第2話 ノック


それから、深夜の事務所は、二人だけの沈黙を抱えるようになった。


週に二度ほど。


他の従業員が帰り、店内の足音が消えたころ、控えめなノックが鳴った。


富田は、その音を待つ自分に気づいていた。


「……入って」


結菜は扉を閉め、静かに椅子へ座った。


言葉は少なかった。


何かを約束したわけでもない。


ただ、近づいていった。


富田の荒れた指先が、制服の布越しに熱を探る。


結菜は小さく息を詰め、ときどき富田の頭を胸元へ引き寄せた。


髪に触れる指が、どこか子どものように慎重だった。


「……大きいですね」


ある夜、結菜が呟いた。


「父の背中も、こんなだったのかな」


うわごとのように言って、すぐ黙った。


富田は返事をしなかった。


それでも拒めなかった。


結菜は、富田の孤独を見ていた。


妻の話をするとき、不意に途切れる声。


ひとつの沈黙が長くなる横顔。


夜の終わりを知っている人間だけが持つ、わずかな疲れ。


そこに、自分の若さを差し出せると思っていた。


富田もまた、温もりの中で失った何かを拾い上げていた。


必要とされる感覚。


名を呼ばれること。


誰かの手が、自分へ伸びること。


それが愛ではなく、飢えに近いものかもしれないと、理解しながら。


二人は、決してすべてを脱がなかった。


その曖昧な境界だけが、まだ壊れていないもののように思えた。


息が重なる夜、富田はときどき結菜の耳元で囁いた。


「……綺麗だ」


それは、妻に最後まで言えなかった言葉だった。


結菜は目を閉じ、富田の背へ爪を立てた。


「行かないで」


小さく、何度も繰り返した。


富田は、その痛みを振りほどけなかった。


皮膚に残る細い痕よりも、その声のほうが深く残った。


深夜の店内では、冷蔵庫の低い唸りだけが聞こえていた。


外では季節が少しずつ移り変わっていたが、二人だけは、同じ暗がりの中に留まりつ

づけていた。



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