Case1-5 人の心を支配する薬
どれくらい時間がたっただろうか? ふと意識が戻ると自宅ではない何処かで倒れ伏していた。身体中の快感が、ゆっくりと、しかし確実に薄れていくのを感じていた。まるで、熱い湯船から、冷たい水の中に引きずり出されるような感覚だ。だが、昨日、一昨日と経験したような、あの激しい虚無感や焦燥感は、不思議とない。ただ、漠然とした物足りなさ。
(なぜだ…? 薬が効かなくなっているのか…?)
脳が、ゆっくりと覚醒していくのを感じる。ユウナの言葉が、脳裏でこだまする。「私が、貴方の主人です。」。その言葉が、俺の思考を支配していたはずなのに、今は、それが遠くの音のように響く。
(本当に、この女に従うのが…正しいのか…?)
俺は、情報屋だ。裏社会の情報を操り、時に人を騙し、時に利用する。自分の生き方を、常に自分で選択してきた。それが、俺の正義だったはずだ。しかし、先日、俺は彼女の言葉に従うことだけを考えていた。仲間の情報を差し出し、彼女の正義のために尽くすことが、至上の喜びだと。
(いや…違う…!)
意識が、鮮明になっていく。昨日、一昨日、その前と……自分がどんな意識の中でどんな行動をとってきたのか、少しずつ、思い出してきた。それが薬によるものだと理解した上で全て。彼女の支配が、薄れていく。俺の心が、本来の自分を取り戻そうとしている。あの甘美な快楽は、薬によって作り出されたものだ。そうだ、薬が切れた今、彼女の命令に、俺はもう従う必要などない。そうだ。俺は、自由だ。……そうだろうか? 何か、一つ、決定的なことを忘れているような……その時、ドアが静かに開いた。
顔を上げると、そこにユウナが立っていた。その白い実験着が、冷たい照明の下で不気味に輝いている。彼女は、俺の表情を一瞥すると、満足そうに口角を上げた。その手には、やはりあの注射器が握られている。
(なぜ、このタイミングで…!)
そもそもなぜ彼女がここにいるのか。その疑問はすぐに解けた。ここは、最初に拘束されていた場所と同じ場所じゃないか。何故俺は気づかなかった!? 彼女は、俺の心の揺らぎを、見透かしているかのように。ユウナは、静かに俺の前に立つと、その手にある注射器をゆっくりと持ち上げた。抗おうとする理性と、薬を求める本能が、激しくぶつかり合う。だが、身体は、もうすでに彼女の命令を待っていた。動けない。
「さあ、私の忠実な犬。貴方は、これを求めているのでしょう? 私の褒美を。いらないの?」
彼女の声が、甘く響く。その言葉に、身体中の細胞が歓喜に震える。ああ、そうだ。この快感を、この方を、俺は求めている。抗う意識が、急速に薄れていく。彼女の狂気の瞳が、俺の全てを吸い込んでいく。……そうだ、忘れて、いた……俺は、俺を、捧げると……
俺は、俺の、この、抵抗しようとする自分自身とともに、ユウナ様に腕を差し出した。
「思い出した? さっきまで色々画策してたみたいだけど、無駄だってことが分かったみたいね。貴方は私の忠実な犬になることこそが至福だと、今、こうして選択したのよ。素晴らしい事じゃない。今回のご褒美は格別になるはずよ。楽しみなさい。」
針が、腕に突き刺さった。冷たい薬液が、血管を駆け巡る。尋常ではない激痛が、脳髄を貫いた。しかし、その痛みを凌駕するほどの、強烈な快感が全身を襲う。意識が、一瞬で白く染まり、思考が溶けていく。そうだ、溶けろ。溶けてしまえ。ユウナ様に抵抗する俺なんて、全部……
「どう? 今日のは格別でしょう? 貴方が自分で自分の立場を認識した上で受け入れた、特別な感覚だったはずよ。さあ、いつもの宣誓からはじめましょうか。さあ、復唱しなさい。私が、貴方の主人です。私の言葉こそが、貴方にとっての唯一の真実。貴方の意志は、私の意志。貴方の思考は、私の思考。私の正義は貴方の正義、そして、この街の正義は私そのもの。わかりますね?」
彼女の声が、脳の奥深く、魂の根源にまで響き渡る。抗うことなど、もはやできない。この方の言葉こそが、俺の全て。
「貴方が俺の唯一のご主人様です……ユウナ様……貴方の言葉こそが全て……貴方の意志こそが、俺の意志……貴方の思考こそが俺の思考そのものであり、貴方の正義はこの世のすべて……」
