第4話 朝に届かない
十一月の深夜。
事務所には小さなストーブが置かれていた。
赤い熱が、壁に二人の影を揺らしていた。
その夜、二人は言葉をほとんど交わさなかった。
互いに近づく動きだけが、静かに決まっていた。
指先。
肩。
首筋。
呼吸。
皮膚の温度だけが、確かなものとして残っていた。
富田が見ていたのは、結菜の目ではなかった。
濡れた黒髪の輪郭。
細い肩の線。
伏せた睫毛の影。
その断片に、若い頃の妻の面影が不意に差した。
失った時間のほうが、いま触れている肌より鮮明に思える瞬間があった。
「……綺麗だ」
掠れた声で言った。
結菜は目を閉じた。
彼女もまた、富田自身を見てはいなかった。
目元の深い皺。
白いものが混じる髪。
大きな掌。
疲れた沈黙。
幼いころに置いていかれた父の、曖昧な残像がそこにあった。
二人は互いを抱きながら、別の誰かの不在へ手を伸ばしていた。
それでも、温度だけは本物だった。
夜の深みの中で、呼吸が重なる。
富田は額へ唇を寄せた。
「愛しているよ」
その言葉が、誰へ向けられたものなのか、自分でも分からなかった。
結菜の爪が、首筋へ浅く食い込んだ。
かすかな息が漏れた。
「……お父さん」
富田の肩が、わずかに震えた。
もう何も言わなかった。
ストーブの赤だけが、部屋の隅で揺れていた。
やがて結菜は、富田の腕の中で眠った。
子どものように、深く。
富田はしばらく、その寝顔を見ていた。
泣いたあとに眠る人間の顔は、どこか無防備だった。
毛布を静かに掛け直した。
指先が、一度だけ髪に触れた。
それが、最後だった。
朝だった。
薄い冬の光が、事務所の床を斜めに切っていた。
結菜は目を覚ました。
隣の温もりがなかった。
「……店長」
眠気の残る声で呼んだ。
返事はなかった。
椅子が倒れていた。
その先で、富田の身体が静かに揺れていた。
結菜は、しばらく意味を理解できなかった。
時間だけが先に流れた。
それから、毛布を払い、床へ落ちるように這い寄った。
「……嘘」
掠れた声だった。
富田の足に縋りついた。
冷たかった。
揺らした。
もう一度。
何度も。
「起きて」
声が割れた。
「置いていかないで」
嗚咽が崩れた。
「……店長」
そのあとに続いた呼び名は、声にならなかった。
泣きつづけるうち、窓の光が少しずつ白く強くなった。
叫びは嗚咽へ変わり、嗚咽は沈黙へ変わった。
どれほど経ったのか分からなかった。
やがて結菜は、ゆっくり顔を上げた。
腫れた目で、富田の手を見た。
働きつづけた、大きな手だった。
皺が深く、節が太く、温度を失っていた。
結菜は震える指を伸ばし、その上へそっと自分の手を重ねた。
長い沈黙。
誰も来ない朝だった。
そして、低く呼んだ。
「……店長」
一度、息を吸った。
唇が震えた。
「お父さん」
声は薄暗い部屋に触れ、すぐに消えた。
外では、朝の配送トラックが走っていた。
店は、何事もなかったように開く時間へ向かっていた。
その朝だけが、二人の夜の続きとして、どこにも届かなかった。
(了)
十九歳の彼女は、店長をお父さんと呼んだ 霧島 慎 @kirishima_s
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます