第二話 〇・三ミリ
翌朝も、工場へ行った。
理由は自分でもよくわからなかった。社長の「明日も来るか」に、私は何も答えなかった。答えないまま帰った。それで終わりのつもりだった。
でも朝、目が覚めたら身体が動いていた。
母と顔を合わせたくなかった、というのが正直なところかもしれない。実家の朝食は気まずい。沈黙が多い。あの沈黙の中にいるより、見知らぬ工場の方がまだましだった。
自分の行動原理が消極的すぎて、少し笑えた。
工場は、昨日と同じ時間に開いていた。
引き戸を開けると、もうミシンの音がしていた。全員すでに作業中だった。私が入っても、誰も顔を上げなかった。
社長が奥から出てきた。
「来たね」
「システム(管理装置)の確認だけします」
「ああ」
それだけで会話が終わった。社長はまた奥へ消えた。
私は昨日座った椅子に座って、パソコンを開いた。バックアップ(予備保存)が正常に動いているか確認した。動いていた。発注データ(注文情報)も問題なかった。本来の目的は五分で終わった。
帰ればよかった。
でも、なぜかそのまま座っていた。
工場の中を、初めてちゃんと見た。
広さは、テニスコート一面くらいだろうか。天井が高い。窓が多い。自然光が入るように設計されている――おそらく、生地の色を正確に見るためだ。
ミシンが六台。うち稼働(かどう)しているのが四台。作業台が三つ。棚には生地のロール(巻き反物)が並んでいる。色は地味なものが多い。白、生成(きな)り、薄いベージュ、灰色。派手な色は一本もない。
職人は今日も六人いた。
全員が黙って働いている。会話がない。でも、不思議と殺伐(さつばつ)とした空気ではなかった。それぞれが自分のリズムで動いていて、そのリズムが干渉し合わずに共存している。
私はその空気が、少し羨ましかった。
一番手前で作業していた女性が、私の方を見た。
昨日「なんねその速さ」と言った人だ。七十代に見える。白髪を後ろで束ねて、作業着の上に薄いエプロンをかけている。顔の皺(しわ)が深いが、目が若い。
「座っとるだけ?」
「確認作業が終わりました」
「じゃあ帰ればよかとに」
「……そうですね」
帰らなかった。女性も、それ以上何も言わなかった。
しばらくして、女性が手元を見たまま言った。
「あんた、肩、右の方が上がっとる」
私は自分の肩を見た。言われてみれば、確かに右が少し上がっている気がした。
「ずっとそうですね」
「パソコンの打ち方が悪か。右手に力が入りすぎとる」
「……わかりますか、そんなことが」
「見ればわかる」
それだけ言って、女性はまた作業に戻った。
昼になった。
全員が手を止めて、弁当を出した。私は何も持っていなかった。
「食べていかんの」
社長が、どこからともなく現れて言った。
断ろうとした。でも、職人の一人がすでに私の隣に弁当箱を置いていた。卵焼きと、切り干し大根と、鮭(さけ)の切り身。
「食べ。冷める」
白髪の女性が言った。名前を、まだ知らなかった。
弁当を食べながら、少しだけ話を聞いた。
白髪の女性は、田中ヨシコといった。この工場に来て四十二年だという。
「四十二年」
「そう。あんたが生まれる前から縫っとる」
「……祖母のことは、知っていますか」
ヨシコさんは少し間を置いた。
「フミさんね。知っとるどころじゃなか」
「どういう人でしたか」
「変な人」
即答だった。
「普通の型紙師(パタンナー)はね、寸法で考える。バストが何センチ、ウエストが何センチ。数字で設計する。でもフミさんは違った」
ヨシコさんは卵焼きを箸(はし)でつまみながら続けた。
「『この人は今日、疲れとる』とか、『この人は来月から体型が変わる』とか。そういうことを言いながら型紙を引く。最初は意味がわからんかった」
「でも当たるんですか」
「全部当たる」
ヨシコさんは私を見た。
「あんたの婆(ばあ)さんはね、人間の身体を読むのが仕事やった。布じゃなくて、人間を」
私は弁当箱を見た。
人間を読む。私が東京でやっていたことと、同じ言葉だった。
午後、ヨシコさんが私を呼んだ。
「ちょっと来て」
作業台の前に連れて行かれた。白い生地のサンプルが広げてある。
「触ってみて」
私は恐る恐る生地に触れた。柔らかい。滑らかだ。それ以上のことは、わからなかった。
「どう?」
「……柔らかいです」
「それだけ?」
ヨシコさんは少し呆れた顔をした。
「これはね、体温を持ちすぎとる。長く着たら皮膚がストレス(負担)を感じる。身体がね、『こいつは違う』って言い始める」
「あんたはまだ、身体で読めん」
ヨシコさんは言った。責めている口調ではなかった。ただ、事実として言っていた。
「頭で考えすぎとる人間はね、指先が眠っとる」
私は自分の右手を見た。
キーボードを打つための手。データ(数値情報)を処理するための手。この手で、生地の訴えを読むことが、私にできるのだろうか。
夕方、帰り際に社長が言った。
「明日も来るか」
「システム(管理装置)の保守が必要なら」
「そういう意味じゃなか」
社長は笑った。工場に来て初めて見る、人間らしい表情だった。
「まあ、来たければ来い」
引き戸を開けたとき、後ろでヨシコさんの声がした。
「明日、別の生地を触らせてやる」
振り返らなかった。
でも、足が少し軽くなった気がした。
了
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