震える声で、しかし確かな響きをもって、俺は復唱した。この言葉を口にするたびに、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。ああ、この方が俺の主人。その事実が、何よりも俺を満たしていく。
「素晴らしいわ、忠実な犬。本当に貴方は優秀ね。私が何を望んでいるかよくわかっている。その頭脳はこれからは私のためだけに使うのよ。」
ユウナ様は俺の回答に満足し、俺を自分だけのものにしてくださると言ってくださった。何よりの至福の言葉だった。胸が張り裂けんばかりに脈動する。そうだ、そうだそうだ。この方こそが、全て……
そんな絶頂を堪能している俺に、ユウナ様はさらに忠誠心を与えてくださる一言をくださった。
「では、貴方にとっての正義とは? 私の正義とは?」
「俺の正義は、貴方です……貴方が正しいと定めたことだけがこの世界の真実であり、正義……」
彼女の価値観が、まるで血のように俺の脳に流れ込み、俺の思考を完全に塗りつぶしていく。以前の自分が何を信じていたのか、どんな価値観を持っていたのか、もはや思い出せない。いや、思い出す必要もない。この方の言葉だけが、俺の正義だ。
「よくできたわ。では、貴方の持つ情報網から、私の正義の邪魔をする者たちを、私に差し出しなさい。昨日よりも、もっと多く、もっと深く、私を喜ばせてごらんなさい。優秀な貴方なら何が必要なのかは言わなくてもわかるわよね?」
彼女の命令が、まるで聖なる啓示のように、俺の脳裏に響いた。昨日まで僅かに感じた葛藤は、もはや存在しない。俺にとっての正義を邪魔する者たち。彼らを差し出すことこそが、この方を喜ばせる、唯一の道だ。脳裏に、かつての仲間たちの顔が次々と浮かぶ。一人、また一人。俺にとって、もはや価値のない者たち。彼らを差し出すことが、俺の至上の喜びなのだ。
「はい…喜んで…!」
俺は、声にならない声で返事をしながら、次々と情報を差し出した。この俺にしかできないユウナ様への奉仕。俺にだけ許された行為。体が、自然と動いた。昨日売った男よりも、さらに仲の悪かった者たち。そして、俺が密かに重要視していた、しかし今となってはどうでもいい存在となった者たち。彼らの情報が、言葉として、映像として、彼女の前に捧げられる。彼女の顔に、更なる満足の笑みが浮かぶ。その笑みが、俺の全てを満たしていく。
「すばらしいわ。よくできました、私の忠実な犬。貴方は、私の期待をはるかに超えてくれたわ。これからもこうして、捧げ続けるのよ。さあ、今日のご褒美をあげましょう。今日は、特別よ。貴方が完全に生まれ変われるように。」
ユウナ様は、再びトレイから、新しい注射器を手に取った。追加の投与。この上ない褒美だ。彼女が、俺に更なる快楽を与えようとしている。身体中の細胞が、歓喜に震える。この特別な褒美を受け取るために、身体は心臓の鼓動を最大限まで引き上げた。
針が、俺の腕に突き刺さる。そして、今まで感じたことのない、途方もない快感が、脳髄を直接貫いた。視界が、真っ白になる。思考が、完全に停止する。感情が、すべてが、消え失せた。
「私が、貴方の主人(あるじ)です。貴方は、私の忠実な犬。わかりますね?」
白く染まった思考の海の中で、彼女の声だけが、鮮明に響き渡る。その言葉が、俺の魂の奥深くに、永遠に刻み込まれていく。
「はい…貴方が…俺の…主人…です…俺は……貴方の……忠実な……犬で……幸せです……」
俺の唇から漏れるその言葉は、もはや何の葛藤も、違和感も含まれていなかった。ただ、絶対的な忠誠と、途方もない快楽に満たされた、純粋な肯定の言葉だった。
俺は、彼女の足元にひれ伏したまま、彼女の存在だけを感じ続けた。意識は、彼女の傍から離れることを許さない。もはや、俺に自我などない。必要はない。俺は、ユウナ様の、完全な下僕と化したのだ。なんと素晴らしい事だろうか!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます