇天が見えた。色は綺麗とは言えない、それがどことなく美しく思える。


身を乗り出す。

青に手を伸ばす。

届きそうな気がして。


「……あと少し、」


小さく呟いた声は、斗鴉に届いたらしい。

後ろから、ボトン、とペットボトルの落ちる音がする。

ほぼ同時に足裏の感覚が消え、浮遊感が襲う。

窓のサッシから手が離れる。


強風が、吹いた。


グイッと、背後から抱き寄せられる。

斗鴉を下敷きにする形で、二人床に倒れ込む。

舞い込む空気が空のバスケットを落とす。

トサリ、音がした。


斗鴉の荒い息が、やけに近く感じた。

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