きみたちの未練

新木稟陽

いちばんの友達

 走る。

 少年は、身一つで全力疾走していた。厳密には、ポケットに財布と手にスマホを持って。

 学校から駅までが遠いことを、今日ほど呪った日はない。当然、授業も只中のこんな時間に直通バスは無く、少ない路線バスを待つほど心に余裕がなかった。

 ブレザーも鞄も置いてきた。驚いた教師に碌な返事も返さず、教室を飛び出してただ駆けた。それを思い返し、自分が上履きのままであることにやっと気付く。が、戻るつもりもない。

 心臓の鼓動も、上がる息も、横を走る車の音さえ聞こえない。足が、身体が勝手にそうしている。


 敢えて良かった点を挙げるなら、時間帯だろう。授業合間の休み時間だったおかげで丁度スマホを見ていた。部活中だったら終わるまで気付けなかっただろう。

 良かった? そんなわけがあるか。こんな事態は、いつ何時であろうと不幸に違いない。

 そういえば、こんなにも必死に走ったことがあるだろうか。スタメンを張っている部活の試合中でさえ、無いかもしれない。まぁ自分のポジションはボランチだから、他と比べてあまり走りまくるポジションでもないが。


 何も考えられず、かといって無心にもなれず。そうした益体も無い考えがひたすら頭を巡り、どこかへ消えていく。

 自分が足を止めていることに気が付いたのは、駆け込み乗車を成功させたあとだった。

 ここからはたったの三駅。しかしその時間すらもどかしい。車掌を脅して、目的地までの直通電車にさえしてやりたい気分だった。


「……あ、悠河君」


 目的地の病室に着いたとき、それに最初に気が付いた女性は力なくそう漏らす。


「ごめんね、こんな時間に。ありがとうね。」


 泣き腫らした目から今も涙をこぼし続ける彼女は、上ずった声で言う。


「本当に、ありがとうございます……。」


 そして、深く腰を折った。

 大人が人目も憚らずに泣くのも、自分に敬意を持って敬語を使われるのも、こうして深々と礼をされるのも。それら全てが悠河にとって初めての体験で、場違いにも呆気にとられてしまった。

 そしてなにより、その敬意が悠河の胸を締め付ける。彼女は、本当に本心から悠河へ感謝している。17年しか生きていない悠河にも、どういうわけかはっきりとわかった。

 自分よりも、誰よりも辛いはずの彼女が。本当なら大声で泣き散らして、医者や看護師や、会いに来た自分や世界すら呪って八つ当たりをしたくなったとしても責められない彼女が。


「……あ、の」

「入って」


 気がつけば悠河の手を握っていた彼女が、もう片方の手を肩に添えて部屋へと招く。


 そこに横たわるのは、力なく眠る少年。


 息を引き取った、悠河の親友だ。


 他人から見れば綺麗な死に顔、なんだと思う。安らかに眠っている、そう言える顔だと。しかし、悠河には「綺麗な顔だ」なんて思えなかった。

 重い病を患い、ここ数年は病院暮らしだった親友。悠河にも学校生活がある。部活もあるし、彼女はいないが他の友人と遊ぶ時間も必要だ。それでも、週に一度は必ず訪れていた。かつて──小学生の頃は丸顔だった親友。彼は日に日に、だんだんと痩せ細り、最期には骨の浮いた薄い体になっていた。

 それは、毎週見ていても決して慣れることがなかった。命の灯が段々と消えていくようで、目を背けたかった。正直、もう会いたくないとさえ思いもした。だが同時に、目を離した隙にその灯が消えてしまう気もして、そんな恐怖が悠河をここへ引き留めた。


「……あ」


 しかし、どれだけ見張っていたところで灯は消えるという当たり前の事実を、目の前の遺体はありありと主張してくる。


「あの、すいません」


 結局掛ける言葉も見つからず、悠河はフラフラと病室を出て廊下のベンチに座り込む。母親も息子の親友の前で声をあげて泣けないだろう、そう思って扉を閉めた。今の悠河にできる、ギリギリの気遣いだ。


「ぁー……」


 そもそも自分は、ここへ何をしに来たんだろう。死者の蘇生なんてできるはずがない。医療知識もないから、重箱の隅をつついて「もっとこう出来た筈だ」と病院に難癖をつけることも出来ない。親友やその母親に気の利いたことも言えず、こうしてベンチに座ってひたすら。


「……くっ」


 ひたすらうずくまって、涙を流すしか出来ない。

 この役立たずは、学校をサボって何をしに来たんだ。ここでこの悔しさを乗り越え、親友を殺した病を潰すために医者や研究者の道を志す、なんてことができたら美談になったかもしれない。

