悪女

@hiro18782

第1話

第一章 「会いたかったです」


 五十九歳になってから、自分の顔をまともに見ることが減った。

洗面所の鏡に映る男は、目の下にたるみを作り、白髪を無造作に伸ばし、どこか“終わった人間”のような空気をまとっている。

 若い頃は営業成績も悪くなかった。社内の女性にもそれなりにモテた。三人の女性社員と付き合った。その中の一人が今の妻だ。娘が生まれ、2年後に息子も生まれた。順風満帆だと思っていた。

なのに今はどうだ。

「パパ、どたどたうるさい」

朝、リビングで顔を合わせた娘のソラは、スマホから目を離さないまま言った。

ヒロトは言い返しかけて、やめた。

30歳になるソラは、うつ病を抱えていた。大学を休学してから、昼夜逆転の生活が続いている。少しのことで感情が荒れ、妻のマヨと衝突するたび、家の空気は重く沈んだ。

そしてそのたびに、ヒロトは「パパ余計なことを言わんといて」とマヨに責められる。

夫婦生活がなくなって、もう十五年になる。

最後に抱き合った夜がいつだったか、正確には思い出せない。

思い出せないことに、少しだけホッとする。

マヨは悪い女ではない。 むしろ真面目で、娘のために必死だった。

だが気づけば、ヒロトは家の中で“父親”と“ATM”以外の役割を失っていた。

帰宅しても、誰もヒロトを見ない。

夕食はラップがかけられ、冷蔵庫に置かれている。

一人で食べ、一人で風呂に入り、一人で眠る。

その繰り返しだった。

 ある金曜の夜、ヒロトはいつものように会社帰りに一人で安い居酒屋へ入った。 カウンター席に座った。

隣では若いサラリーマンたちが大声で笑っている。

「部長って、マジ、ウザくないっすか?」

「ほんまわかるわー!」

その笑い声を聞きながら、ヒロトは冷酒を口に流し込んだ。

 昔は自分も、あんなふうに誰かと笑っていた気がする。

スマホが震えた。

営業部のグループLINEかと思ったが違った。

 数日前、酔った勢いで登録したマッチングアプリからの通知だった。

『サオリさんからメッセージが届いています』

ヒロトは少し迷ってから開いた。

『はじめまして。プロフィール見ました。優しそうな人だなって思ってメッセージしました』

写真には、柔らかそうな笑顔の女が映っていた。

二十九歳。看護師。 大阪市中央区

こんな若い女が、本当に自分みたいなおっさんに連絡してくるかな?

どうせ業者やろ。

そう思った。

 だが、それでも返信してしまった。

『ありがとうございます。五十九歳のおじさんです?こんな僕でもいいですか』

すぐに返事が来る。

『年齢ってそんなに大事ですか?』

ヒロトは思わず笑った。

久しぶりだった。

 スマホを見て笑ったのは。


『ひとつだけ条件があります。最初だけホテル代別の2万円をお願いします。前にやり逃げされたから、でも、それは最初だけで2回目にはそれをデート代として私が払います。それでも良かったら連絡ください。』

『了解しました。それでOKです』

そこから毎日、やり取りは続いた。

『お仕事お疲れ様です』

『ちゃんとご飯食べました?』

『ヒロトさんって、寂しがり屋ですよね』

その言葉が胸に刺さった。

誰にも見抜かれたことがなかった部分を、初めて触られた気がした。


一週間後。


 二人は梅田で会う約束をした。

待ち合わせ場所のカフェ前で、ヒロトは何度もスマホを確認した。

本当に来るのか。

からかわれているだけじゃないのか。

そんな不安が頭を巡る。

すると。

「ヒロトさん?」

振り向いた瞬間、ヒロトの呼吸が止まった。


 黒い派手な横文字の入った革ジャン。

 短すぎるほど短いデニムのミニスカート。

 太ももは冬の夜気にさらされているのに、彼女はまるで寒さを感じていないように立っていた。


 肩までの茶色い髪。

 少し濃いめの化粧。

 ヒールの音。


 ――若い。

そして同時に、“まともじゃない女”の匂いがした。

だがヒロトは、その危うさから目を離せなかった。

服装を事前に伝えていたのでヒロトを見て女は小さく笑った。

「ヒロトさんですか、サオリです。会いたかったです」

吐く息が白く混ざる。

その瞬間。

五十九歳のヒロトの中で、長い間死んでいた何かが、ゆっくり目を覚ました。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る