 しかし、そんな気概は悠河になかった。たとえそれを成功させたところで、親友──風音は助からない。同じ病に苦しむ他人が助かったところで意味がない。悠河は、そこまでの聖人君子では、ない。

 そうやってぐるぐると自分を責め立てていた時。その思考は、外部から突然破られた。


「──ぉわぁっ!?」


 項垂れるその肩を、突然誰かに殴られる。言ってしまえば、肩パンだ。それもかなり腰の入った一発。一気に現実に引き戻されると同時、先までの自責思考が嘘のように晴れ、即座に脳内が回転した。


「この……っ!」


 無二の親友を失い、絶賛心障中の身だ。明るく励まそうとでもしたのか。だとしたらあまりにも空気が読めていない。

 そんな怒りを、ここまで自分の腹のなかで煮立っていた苛立ちとまとめてぶつけようとして。


「──ぁ?」


 殴られた右肩。その方向には、誰もいなかった。否、厳密にはいる。しかしそれは廊下のずっと先を歩く看護師のみ。今あげた声すら届かないような距離だ。もしその看護師が肩を殴って走り去ったのだとしたら、彼女が看護師をしているのは日本陸上界の損失だろう。


「え……あ?」


 息つく間もなく、今度は左肩を叩かれる。

 振り返る。今度は紛うことなく誰もいない。

 悠河は、自分に呆れ果てた。あまりのショックに、幻覚ならぬ幻触を感じるほどになったと。


「うわぁ!?」


 そんな悠河を嘲笑うかのように、触覚は背中をなぞられたと訴える。くすぐったく、そして気味の悪い感覚に悠河は思わず仰け反った。

 ベンチから転がり落ち、先まで背中を向けていた方向を睨みつける。何もない。周りを見渡す。誰もいない。


「な、なん──」


 今度は両肩をガッシリと掴まれ、動きを封じられる。痛くはない。が、動けない。

 悠河も運動部だ。それなりに鍛えてはいる。だが、動けない。得体のしれない恐怖に体が竦むのもある。だがそれ以上に、単純な押さえつける力の強さに負け、動けない。


「なんで、こんな──」


 なんでこんなにも、無様を晒さなければならないのか。そう言いかけた瞬間、肩の拘束が解かれた。

 だけではない。間髪入れず、両肩を二回とんとんと叩かれる。


「……もしかして」


 あり得ない。

 そんなはずはない。

 悠河は、人一倍スピリチュアルを否定する質だ。エンタメとして創作上のオカルトは楽しむが、それらが実在するなんて露ほども思っていない。最初に自分の幻触を疑ったのも、そういった性格故だ。


 だが。

 もし、そんなことがあるのならば。


 今までの自分の考え方を否定し、そんな僅かな希望に縋り付いてしまうくらい、悠河は憔悴していた。


「……かさね?」


 ほんの少し前に息絶えた親友の名前を呼んだ瞬間、悠河の背中はバシバシと叩かれた感覚を主張する。

 それが、正解だと言わんばかりに。


「ぅあぁ!?」


 続け、人さし指でくすぐるように背をなぞられる。

 ──否。これは、くすぐりではない。


「……『う』……『ん』」


 人さし指の先で、その形をなぞられた。

 一拍おいて、もう一文字。


「…………『ち』?」


 悠河の触覚以外が否定し、触覚のみが肯定する感覚。それが齎した言葉──うんち。


「……くっ」


 思わず、小さく息が漏れ。


「あっはははははは!」


 病室の扉一つ隔てた先からは、未だ女性の咽び泣く声が漏れ聞こえている。そんな状況なのに、悠河は声を上げて笑った。

 風音の母親──杏子も怒りはしないだろう。きっと、悠河がおかしくなったとでも思ってくれる。尤も、今の悠河にそこまで周りを気にする余裕はないが。


「クソ、馬鹿」


 大方、返答としての『うん』を書いたあとに『ち』を続けることを思いついたのだろう。風音流に言えば『神の一手』だ。

 くだらない。これは間違いなく、風音だ。もしくは本格的に頭がイカれた悠河の妄想という線も捨てきれない。

 少なくとも、悠河の中の親友のイメージはそういうものだった。同級生と接する機会が少ないから、精神年齢の成長は少し遅い。しかし同年代で唯一頻繁に接触する悠河から様々を吸収し、病室で寝たきりにも関わらずどんどん成長した。もし彼が人並みの人生を送れていたら、きっともっと大人びて、さぞ女子にもモテただろう。顔も悪くなかったし。

 同時に、ある意味では既に非常に大人びていた。彼は自分の死期を理解し、それを恐れていなかった。ものごとを受け入れ、あるがままな人間。正直言って気味が悪いくらいに落ち着いていた。


「ほんと、風音は……」


 病室では映像媒体のエンタメずくめだった。映画やドラマ、アニメを見漁る。とりわけ好きなのはスポーツ観戦だった。悠河の出場した高校サッカー選手権も観ていてくれた。そして普段観ている欧州トップリーグのフットボールと比べ、『悠河は向こうでも通用する』なんて過大評価をして。


「っと……『キ』……『ヅ』、『イ』……『タ』」


 再び背中をなぞられた。突然溢れ出したきた思い出スライドショーに無理やり蓋をして、その感覚に集中する。


『カタカナノホウガハヤイ』

「……はっ、どうでもいいって」


 そんなこと、いちいち言わんでいい。

 風音の霊(仮)は続けて書く。


『カバンハ?』

「学校置いてきた。」

『アホ』

「おい……誰のためだと……」


 言いかけて、止まる。

 誰のために来たのだろうか。風音にも、その母にも気の利いた台詞を言えない自分は。

 ついさっきハマっていたドツボにまたハマりかけ、意識を散らすように首を振る。こんなこと考えても仕方がない。


『ア ソウダ』

「え?」


 そのひと書きを残し、肩や背中から風音オバケ(仮)の感覚が消える。と思えば、病室の扉がひとりでに開いた。

 杏子、医師、看護師。まだ、病室の誰もそれに気付いていない。が、次の瞬間にはその全員が目を剥くことになる。

 寝台の横の棚が開き、中からノートとシャーペンが浮遊。そのまま部屋の外へと向かう。それも、透明な誰かが持って歩いているような挙動で。

 この瞬間、さほど驚かなかったのは悠河一人だ。彼は驚くどころか、心の底から喜んだ。

 風音の霊は存在する。自分の幻触ではない。その場の全員が、そのノートとシャーペンを目で追っていたから。

 それらは悠河の横を通り過ぎ、数分前に悠河が座っていたベンチの上に着陸する。それを見て、自分が地べたに座っていることに気付いた。

 しかし、ベンチに座り直しはしない。悠河は少し移動して、ノートの斜め手前に膝をつく。

 きっと隣に、風音がいる。


『おお素晴らしい。これならスラスラ書ける。書ける? ってか意思疎通がかのー?』

「どうでもいいって。もっとなんか、あるだろ」

『まー時間せーげんとかあるかもわからんしね。』


 書いているうちに漢字が減り、伸ばし棒やひらがなが増える。漢字は得意なくせに。そんな面倒臭がりなところも、実に風音らしいなと笑える。

 ふと振り返れば、病室内の面々は呆気にとられたまま走るペンを眺めていた。

 少しいい気分だった。

 今この瞬間、風音の一番の理解者は自分だ。杏子には申し訳ないが、この状況を最初に咀嚼したのは自分だ。風音と最初に話す権利は頂く。


『ありがとう』

「────」


 さっきまで馬鹿で、どうしようもなくどうでもいい言葉ばかり並べ立てていた風音。それが突然、このひと言を差し向けてきた。

 こんな、単純な五文字に。


「なんでこんな、クソ……」


 不意打ちみたいに、ズルい。馬鹿のくせに、こんな狡い手を使やがって。そしてこの単純な手にまんまとハマる自分も情けない。

 ボロボロとこぼした涙を袖口で拭う悠河を、しかしそのシャーペンは煽らなかった。どこか居心地が悪そうにノートの端に黒い汚れを作っている。


『悠河も死んだら一緒にサッカーしよ。現役1000ゴールするまでは死ぬな』

「俺のポジションなんだと思ってんだよ」

『じゃあ500アシスト あとバロンドール』

「無茶な……。いや、わかった。でもそうなったら1on1してもボコボコだぞ」

『ナメんな。今のオレムッキムキだから。』

「いやいや……」


 そんなわけ、と言いかけた。が、案外ただの軽口でもないのかもしれない。ただでさえこのわけの分からない状況。もし見えないだけで風音自身の体があるなら、それが病床に伏していた今までと同じとも限らない。


「俺が死ぬまで練習しとけ」

『うい』


 ふと気配を感じて上を見上げると、親友の母がノートを覗き込んでいた。


「俺の番終わり。言う事あるだろ」

『そだね』


 その返事を見て、悠河は立ち上がる。気は済んだ。いや、済んでない。きっといつまでも済まない。ただ、いつまでもこうしているわけにもいかない。このままここに居たら、何時までも離れられなくなってしまう。

 先までとはうってかわって、いやに清々しい気分だった。今日ここへ走ったのは、きっとこの為だったのだ。


「悠河君!」


 ノートに背を向けて数歩歩き出したところを呼び止められ、顔だけ振り返る。

 声を上げた張本人である杏子は泣き腫らした目──しかし先よりも少し明るい顔で。


「『またなんにちか後に』だって!」


 その言葉に、悠河はまた腹から笑った。


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